前編
「――諸君!」
春の夜会の中央で、レオンハルト・フォン・ヴァルクレインは朗々と声を張り上げた。
金髪碧眼、社交界でも指折りの美男子で、公爵家の次男である彼は当然視線を引き付けた。
音楽が途切れ、ざわめきが引く。
彼はそれを待ち構えていたかのように、胸を張った。
「私は今夜、ひとつの不正を正す!」
婚約者のその言葉を聞いた瞬間、リディアの背筋は冷えた。
自分こそが正義の味方であると主張する、大げさな抑揚。
だが、驚きはなかった。
来るべきものが、やっと来ただけだと心のどこかが理解していた。
リディアの婚約者である彼は、今日エスコートとして迎えに来なかった時点で―――
約束の刻を過ぎても使者は来ず、伝言もない。
仮にも婚約者がいる伯爵令嬢が、”一人”で夜会に入る。
それがどんな噂をもたらすのか、知らないはずがないのに。
そしてリディアを迎えに来るはずだった婚約者の隣には今、聖女セレスティナがいた。
繊細なレースがふんだんに使われた純白のドレスをまとったセレスティナはレオンハルトの腕に絡みついていた。
「リディア・フォン・バーシュタイン!」
レオンハルトがリディアの名を呼ぶ。
礼節の欠片もなく、リディアを指をさしている。
「セレスティナから聞いた君の悪行には、目も当てられない!」
聖女とともにいるレオンハルトの言動に今や、全貴族が集中している。
「いくら寛大な私でも、ほとほと愛想が尽きた!よって、本日をもって、君との婚約を破棄する!」
ダンスフロアにどよめきが広がった。
その反応が気を良くしたのか、レオンハルトはさらに身振りを大きくし、声を張った。
「セレスティナ様にしたお前の悪行はここで公表させてもらう!」
リディアは妙に冷静な自分を感じた。
怒りより先に、こんな場で自分の人生を演劇の小道具にされる滑稽さ。現実感がない。
「お前はセレスティナ様に嫉妬し、わざと書類を遅らせたり、自分の計画ミスを認めずセレスティナ様に尻ぬぐいさせたりと、度重なる無礼をしたそうではないか!」
セレスティナがわざとらしく肩を震わせる。守ってあげたくなるような、可憐で儚い仕草。
けれどリディアは知っている。
震えが出るほど怖いなら、こんなふうに堂々と腕を組んでいるはずがない。
「それに飽き足らず、婚約者である私がセレスティナ様のための仕事をしたことで嫉妬にかられ、
セレスティナ様の大事なドレスに紅茶をこぼしたり、靴を隠したりと陰湿な嫌がらせをしたそうだな!」
レオンハルトは声をさらに上げた。
「聖女様は平民出身だ!どれほどの苦労をして、社交界に立たれているのか!君はその尊さを理解せず――!」
そして、ここぞとばかりにセレスティナが一歩前に出た。
悲痛な表情を浮かべながら手を胸に当てる。
「……レオンハルト様、どうか、これ以上はリディアを責めないであげてくださいませ」
深い慈愛の表情と怯えて潤んだ目。
見るものの庇護欲をそそる。
レオンハルトは本気で“英雄”になったつもりのようだ。
自分の行為がどれほど的外れなのかを理解せず、
聖女セレスティナの色目に、まんまと引っかかっていることも知らず・・・
まあそれは、今に始まったことではないのだが―――
リディアはこの数週間、眠れていなかった。
伯爵令嬢として教会に奉仕しているリディアの現在の仕事は、聖女セレスティナの補佐だ。
セレスティナは聖女の力、つまり治癒魔法の実力はあるものの、元々は貧民街育ちできちんとした教育を受けておらず、聖女になってからも色々理由をつけてサボり、学ぶ気もなかった。そのため貴族や政治にかかわる書類仕事が全くこなせなかったのだ。そのことにはセレスティナ自身も相当なコンプレックスを拗らせまくり、ある時、書類をさせるならば、治癒魔法を一切使わない!と拒否してしまったのだ。
教会関係者がいくらとりなしてもセレスティナの機嫌は直らず、未提出の書類が溜まりにたまり・・・
困った聖教会が王国政府に泣きついて、同年代の成績優秀な貴族令嬢を派遣させた。
それが、貴族学園を卒業したばかりの、リディアだったという話だ。
次席という優秀な成績をおさめたことで、白羽の矢がたったのだ。
最近は、社交界が始まり、
春の夜会と慈善晩餐会、貴族相手のイベントが続いたことで、企画の書類が山のように積み上がっていた。
