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1.九条坂 その1

 深夜のコインランドリーは今日も閑散としていた。

 いつもと異なるものがあるとすれば、先客の姿があったことだった。


 耳障りな音を立てて振動する古びた洗濯機の前に秋の姿がある。だが彼はいつものように絡んでくることもなければ、何かを言ってくるでもない。

 その様子が気になるかと言えば多少気になるが、純粋に洗濯目的で来ているならそれはそれで構わず、相手が大人しくしているなら、こちらから敢えて絡む必要もない。適当に距離を取って、存在なきものとすればいい話だった。


 汚れ物を洗濯機に放り込むと、久吾はベンチで一息ついた。

 一人で考えたい時に訪れるこの場所だが、今夜は違う理由があった。

 ()の顔をしばらくまともに見られていない。


 二日前、病院のベッドにいる彼女の前で人には言えない幻覚を見た。

 幻覚の中で自分は彼女に口づけをし、それ以上のこともしようとした。

 現実に戻った後も動揺が残っていた。櫂には何も悟らなかったはずだが、その後も彼女の顔を見る度に自慰行為が見つかった中学生のような心境になってしまうことを避けられない。


 あの幻覚はもしかしたら自分の中にある歪んだ欲望の顕れかもしれなかった。それが身体から溢れ出でて、あの様な形で現れた。しかし幻覚そのものが自分とは距離を取った場所にある気もしていた。

 喩えるならいつもの血濡れの夢に似た手触り。そう思うこと自体が忘却したいものに対する逃避なのかもしれなかったが、酷似した何かを感じたのは確かだった。


 洗濯機の稼働音だけが反響する店内に、不意に軽快なリズム音が鳴り響いていた。

 音の出所は秋の携帯電話だった。

 だが彼は鳴り続ける呼び出し音に反応することもなく、その場から動く素振りもない。立ち上がって様子を見てみるが、どうやらぼんやりしている。このまま無視しても構わなかったが、いつまでも鳴り続ける音が耳障りすぎていた。


「秋」

 呼びかけてみても反応はなく、未だ電話も鳴り止まない。仕方なく傍まで歩み寄ると、久吾はもう一度声をかけた。


「おい、秋」

「あ? なんだ? ああ……九条坂か……」


 しかし声をかけたと同時に電話は鳴り止んでいた。店内には再度洗濯機の音だけが響き渡り、気まずさだけが残る。

 窺い見た秋の顔には寸前までこちらの存在にさえ気づいていなかった気配がある。先程と変わらずどこかぼんやりしているが、いつもとは異なる翳りがそこに見えた気がした。


「秋。今、お前の携帯電話が延々鳴ってたからな。出るつもりがないなら、電源を落とすか着信拒否にでもしとけ」

「……ああ、そっか……全然気がつかなかった……悪ぃ……」


 言葉を向けるとそんな返事が戻る。

 戻ったその返事に久吾は違和感と一抹の戦慄を覚えるしかなかった。

 この相手(クソガキ)が口答えもせず謝罪するとは、あまりに不気味すぎる。普段なら絶対にあり得かった。

 だが目の前にいるのは元より()()()()()()()()()()()。自らに向けたその言葉を吐き捨てながら相手の傍を離れようとしたが、先程見た翳りが足を止めていた。


「秋」

「ああ?」

「お前、何かあったのか? なんだか元気がない」

 告げると相手の顔にはみるみると不快感が立ち上がる。久吾は即座に再びの後悔を覚えていた。

「はぁ? なんだそれ? 今の言葉すんげー気持ち悪りぃんですけど。俺が元気だろうが、元気でなかろーが、九条坂には関係ねーだろーが」


 相手の顔に先程見た翳りはもうない。

 放った悪態を最後に相手はイヤホンを取り出すと、全てをシャットアウトするかのように音楽を聴き始めている。


 久吾はリノリウムの床に立ち尽くして、己の馬鹿さ加減を嗤った。

 心配などという言葉から随分と遠くかけ離れた相手であることを失念していた。そんな相手に勝手に感傷的な思いを抱いた自分には嗤いしか漏れなかった。


「ああそうだな、少しでもお前を気にかけてしまった数秒前の自分を叱り飛ばしたいよ」

 今更何を言おうが届いていないことは分かっていたが、どうでもよかった。

 久吾は再びベンチに腰を下ろし、今のやり取り全てをなかったことにした。

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