1.九条坂 その1
天井の青みがかった照明が、寝台に横たわる遺体を照らしている。
だが果たして自分は目の前にあるものを本当に遺体として見ているのか、久吾は澱むその思考に足踏みを覚える。
そこにいるのは間違いなく数日前まで普通の生活を送っていた青年だ。しかしそう思えなくなるほどの惨状がここにあり、こうなった今もその姿を人前に晒さなければならない彼の運命には、逃れられない悲哀を感じるしかなかった。
「被害者の推定年齢は十代後半から二十代前半、概ねの死因となった鋭利な刃物による全身の切り傷は目にしたとおりだ。外皮から数センチ下までを五ミリ幅の同間隔で刻むように切り裂かれている。両手足は関節部分を残して肉を抉り取られているのが分かるだろう。臓器は一度取り去られた後、切除された性器と共に出鱈目に戻され、その後工業用ステープラーで乱雑に縫合してある。傷の多くに生活反応が見られたことから、被害者の意識は常にあったと思われる。気を失えば覚醒するまで待ち、また再開する。傷口の再生具合から見てその繰り返しだったはずだ。使用凶器の鑑定はこれからだが、形状がこれまでのものと大方一致している。私はこれまで様々な遺体と対面してきた……だが今回の一連の被害者達のように生きたままこんな扱いを受けた遺体を見るのは、戦後になって初めてだ……」
目の前には淡々と語るも、瞳の奥に私情を隠した老監察医の姿がある。表情に動揺は見られないが、普段より額の皺が深く刻まれている。しかし彼だけでなく、今件に関わる全ての者が同様の思いを抱いているのは間違いなかった。
「あの、先生、九条坂さん……すみません……僕、どうやらもう駄目みたいです……」
振り返ると、声を上げた相手の姿は既になかった。
検死室の扉がやや乱暴に閉じられ、配慮に欠けたその珍しい光景には監察医大森が硬い表情を少し崩した。
「珍しいな。新人にしては胃の丈夫な櫻木君が。でも無理もない」
その視線は再び寝台に向けられる。久吾も彼の視線を追うが、この場を去った相手と同じく躊躇が過ぎった。
昨年の晩夏に一人目の犠牲者が出てから、約一年。
その場に横たわっているのは五人目となる被害者だった。同一犯の犯行と思われる今件の被害者はこれまでに男性三人、女性が一人、いずれも二十才前後の若者だった。
事件の概要を知るために前任者の報告書には目を通していたが、紙の文字を見るのと実際に目にするのとでは全てが異なる。昨夜の現場検証時は暗がりだったが、こうして照明の下にあるものを見れば受け取るものも違う。新たな犠牲者を防ぐためにも迅速な捜査が求められるが、一年経った今も犯人に繋がる有力な手がかりが何も得られていないのが現状だった。
「九条坂君」
「なんです? 大森さん」
大森が遺体を布で覆いながら呼びかけていた。
衣類や所持品が何もなかったため、彼の身元はまだ分かっていない。捜索願いが出ていればじきに判明するはずだが、それまでは地下にあるモルグに安置されることになる。
「被害者達が受けたこの行為だが、これは相当長い時間をかけて行われたはずだ。その目的が被害者に痛みを与えるためだったとしても、ここにまで至るにはただならぬ根気と精神力が必要になる。その二つは別の場面では良しとされるものだが、今件に於いては……いや……私の個人的な思いを口にするのはよそう。検死報告書は至急まとめるよ。出来上がり次第すぐに提出する」
大森は言葉を切ると、早速奥のデスクに着いてペンを取った。数十年以上も様々なものを見てきた寡黙な背に視線を向けると、久吾は静寂に覆われ始めた検死室を後にした。
先入観がないとしても昼でも夏でも寒々と感じられる検死棟の廊下を歩き、久吾は建物の北側に位置する洗面所に向かった。
古びた扉を開けると、洗面台の鏡越しに相棒の姿がある。青ざめたその顔に「大丈夫か」と訊くと「すみません」と戻る。「具合はどうなんだ」と再度訊くと、「まぁとりあえずは」と返った。
「……不甲斐ないと思ってます?」
警察署に戻る車中、助手席から櫻木の声が届いた。
「別に。何事も経験だ。それにお前だって自分の評価がこんなところにあるとは思ってないだろ?」
「それはまぁそうですけど……」
これについてはその言葉どおりの感想しかなかった。他を捻り出せば、他人の視線など気にしないと思っていた彼の意外な一面を知ったというだけだ。それにこの件をいつまでも引き摺る相手とは思っていなかった。今の発言も動揺が呼んだだけのものであるのは間違いない。向こうも女子学生が慰め合うような馴れ合いなど欲していないことは、重ねて承知していた。
「……九条坂さん、今回の件ですが、僕、必ずこの犯人を逮捕します」
その声が届いたのは、じきに警察署に到着しようという頃だった。
「そうか、その心得を持つのは悪いことじゃない」
「いえ、そうじゃなく、犯人逮捕を必ずやり遂げるつもりです。何に代えてでも」
久吾は続けられたその言葉に何も応えず、フロントガラス越しの景色を見ていた。
窺い見た相棒の顔には、固い決意があった。
その言葉もその決意も無論否定しない。遺体と対峙した彼の中に沸き立つものがあったことも、想像の範疇にある。
だがこの犯人は自身に繋がる物証をこれまで何一つ残していない。比較的優秀な前任者の手にあっても犯人に迫る手がかりを未だ得られておらず、「必ず逮捕する」という彼の言葉に確定的なものなど何もなかった。
「なーんて今の言葉、ちょっと死亡フラグっぽかったですかね」
黙っていると、隣の相手はそう言って笑う。
死は誰の傍にもある。
一瞥した相手の横顔に久吾はそう思う。
それに気づきもしないか、慎重に見ようとするかは人それぞれだが、辿り着く終着点はそのことによって異なりを見せる。
自分のような人間にはそれ相応の終わりが来ると思っている。しかし彼のような人間にはその真逆のものが訪れてほしいと微かに思うこともある。
「何言ってる。まだ死ぬには早い。もう少し取っておけ」
「へぇ……」
「なんだ?」
「なんだか九条坂さんは、たまに優しいですね」
「どうした? もしかしていい奴だとでも錯覚しそうになったか」
「ええ、どうやらそうみたいです、少し血迷ったようです」
相手は笑うと、すぐ前に向き直った。
思いはあっても見通しは暗い。
だが相棒の胸に沸き立ったものが自分の中に皆無とは言わない。




