2.九条坂 その1ー②
「櫻木!」
「了解です!」
言葉より先に相棒は駆け出していた。
路地に逃げ込む男を追う姿は、すぐに見えなくなる。
「それ、手伝おうか?」
その場には地面に転倒した女が置き去りにされていた。女は呼びかけにも応えず無言で身を起こすと、周囲に散乱したブランドバッグの中身を緩慢に拾い上げている。
彼女が手にするのは化粧品に携帯電話、本物も偽物もない交ぜになったアクセサリーに剥き出しの現金、それに小さな子供用の玩具。
周囲を見回せば騒ぎに気づいたのか、家の窓からこちらを窺う住民の姿がある。だが見返せば、慌ててカーテンを閉める。その姿は見てはいけないものを見てしまったようにも映るが、彼らのその判断は恐らく正しかった。
「三週間の逃亡は、大変だったか?」
久吾は女にもう一度声をかけた。
すると急に女は「わっ」と声を上げ、地面に顔を伏せる。突然の号泣に紛れる途切れ途切れの声は、くぐもって届いた。
「わ、私……あの人に言われてやっただけで、本当はあんなことしたくなかった……だけど怖くて、何にも言えなかった……だから何もできなかった……」
「そうか」
相槌を返せば、女は涙で濡れそぼった顔を上げる。
歳は二十才前後。涙の滲む黒目がちな瞳は、庇護を要する小動物のようにも見える。女はワンピースを汚した砂埃を軽く払うと、縋るような幼い表情を浮かべた。
「あ、あのことは、全部あの人がやったんだよ……」
「全部?」
「そう、全部! 妹の真菜にあんな酷いことをしたのも、桃香をあんな目に遭わせたのも、あの人が全部一人でやったんだ! 私……ずっと怖かった……」
「へぇ、そうか」
「そうだよ! あいつパッと見はチャラ男だけど、ああ見えてすごく残虐で酷い奴なんだ! この手首を見てよ! あいつが強く握ったから、こんなに跡がついちゃってる……ねぇ、あなた警察の人なんでしょ……? だったらこれからはあなたが私を守ってくれるんだよね? あいつから私を守ってくれるんだよね? でも私……今は全然へーきだよ、だからあなたも早くあの男を追いかけたらいいんじゃないかな? あいつ、狡いだけじゃなくて逃げ足もすごく速いんだ。ねぇ、ちゃんと聞いてる? 私のことを守りたいんだったら、あなたも早くあいつを追いかけ……」
「ああ、そうだな。相棒が奴を捕まえたら、もちろん彼にも話を聞くつもりだ」
「だ、だったら……」
「でも俺達が本当に話を聞きたかったのは、奴じゃなくあんたの方だよ」
「え? わ、私? だって私は何も……」
「これ、見てみろ」
久吾は女の傍に屈むと、目の前に一枚の写真を翳した。そこには長い黒髪を焼かれ、身体中に痣を残して息絶える半裸の少女の姿が写っている。
「こっちも」
続けて翳したもう一枚には、歩き始めたばかりにも見える幼子が写っている。だがまともな精神を持ち得る者なら風呂場で溺死した彼女の姿は、最初の少女以上に見るに耐えないものとして映るはずだった。
「逃げた男はお前の単なる下僕だろ? 俺達がここで待ってのは、あんたがどうやって自分の妹と幼い子供を殺したかを聞きたかったからだよ」
「うわーっ!」
突然女が劈く叫び声を上げた。だがそれは悔恨の叫びでも、自らの罪に対する苦悶の叫びでもなかった。
「うるさいうるさいうるさいっ! 一体お前に私の何が分かるって言うんだ! どいつもこいつも私の邪魔ばかりしやがって! 死ねっ! 死ねっ! お前も死んでしまえっ!」
女は立ち上がり様、鞄の底から取り出した包丁を闇雲に振り回した。奇声を上げながら為されるそれには狂気しか見えず、相手を殺傷することに対するためらいも戸惑いもない。こちらを睨める瞳には確実なる殺意が浮かび上がっていた。
