2.九条坂 その1
手詰まりの状況は継続中だった。
しかし焦りを先立たせれば誤りに向かう危惧も増す。こんな時こそ自制や見方を変えた思考が有効なのは久吾自身も分かっていた。
昨日は引き継いでから初めてとなる被害者家族との面談を行った。彼らの身に起きた悲劇を蘇らせる側面もあるものだったが、新たな見解に繋がるものは見つけらず、肩を落として帰っていく姿を見送る以外に得られたものはなかった。だがその翌日、深夜も近い時刻に一人の女性が警察署を訪ねていた。
「すみません、私の都合でこんな夜遅くにお時間を取らせてしまって」
「いえ、いいんですよ。どうぞおかけになってください」
看護師をしているという彼女は待合室の椅子から立ち上がり恐縮の表情を見せると、櫻木の言葉にようやく腰を下ろす。
彼女は三人目の被害者であり、唯一の女性被害者、常磐恵の姉である常磐沙織だった。彼女は昨晩、妹の部屋であるものを発見したという。
「あれから数ヶ月が経ちましたが、恵の……妹のことを考えない日はありません……今でも彼女が『ただいま』って言って帰ってくるような気がして、まだ信じられない思いがあるんです……」
「ええ、分かります」
櫻木が返した同意に彼女も頷く。
常磐沙織は今も悲しみを癒せない表情で、静かに語り始めた。
「それで……昨日も妹の部屋で昔一緒に撮った写真を眺めていました。家族四人で山登りに行った時の写真なのですがそれを見ていた時に、写真が入っていた写真立ての中に何か別のものがあることに気づきました……開いて確かめてみると、それは二つに折り畳まれた封書でした」
彼女は鞄から白い封筒を取り出した。
櫻木が慎重に受け取ったそれには宛名も住所も書かれておらず、裏にも差出人の名はなかった。
「……恵には悪いと思ったのですが、その手紙を読んでみました。妹は何でも家族に話す子でしたが、それは私達家族の知らない誰かが恵に宛てたものでした……」
《僕はいつも君のことを見てるよ。鏡のこちら側から君を見てる。君からは僕が見えるかい? だけどもし僕等を見張ってる別の存在が見えたとしたら、危険だよ。でもね、君ならどんな状況であっても、きっと大丈夫。僕にはそれが分かるんだ。だって僕は君のことをずっと見てるし、今だって見てる。この手紙は君が心配だからこうして送ったけど、できればすぐに処分して。見張ってる奴らに知られたら、とても危険だからね。もちろんこんなこと、言わなくても君は分かってると思う。だって君は僕にとって、ちょっと〝トクベツ〟だから。でも最後にもう一度だけ言うね、手紙は絶対に処分してよ。必ずだよ。》
櫻木が手紙を読み上げ、沙織の顔を見る。
彼女は無意識なのか眉根に皺を寄せると、再び静かに語った。
「……恵は……妹は少しメンタルが不安定な子でした……周囲や家族には明るく振る舞っていましたが、何かを考え込んでいることが時折ありました……ここではないどこかに憧れるような、そんな夢見がちなところもあったのは確かです。この手紙、妹のそんなところを指摘しているようで、優しい言葉だけど私にはそれが不安に思えて……すみません、いつ貰ったものかも分からないし、本当に恵のただの思い出の品なのかもしれません。でもこの手紙の言葉がどうしても頭から離れないんです。何か……どこか不吉なにおいがするような……本当にすみません、こんな抽象的なことばかり言って……この手紙、そちらにお預けします。捜査が終わっても返却してもらわなくて大丈夫です。刑事さん、今日はこんな夜分に本当にお手数をかけました……」
常磐沙織はその後も何度も頭を下げながら帰っていった。
待合室のテーブルには、証拠品袋に入れられた手紙が残されている。
預かったこの手紙は鑑識課に引き渡した後、指紋採取を始めとした分析が為される。
