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1.秋   その1

 目覚めると、自分のベッドに知らない裸の女が寝ている。

 ついでに自分も裸と気づけば、溜息と唸りが混ざったものしかとりあえず漏れなかった。


「マジか……」

 呻いて身を起こすと、秋は片方しかない視界で自室を見回す。

 部屋中に服が散乱する光景を見取れば朧気に記憶が蘇るが、無理にそれらを呼び覚ましたくはない。昨晩やらかした愚行は今すぐにでも記憶の外に蹴り出したかったが、目覚めの寸前まで見ていた夢も最悪としか言えなかった。


 部屋の隅に左目から血を流す黒衣の男が立っている。

 足音もなく迫った男に肩を押されたと思ったら、奈落のようなどこかに真っ逆さまに墜ちていた。

 自分を見下ろす男の顔をその時ようやく見た。

 死に神を思わせる男の正体は、九条坂だった。


「まったく……夢にまで出てくるなって」

 そう呟けば隣から相槌のような鼾が届く。それには再びの溜息と舌打ちが漏れるが、全ては自らの行いから出でたものでしかない。


 名残の欠片もないベッドを下り、散らばった服を回収しながら順に着ていく。

 最後にテーブルの下に落ちていた眼帯を取り上げ、ぼさぼさの髪もそのままに部屋を出ると、不意打ちのように不機嫌顔の留可と出会していた。


「汚いな」

 妹はそう言って、目の前を通り過ぎていく。

 汚いと指すのが昨日と同じ服のことなのか、見知らぬ女を連れ込んだことなのか、多分どっちもなのだろうと秋は思う。


 リビングに向かうと、ソファに座る妹が無表情で一瞥する。

 その顔にはこちらに対する無視が基本的にあるが、何か言いたげなものも僅か横切る。

 ファストフード店での出来事は一晩経った今も尾を引いていた。

 しかし、ぶったのは確かに悪いが、ぶたれるようなことをした方も悪い。

 秋は正面に陣取ると、相手を強く見据えた。


「昨日のこと、俺は謝らないからな」

「別に謝ってもらわなくていいよ。私は謝ってもらうようなことなんてしてないから」

「はぁ? なんだそれ?」

「今言ったとおりだよ。私は秋のうるさい携帯電話を取り上げて、水没させて黙らせてやった。昨日起きた出来事はそれしかない。その中で秋に褒められることはあっても、謝られることなんかない」

「留可……お前、それな……」


 秋は口を開くも、言葉は続かない。

 昔から口喧嘩の類で妹に勝てたことはない。今日も頑張ったところで無駄に終わるのは分かっていた。


 顔を上げれば窓からの陽射しが、妹のピンク色の髪を照らしている。

 ここ数日ドラッグを断っているのか、彼女の言動は安定している。何を思ってそれに至ったか知らないが、まともな会話ができるのは結構なことではある。


 自分達を仲睦まじい兄妹だと思ったことはないが、何か感覚的なものを共有していると秋自身感じることはある。

 妹がドラッグに填ったのは、母の死が原因であることは分かっていた。でもそれを知っても自分にできたのは彼女の好きなようにやらせて、それを見ていることだけだった。

 その中でも双子であるからか、時に彼女の痛みを感じ取ることがあった。棘に覆われた蔦に絡みつかれるような、針先で神経を嬲られるような、彼女が感じ取っているかもしれないそんな痛みを時に感じていた。


「秋」

「なんだよ留可、まだ言い足りない……」

「あのさ……昔のこと、私達が三才ぐらいだった時のこと、覚えてる?」

「は?」


 不意に届いたのはそんな言葉だった。

 向かい合う顔には先程までの不機嫌さも嫌悪もなく、思いがけない言葉を放ったその表情にはためらいと呼んでいいものが混じっていた。


「私達がそれくらいの歳だった頃、母さんと父さんはいつも喧嘩ばかりしてた……その日も大喧嘩した母さんは秋と私を連れて何度目かの家出をした……車に乗って遠い所まで行った気もするけど、子供だったからそう思っただけで、もしかしたらもっと近場だったのかもしれない……母さんは古びたモーテルみたいな宿で部屋を取った後、隣のベッドでずっと泣いてた……その時の母さんの様子が哀しそうでやり切れなさそうな感じだったのは今でも覚えてる……でも私が言いたいのはそのことじゃなくて、夜遅くにそのモーテルで()()()()があったことだよ……」

「人ごろし……?」


 先の見えない話に秋は戸惑った。

 窺い見た相手の表情は日射しの下で暗く、沈んでいる。

 暫しの間を置いて彼女の声は続いた。


「そのうち泣き疲れた母さんは寝ちゃって、私達もいつの間にか眠ってた。けど夜中に大きな声がして、母さんは起きなかったけど私達は目を覚ました。二人してカーテンの隙間から外を覗いたら、近くの部屋から二人の男が飛び出してきた。必死に逃げる若い男をもう一人の歳を取った男が追いかけてて、その男は若い方の男の左目をナイフで刺して殺した。倒れた男からは血がいっぱい溢れて、床が赤く染まった。秋はそれを見て叫ぼうとしたけど、私はその口を押さえてずっと我慢してた。だけど次に気づいた時には、もう朝になってた。恐る恐る外を確かめたけど、何の騒ぎにもなってなくて、床にあんなに流れた血も全然なかった……だから私は夢だったんだと思った。慣れない不安な土地で見た悪い夢だと思った。今でもそう思ってる……でも……本当はそうじゃなかったのかな……? 秋がいつも何かに怯えてるのは、もしかしてこの時の記憶のせい? もしかしてあの夜のことは夢なんかじゃなかった? 私は自分のことで精一杯で、これまで秋が何に怯えてるのかちゃんと考えたこともなかった。けどそれじゃ駄目だったんだよね? だけど秋……このことで()()()()()()()()()()()()()()()()()()。そんなことで秋の中の何かが変わったりなんかしない。だって……」


