4話
市が開かれてから、井伊谷は少しずつ活気を取り戻していた。茶葉やみかんが並び、棚田の米が取引される。村人たちの笑い声が広場に響き、直虎はその光景を見て胸を撫で下ろした。だがその笑い声の奥には、四方の大名の影が迫っていた。
駿河では今川が衰え、武田が甲斐から西へと勢力を伸ばし、徳川は遠江を虎視眈々と狙い、織田は尾張から美濃へと進出していた。井伊谷はその狭間にあり、どの大名に従うかで命運が分かれる。直虎は領主として、その重さを痛感していた。
直虎は村人を集め、真剣な眼差しで言った。
「市を開き、茶やみかんを売り、棚田の米を取引しましょう。だがそれだけでは足りません。今川、武田、徳川、織田――四方の大名がこの地を狙っています。
若者を使者として周辺の村へ送り、敵の動きを探ります。砦や寺に避難路を設け、子どもや老人を先に逃がします。伝令を早く届けるために、走りの得意な者を組織し、太鼓や狼煙で合図を送ります。蔵を整え、兵糧を蓄え、商人に貸し出して信用を築きます。商いと備え、両方が井伊谷を守るのです」
村人たちは一瞬ざわめき、やがて声を上げた。
「領主様が戦にも備えてくださる!」
だがその声には喜びだけでなく、不安も混じっていた。年寄りが低く呟いた。
「武田が来れば、谷は焼かれるかもしれん…」
若者が拳を握りしめた。
「徳川に従えば、織田と敵になる。どこに逃げればいいのだ」
母親が子を抱きしめながら言った。
「避難路があるなら助かるかもしれない。でも、戦が来るのは怖い」
直虎はその声を聞き、胸に重く響いた。民は喜んでいるだけではない。危機を理解し、恐れながらも備えを受け入れている。領主として、その恐れを共に背負わねばならない。
慎之介は人垣の後ろでその声を聞き、胸の奥で複雑な思いを抱いた。自分の言葉が直虎の口から出て人々を動かしている――それは誇らしい。だが同時に、未来を知る者として「この恐れが現実になる」ことを知っている。その重さが彼を苦しめた。
夕暮れ、直虎は広場の片隅で慎之介を見つけた。焚き火の明かりが二人を照らす。直虎は少し言葉を探し、やがて静かに言った。
「民は喜んでいるだけではない。恐れを抱きながら、備えを受け入れている。私もその恐れを背負わねばならぬ」
慎之介は息を呑んだ。直虎の視線が自分に向けられている。言葉にはできないが、確かに心が通じていると感じた。
二人の間に沈黙が落ちる。だがその沈黙は、恋の芽生えと戦の影、そして民の危機感を同時に孕んでいた。