指紋に関しては被害者と姉以外のものが採取されれば前歴者と照合し、合致すれば対象者を調べる。そこまで行き着いてもその対象者が事件と関わっているとは限らず、実のある結果を得られる確証もない。だが今はどんなものであろうと、容疑者に繋がり得る可能性を手探らなくてはならなかった。
「これ、僕が鑑識課に持っていきます」
「いや、俺が持っていく」
立ち上がった相手を久吾は引き留めた。
今日もとっくに終業時刻を過ぎていた。残業続きの相棒はもう帰宅した方がよかった。
しかし相手は証拠品を手にしたまま、受け渡そうとしない。疲労する顔には強い意思も見えるが、時には切り替えも必要だった。
「櫻木、お前入れ込みすぎだ。少し肩の力を抜け」
「九条坂さん、そのアドバイスはもちろん有り難く受け取っておきますが、でもそれ、今必要ですか? 一刻も早く犯人に迫らないと、亡くなった彼らが浮かばれません。それに……次の犠牲者が既に選ばれているかもしれません……」
相手の表情には追い詰められたようなものが垣間見える。
確かに現実は彼の言葉どおりではあるが、そう考え始めれば思考の堂々巡りは終わることなく、深みに填っていくだけだ。
この仕事はいつ終わるか分からないものに追われ、それを捕らえたとしてもまた別のものに追われる。延々続くループに終結の文字はなかった。
「九条坂さん、それに僕……この犯人のことを僅かですが、分かってきた気がするんです」
「分かったって、何をだ」
「この犯人……仮に今は『彼』と呼びますが、『彼』はもしかしたら被害者達を自分なりに愛していたのではないでしょうか? そうでなければ残虐なあの傷の数々も、そのことにかけられた多くの時間も存在しないものである気がするんです。もっと相手を知りたい。もっと相手に関わりたい。そんな思いが『彼』をあの行為へと駆り立てているのではないでしょうか……? だから僕達がもっと『彼』の心の内側に歩み寄っていけば……」
「櫻木」
「はい」
「随分と犯人に寄り添った考えだな。警察学校でそう習ったか」
「え?……いえ……」
続く言葉を遮ると相手は口を噤む。
表情を硬くした相手の反論が届く前に久吾は言葉を発した。
「今のお前みたいに相手に同調して考えるのは時に有効だが、危険でもある。感情移入は常に表裏一体だ。それに奴に対して、彼や愛してなんて言葉は使うな。戻れなくなる」
櫻木から返る言葉はなかった。
彼自身その危うさは感じていたが、敢えて目を逸らしていたと分かる。
しかしこの仕事を続ける以上、人の闇に近づくこと自体が不穏を感じつつも避けられないものとも言えた。
「それ寄越せ。心配するな、結果はお前に真っ先に伝えるよう鑑識には言っておく」
説得紛いの言葉を向けると、相手はようやく封筒を手放す。その顔には焦燥や悔恨が入り混じるが、久吾は「今日はもう帰れ」と言い渡して背を向けた。
「九条坂さん」
「なんだ」
「なんだか今日はすみませんでした。明日、また……」
「ああ、またな」
振り返ればその場にはいつもと同じとは言い難いが、見慣れた表情がある。
久吾は笑みを返すと、そのまま地下にある鑑識課に向かった。夜勤の職員を見つけ出し、できるだけ早く結果を出してくれるように言づけた後はまた暗い廊下を通って地上に戻る。
外に出て見上げた空には、昏い月が浮かんでいた。
心配していないと言えば嘘になるが、彼はこちらの手助けなどなくともいずれ全てを悟る。今は迷いや寄り道を繰り返しても、自分とは異なる道を一人で歩んでいくはずだった。
駅に向かおうとすると、胸元で携帯電話が鳴った。
表示画面には『可愛い可愛い留可たん』とある。
あの厄災に電話を奪われ、勝手に登録されたものだったが無論出る気はなかった。その後も電話は何度か鳴り続けたが、自らが厄災と認定する相手の呼び出しに久吾が応えることはなかった。




