4.九条坂 その4
名前は、と訊くと、少女は露骨に嫌な顔をして「きらり」と名乗った。
金色の髪に色鮮やかな服。不細工とまでは言わないがファニーな顔立ち。愛嬌があると言えば、なんとか直接表現を誤魔化せる。
「バカみたいな名前でしょ? あたし、この名前が昔から大っキライ。だけどシゲだけは可愛いよ、似合ってるよって言ってくれたんだ」
彼女は激辛麻婆豆腐をレンゲで掬いながら過去を思い出したのか、とろりとした表情を浮かべる。しかし直後にそれは掻き消え、また泣き顔に取って代わってしまう。
「……それなのに川西の奴、絶対許さない……」
呟きながら今度は思い出したように怒りを露わにする。少女は笑って泣いて呪詛を繰り返して、そうしながらも麻婆豆腐を食べる手を止めることもない。
ヴィランを出た後、お腹が空いたという彼女の要望でちょうど目に止まった中華料理店に立ち寄った。
店内はそこそこ賑わっているが、泣いたり笑ったりするきらりを見て、老店主が厨房から心配顔を覗かせている。久吾が気にするなとそんな素振りをしてみせると、ようやく安心した顔で奥に引っ込んでいった。
「それじゃ早速話を聞こうか?」
「あ、その前にビールも頼んでいい?」
「……一応訊いておくが、お前幾つだ?」
「ああ、未成年かってこと? それなら大丈夫、あたしこう見えて二十二だから、ほら」
きらりはビーズで彩られたバッグから原付免許証を取り出して、得意げに翳した。確認すれば確かに間違いはなく、しかし化粧無しの写真と今ここにいる実物が違いすぎて、それには些かの目眩を感じた。
「いっただきまーす」
きらりは追加した大ジョッキのビールを旨そうに飲んでいる。
彼女に訊きたいことはいくつかあった。
川西の行方、これが一番だった。
それと川西の仲間が失言したクスリの件。その件は恐らく呉がほのめかしていた『プラシーボ』と繋がる。
ついでにきらりの恋人を川西が殺したという件も。これに関しては今後関わるか分からないが、聞くだけなら支障はないはずだった。
「お前、川西との付き合いは長いのか?」
「えっと、訊くのはそこからなんだ。そうだなぁ……あいつとは大体二年ぐらい?」
「川西はどんな奴だ?」
「んーっとね、簡単に言っちゃえば、金持ちのお坊ちゃま気分が抜けないただのドラッグの売人だよ。ギョーカイのことよく分かってないくせに粋がって誰にも話を通さないであちこちで勝手に売ってたから、それを許さない怖い人に目をつけられて、結局どっかに逃げちゃった。そんな感じ」
そう告げたきらりはジョッキを置くが、ふと無に近い表情になった。
「って、あたしは思ってたんだけど、本当は少し違ってた。川西はただの売人じゃなくて造る方もやってた。がっこーでならったこと、ひとをなおすことにつかわなくて、こんなことにつかってるって。にげたのも、かってにうってたからじゃなくて、ひごをうけてたひとのしじにしたがわずにべつくちでしょーばいして、そのすごくこわいひとをおこらせたからだって。これ、シゲがあたしにそう言ったんだ。その数時間後には彼、死んじゃったけど……」
きらりは恋人を思い出したのか、塞ぎ込んだ様子を見せている。
久吾は冷え始めた麻婆豆腐を眺めながら、彼女の言葉を考えていた。
川西映はドラッグの売人でもあったが、自らで製造もしていた。
どこかの組織に所属して商売していたが、彼らと交わした取り決め外でも勝手に売り捌いて、利益を得ていた。しかし結局それを相手側に知られ、逃亡を図ったようだ。
「さっき店にいた三人も川西がどこにいるか知らない。あたしもずっと知らなかった。シゲは死んだし、もう川西がどこにいようがどうしていようが、そんなの本当にどーでもいいと思ってた。でもあいつ、昨日あたしに写真を送ってきたんだ。ねぇこれ見てよ。こいつなんで笑ってんの? シゲと一番仲がよかったくせに、こいつの作ったクスリのやり過ぎでシゲが死んだのに、なんでこいつ今も笑ってんの?」
きらりが見せた携帯電話の画面には笑顔の川西の姿がある。
プールサイドのチェアで満面の笑みを浮かべるその背後には、立派な一戸建ての家が見える。ホテルや観光地ではなく、自宅裏にあるようなプールでくつろぐ姿だった。
「あたしさ……」
俯いて画面を翳すきらりの手が震えている。
また泣いているのかと思ったが、そこにあったのは抑え切れぬ怒りだった。
「あたし、本当に怒ってんの! 川西に! あんたが何者なのか、あたしにも関係ない! だけど奴のことをあんたに教えるべきだって言ってんの! あたしの中の何かが!」
殺したとは言ったが、彼女の恋人は自らの過剰摂取で死んだだけだ。
だが彼の死を前にした彼女にすれば、本当の罪の在り処などどうでもいいのだろう。
彼女の大声に店主がまた顔を出したが、ただならぬ雰囲気を感じたのかそのまま戻っていった。
「この写真の家、あたし知ってる。前にシゲと一緒に行ったことがあるから。川西は親にも内緒で買ったオレ様の別荘だって何度も自慢してた。ぜーたくが好きな奴だから逃亡って言っても、安いホテルを泊まり歩いたり野宿なんか絶対してない。ずっとここにいて、今もここでバカみたいに遊び呆けてると思う!」
中華料理店を出ると、夜の帷が降りた路地には湿った風が吹き抜けていた。
ぽつりと雨が一粒落ち、通り雨が来る予感を感じさせていた。
「これ、その家の住所」
きらりはバッグを探ると、何かの切れ端のような紙を差し出した。記されてあるのは左手で書かれたような筆圧が滅茶苦茶な文字だったが、どうにか読み取ることはできる。
今夜の状況を思えば礼を述べるのも妙な気がして、久吾はメモを手に相手の顔を見返した。それを見取ったきらりは、今夜見せたこともない大人びた表情で首を横に振った。
「家まで送ろうか?」
「え? そんなのいらないよ。あたし全然そんなタマじゃないし。それじゃ、麻婆豆腐とビール、ごちそうさま」
それだけを言うときらりは路地を歩いていく。
降り出した雨は瞬く間に束となって、地面を強く叩いていた。
軒下に逃げ込んで足元を見下ろせば、きらりのバッグから落ちたビーズがいくつも散らばっていた。
「ばいばい」
雑多な路地の随分遠くに、きらりの姿が見えた。
雨足が一層強まり、一瞬その姿を見失う。
だがその一瞬の後には、もう誰の姿もなかった。
通り雨は瞬く間に過ぎ去り、残った軒下の雨垂れが夜の闇に消えていく。
不吉なことを知らせに来た何か。
不意に久吾の脳裏をそんな言葉が過ぎっていた。
本当に〝彼女〟は存在していたのだろうか。
呉は『あれが川西の仲間だ』と言っただけだ。
男達は誰も彼女と話をしていなかった。
彼女と接触したのは、今思えば自分しかいない。
中華屋の親爺ももしかして、一人で喋り続ける自分を心配して見に来ていたのではないだろうか……?
「くだらない」
そう吐き捨てると、久吾は子供じみた妄想を巡らせた自分を笑った。
手には確かに川西の居場所が書かれたメモがある。
しかし振り返り、彼女が消えた路地をもう一度見る。
そこにあった気配は雨が全て洗い流してしまった。
その場には湿り気を帯びた名残だけがあった。




