8話
冬の曇天の下、井伊谷の空気はさらに重くなっていた。遠江へ進軍する武田軍の影が現実となり、谷の入口には赤備えの旗がちらつくとの報せが届いた。村人たちは息を詰め、避難路へと急ぎ足を運ぶ。
砦の裏手から谷を抜ける細道には松明が並び、子どもや老人が先に導かれていく。母親は幼子を背負い、老人は杖を頼りに歩みを進める。若者は荷を担ぎながら「先に逃げる者を守る」と声を張り上げ、走りの得意な者は伝令役として太鼓を打ち、狼煙を上げた。谷の上に立ち昇る煙は、戦の影を知らせる合図となった。
広場には緊張が渦巻いていた。
「領主様、砦を守る兵が足りませぬ!」
「民を逃がすか、領地を守るか、どちらを選ぶのですか!」
声が交錯し、直虎の胸に重く響いた。領主として「民を守る」ことと「領地を守る」ことの板挟み。彼女は深く息を吸い、震える声で言った。
「領地を失っても、民を守る。それが井伊の務めです」
その言葉に村人たちは涙を浮かべながら頷いた。恐れと覚悟が同時に広場を覆った。
慎之介はその光景を見つめ、胸に複雑な思いを抱いた。未来を知る者として、武田の侵攻が現実になることを理解している。その重さが彼を苦しめた。だが同時に、民が自ら備えを進める姿に誇らしさを覚えた。自分の知恵が現実に形を持ち、民の手で動いている――それは未来から来た者としての使命が果たされている証だった。
避難の混乱の中、直虎は慎之介に歩み寄った。松明と狼煙の光が二人の顔を照らす。直虎は静かに言った。
「民は恐れを抱きながらも、私の決断に従っている。領地を失うかもしれぬが、民を守るためなら迷わぬ。だが…おぬしの知恵があれば、井伊谷は必ず生き延びられる」
慎之介は息を呑み、胸の奥で甘酸っぱい熱を覚えた。未来を知る者としての孤独と、直虎を守りたい想いが交錯する。
「俺の知恵は未来から来たものだ。だが、それを信じてくれるなら、必ず井伊谷を守れる」
直虎は頷き、涙を浮かべながら慎之介を見つめた。戦火の影と恋の芽生えが同時に育ち、谷の夜は緊張と温もりに包まれた。




