7話
冬の風が谷を渡り、松明の灯りが夜の広場を赤く染めていた。避難路の整備は着々と進み、砦の裏手から谷を抜ける細道に石が積まれ、子どもや老人を先に逃がす段取りが村人たちの手で整えられていた。太鼓の音が試しに鳴らされ、狼煙が細く夜空に立ち昇る。民は恐れを抱きながらも、自らの手で備えを進めていた。
その最中、使者が駆け込んできた。泥にまみれた衣を翻し、息を切らしながら声を張り上げる。
「甲斐の赤備えが西へ進んでいるとの報せ!徳川は遠江に兵を集め、今川は衰えながらも駿河でなお策を巡らせている。織田は美濃を掌握し、さらに東へ目を向けている!」
広場はざわめきに包まれた。年寄りが杖を握りしめ、低く呟く。
「四方から大名が迫れば、井伊谷は逃げ場を失う…」
母親は幼子を抱きしめ、震える声で言った。
「避難路があると聞いても、戦火から逃げ切れるのか…」
若者は拳を握りしめ、声を張り上げた。
「領主様と共に備えよう。だが、敵が来れば俺たちも戦わねばならぬ!」
直虎はその声を聞き、胸に重く響いた。民は喜んでいるだけではない。恐れと覚悟を抱きながら、それでも彼女に従っている。その恐れを共に背負うことが、領主としての務めだと痛感した。
翌日、さらに緊張を高める出来事が起こった。今川・徳川・織田、それぞれの使者が井伊谷を訪れたのである。
• 今川の使者は衰退の影を背負いながらも必死に訴えた。
「井伊は代々、今川の旗の下にあったはず。たとえ駿河が揺らいでも、忠義を捨てれば家の名は地に落ちるぞ。古き絆を守れ、それが井伊の誇りではないか」
• 徳川の使者は冷静な声で現実を突きつけた。
「武田の影はすでに遠江に迫っている。井伊谷が徳川に従えば、兵を出して守ろう。だが背を向ければ、谷は戦火に呑まれる。選ぶのは領主殿だ」
• 織田の使者は新興勢力らしく挑発的に語った。
「尾張から美濃を越え、織田は東へ進む。井伊谷が我らと結べば、市はさらに栄え、茶も米も遠国へ流れる。未来を掴むか、過去に縛られるか――領主殿、どちらを選ぶ?」
広場は再びざわめいた。村人の意見が割れた。
「今川に従うべきだ」
「いや、徳川に頼るべきだ」
「織田と商いを広げれば谷は潤う」
声が交錯し、緊張が広場を覆った。
直虎は板挟みに立たされた。領主として、どの大名に従うかで井伊谷の命運が分かれる。彼女は深く息を吸い、民に向かって言った。
「今川、武田、徳川、織田――四方の大名がこの地を狙っています。私は民を守るために、徳川と一時的に手を結びます。だが、心を一つにして備えを進めねばなりません」
民は驚き、やがて頷いた。だがその目には不安が残っていた。
夜、松明の灯りの下で直虎は慎之介に歩み寄った。
「民は恐れを抱きながらも、私の決断に従っている。だが…おぬしの知恵があれば、井伊谷は必ず生き延びられる」
慎之介は息を呑んだ。未来を知る者として、徳川が井伊を利用することを理解している。その重さが彼を苦しめた。だが直虎の視線が自分に向けられているのを感じ、胸の奥で甘酸っぱい熱が広がった。
「俺の知恵は未来から来たものだ。だが、それを信じてくれるなら、必ず井伊谷を守れる」
直虎は静かに頷いた。松明の炎が二人の間に影を落とし、沈黙の中で恋と戦の影が同時に育っていた。