空を切って目の前を横切る凶器を久吾は躱した。しかし勢いの鈍くなった次の攻撃は敢えて受ける。刃先が手の甲を掠め、かけている眼鏡のレンズにまで血が飛ぶ。だがこれで何が起ころうと、公務執行妨害の既成事実は完全に出来上がることになる。
「あーだこーだ口うるさい妹も、夜泣きばっかするやかましいガキもいらないんだよ! だから私がこの手で始末してやったんだ! 邪魔な障害物を自分で取り除いたからって、一体それのどこが悪い? みんな文句を言うばっかりで誰も実行には移さない! やることをやり遂げた私が、どうして文句を言われなきゃならないんだっ!」
三度振り下ろされた手を久吾は無言で取っていた。そのまま捻り上げ、相手の悲鳴が響いてもやめることはない。
「クソっ! 離せっ! 私は悪くない! お前こそ虫も殺さないクソスカした親切顔で私に近づきやがって! このイカれチン×のチ×カス詐欺師野郎が!」
どうしようと口汚い罵りが途絶えることはなかった。でもこんなことは単にあばずれが本性を現しただけにすぎない。この女の安い演技に騙される方がどうかしている。
「離せっ、離せって言ってるだろ!」
相手が痛みに顔を歪めても、久吾の心は動じなかった。
己に確実な命令を下す手足は今このように動く。いつまでも思考を捏ねくり回して、そうであるかそうでないかの答えを出すことはとっくに諦めていた。
久吾は相手から包丁を取り上げると胸倉を掴み、平手で頬を撲った。
それでもまだ噛みつこうとする女の頭部を掴み取り、地面に叩きつける。下着が見えようが暴れて蹴ろうとする顔面を殴りつけ、その時に手加減という言葉は消えた。
この女が容姿と巧みな言葉を使って人を操るのは知っていた。故にそれがなくなれば、その術はなくなる。死なない程度に、けれども確実にその術を奪い去る意図を持って集中的に顔面を狙う。
人を誑かすこの女の武器がなくなれば、不幸な少女が死ぬことも幼い子供が死ぬことももうない。この女の生きる術としての特性を奪い取る権利はないが、彼女には奪われても文句など言えない道理がある。
「九条坂さん! もうやめてください!」
「いつ何時もこの街の刑務所は満杯だ。この程度の重罪犯でも四、五年で出所する可能性は多分にある。だがこいつの『商売道具』をこうしておけば、新たに罪を犯す気にもならない」
「だからって!」
言葉は続く気配を見せたが、肩を掴んだ力が弛む。
とうに気を失っていた女の身体を離し、久吾は背後を振り返った。そこには捕縛した逃走犯と、それを捕らえた優秀な相棒の姿がある。
「なんだか、すごく嫌な気分です」
呟く表情には諦めと無力感の残滓がある。行きすぎた正義が身勝手なテロリズムと変わりないのは、僅かでも理性が残る者なら自覚している。見ない振りをするか直視して呑み込むかは、それぞれが選択する枷だ。
「ああそれには同意するよ。そのことは誰より身に染みて理解してる」
荊の道を選んだ相棒は、自らの正義と現実の齟齬に時に悩んでいる。
しかし自らの中で折り合いをつける術も知っている。だからこそできた相棒と言え、愛すべき存在なのだとも言えた。
「僕、実は九条坂さんのことがあんまり好きじゃないです」
「そうか」
「そうかって、それだけですか? 返す言葉は」
「櫻木、まだこの話続けるか? 気乗りはしないが俺は別に構わない」
答えれば相手の顔が微かに歪む。
濁った沈黙は足跡を残しながら、夕闇の狭間に消える。
蔑みの気配も色を濃くするが、久吾自身もそれに折り合いをつける術は知っている。




