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井伊谷で  作者: 双鶴


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5話

冬の冷たい風が谷を渡り、井伊谷の空気は張り詰めていた。市の広場には茶葉を束ねた籠や、みかんの若木を植え替えた鉢、棚田から運ばれた米袋が並んでいる。だが、村人たちの手はどこかぎこちなく震え、笑い声の奥には不安の影が潜んでいた。


昼過ぎ、周辺の村へ派遣した使者が戻ってきた。泥にまみれた足取りで広場に立ち、声を張り上げる。

「甲斐の武田が西へ兵を進めているとの噂!遠江では徳川が兵を集め、今川は駿河で力を失いながらもなお動きを見せています。尾張の織田は美濃を制し、さらに東へ目を向けているようです!」


その言葉に広場はざわめいた。年寄りが杖を握りしめ、低く呟く。

「四方から大名が迫れば、井伊谷は逃げ場を失う…」

母親は幼子を抱きしめ、震える声で言った。

「避難路があると聞いても、戦火から逃げ切れるのか…」

若者は拳を握りしめ、目を燃やす。

「領主様と共に備えよう。だが、敵が来れば俺たちも戦わねばならぬ」


直虎はその声を一つひとつ聞き取り、胸に重く響かせた。民は喜んでいるだけではない。恐れを理解し、覚悟を抱きながら、それでも彼女に従っている。その恐れを共に背負うことが、領主としての務めだと痛感した。


その夜、焚き火の傍で直虎は慎之介を見つけた。炎が揺れ、二人の顔を赤く照らす。直虎は少し言葉を探し、やがて静かに口を開いた。

「民は備えを喜んでいるだけではない。恐れを抱きながら、それでも私に従っている。私はその恐れを背負わねばならぬ。だが…おぬしの知恵があれば、井伊谷は生き延びられるかもしれない」


慎之介は息を呑んだ。未来を知る者として、武田の侵攻が現実になることを理解している。その重さが彼を苦しめた。だが直虎の視線が自分に向けられているのを感じ、胸の奥で甘酸っぱい熱が広がった。


「俺の知恵は…未来から来たものだ。だが、それを信じてくれるなら、必ず井伊谷を守れる」


直虎は一瞬驚き、やがて静かに頷いた。領主としての責任と、若き女性としての心の揺れが交錯する。焚き火の炎が二人の間に影を落とし、沈黙の中で恋と戦の影が同時に育っていた。


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