それに加えて寄付金の集計、配分の調整、孤児院への物資手配や医療支援の優先順位・・・やらねばならない仕事をあげれば、キリがない。
だが、実際に表舞台で治癒魔法を使うのは、聖女。
セレスティナの所業は聖教会上層部と一部の政府関係者しか知らず、当然裏方リディアの存在も同様だ。
セレスティナ自身もそれを理解しており、表向きは全てセレスティナがこなしていることになっている。信者向けの外面も良い。
それに治癒魔法の実力だけは一流なため、俄然聖女セレスティナの評判はうなぎ上りだった。
リディアが補佐になって既に2年。
もう貴族のマナーも書類仕事もある程度できるであろうにもかかわらず、
全ての書類仕事をしているのはいまだにリディアだった。
支援先から問い合わせが来れば調整はいつも、リディア。
間違いが許されない文書の最終確認を夜通しやるのも、リディア。
他に手伝う人材は当然おらず、セレスティナがその取り巻きたちと優雅にお茶会を開いているときも、
祈祷用にと王国の有名サロンをはしごしてドレスを買いに行く間も、
常に手を動かしていたのはリディアだった。
疲労は指先から、ペン先が滑り、数字が霞む。目を擦ると、涙のように熱が滲む。
それでも、今日中に。今夜までに提出。
そう言われれば、リディアがやるしかなかった。
「リディア、これ、夜会までに整えておいて」
呼び捨て。最初は親しみだと思おうとした。慣れない貴族社会で心細いのだろう、と。
けれど違った。呼び捨ては親密さではなく、序列を明確にするために使われる。
うまく聖教会の支援が回れば、表に立つセレスティナの成果になる。
信者には裏方は見えない。
功績はすべてセレスティナのもの。
―――婚約者であるレオンハルトも同じだった。
彼は公爵家次男として、王都の会合に顔を出している。
外交使節との折衝に同席し、“適切な提言”を求められる。
だが、彼は勉強が苦手だ。面倒な調べものも嫌いで、細部を詰めることなんてできない。
「リディア、これをまとめておいてくれ」
資料をリディアに渡すだけ。
乱雑な覚書と、古い条約の写しと、要点の抜けたメモ。
それを整えて、論点を作り、相手国に突かれやすい穴を埋め、彼の口で説明できる順番に並べ替える。
それは”婚約者を支える当然仕事”だと、本気で思っているのだ。
そして彼は堂々と宣言する。
「私としては、このように提案します」
“私”と強調し、満足そうに頷く重臣たちに向けて鷹揚にうなずいてみせる。
リディアの名が出されるはずもない。
成果は全てレオンハルトのものなのだ。
もう何年も同じ状態だった。
◇ ◇ ◇
夜会の注目を一身に浴びて、セレスティナは慈愛の顔のままリディアを見つめている。
その瞳の奥に嫉妬の炎が見えた瞬間、リディアは悟った。
あれは欲望だ。
貧民街から成り上がった自分が持てなかったものを、生まれた時から持っている貴族の女。
優秀な成績をおさめ、自分よりはるかに仕事ができる女を、打ち負かしたいという衝動。
そしてレオンハルトは、軽率にそれに乗せられている。
英雄ごっこに興じ、自己陶酔に浸っている。
リディアは口を開かなかった。
弁明なら山ほどある。
仕事の記録も、証拠も、整合も。彼らの言い分の穴も、簡単に指摘できる。
けれど、この場は裁判ではないのだ。
もうすでに配役は決まっていて、これは、”演出”なのだ。
聖女が泣き、婚約者が正義を振りかざし、悪役令嬢が断罪される。
そういうストーリーなのだ。
そして観客もそれを望んでいる。
今、ここでは、リディアの言葉は誰にも届かないだろう。
会場の拍手が、レオンハルトに降り注ぐ。
セレスティナは涙を拭うふりをしながら、誰にも見えない角度で口元を緩める。
勧善懲悪で舞台の幕は下りた。
リディアはここで、退場なのだ。
◇ ◇ ◇
翌日、リディアのもとに届いた辞令。
『国家文書局・第三保管課への異動を命ずる』
(第三保管課ね・・・)
窓のない、古い書類の匂いが染みついたその部署は、
誰もが知る、出世と無縁の通称・“追い出し部屋”―――
リディアは薄暗い廊下を歩きながらも、息が少しだけ、楽になるのを感じてしまった。
期待されない場所。奪われない場所。
誰かの名誉のために、眠れない夜を積み重ねなくていい場所。
だがリディアは知らなかった。
そこが、国の歪みと不正が堆積する場所であることを。