「は? 留可、お前何言ってんの?」

「……秋」

「お前が何言ってんのか、俺全然分かんないんだけど。モーテルのことなんて俺は全然記憶にないし、何一つ思い出せそうもない。悪いけど全部お前の記憶違いなんじゃないの?」

「……秋、それって本心……?」

「本心に決まってるだろ? こんな嘘言ってどうすんだよ? 急に何を言い出すかと思えばこんなことかよ。んなことより留可、もう学校行けよ、遅刻すんぞ」


 軽く笑いながらそう告げても、無言の相手はまだそこに留まっていた。

 その視線から逃れるように秋はベランダに出ると、街の風景を見下ろした。

 背後にある表情は昔よく目にしたものだった。

 妹はよくこんな顔をして自分を心配していた。いつからかそんなことは遠い思い出の中だけなっていたが、今も記憶の奥底に眠っていた。


「秋」

「留可、早く行けって言ったろ? お前、出席日数も足りてないだろ?」

「……分かった。でも秋、帰ったらもう一度……」

「あー、あー、分かったって」


 振り返りもせず、秋は肩越しに素っ気ない返事を戻す。

 足音が遠離り、扉の閉まる音を聞けば知らぬ間に強張っていた身体の力が抜けていくのを感じていた。


「嘘だ」

 一人になり、秋が最初に吐き出した言葉はそれだった。

 その言葉は今の留可の話に対して、そして自分の過去の記憶に対してだった。


「これが……俺が怖れる理由……?」

 その場に尻をつき、秋は力なく呟いた。

 妹が蘇らせた記憶。それは薄気味悪いほどの感触を持って自分の中で欠けていた何かを補っていた。

 これまで忘却していたのは、あまりにも衝撃的な出来事だったからか。

 あの出来事に怯えて混乱した自分が、自ら何重にも鎖をかけて強固に封印していたのかもしれなかった。


「こんな結末、ありかよ……」

 呟きを落とせば、彷徨う視線はベランダを這う一匹の虫を捉えていた。

 それを何気に追えば、血溜まりを横切った虫は床に点々と赤い足跡をつけ始めている。


「……なんだ……これ?」

 気づけば眼前に腐乱した屍体が横たわっていた。

 その屍体に群がる大量の虫達は無心に肉を喰らい、咀嚼音が鼓膜奥まで響く。

 屍肉を喰らい尽くした虫達は、今度は自分の足にも這い始めた。

 彼らの新たな餌は、この場でぼんやりと座り込む自分でしかなかった。


「うあああああああああっ」

 生きたまま捕食される恐怖は耐え難いものだった。

 瞬く間に身体中を埋め尽くした虫の恐怖に声を上げれば、途端辺りは闇になった。

 どこを見ても闇、自分の手足も視認できない闇が眼前に広がる。

 叫び声を上げても暗がりの中に吸い込まれ、自らの耳に届くこともない。


 突如足場が腐り落ちるように崩れた。

 放り出された身体は延々闇の中を墜ちていく。

 落下しながら見上げれば、夢で見た死に神が自分を見下ろしていた。

 あれは一体誰だ? 本当に九条坂か?

 しかし顔を確かめようとしても、残った右の瞳は何も映し出さなかった。


「ねぇ、タクシーで帰りたいからお金くれる?」


 その声に我に返れば、朝の陽射しが降り注ぐベランダにいる。

 虚ろな目を向ければ、そこにはベッドにいた知らない女が立っている。

 昨日は櫂に似ていると思ったが、似ても似つかない女だった。化粧の匂いが鼻先まで漂って、今程の幻覚より自分を嘔吐かせそうだった。


「うるさい、早く消えろ……」

「はぁ? 昨夜(ゆうべ)はあんたから誘ってきたんだけど。その言い方ちょっとなくない?」

「……うるさい、早く消えろって言ってんだろ!」

「なんかムカつくー。昨日は猿みたいに五回もヤッたくせに」

 それは真実でしかなかったが無性に腹が立って、秋は傍の観葉植物の鉢を掴んで投げつけた。ガラスに当たった大きな音がして、女は短い悲鳴を上げると逃げるように出ていった。


「……なんだこれ……こんなんじゃ、俺……」


 惑いが言葉となって漏れた。

 でもこんなことを呟いても何も変わりはしない。

 畏れの原因を知ったとしても、それで何かが変わる訳でもなかった。


 それならば、やはり()()()()()()()()()()

 あの男といる時は、闇の怖さも、この怯えも忘れられる。

 だけどどうしてだろう。

 そう思っても、あの男からの電話を拒む自分がいる。

 会うことを拒み、二度と会えないようにと望む自分がどこかにいる。

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