3話
棚田づくりが進み、村人たちの顔には少しずつ希望が宿り始めていた。斜面に積まれた石垣の間を水が流れ、田が潤う。さらに茶の苗が植えられ、みかんの若木が斜面に並ぶ。慎之介はその光景を見て胸が熱くなった。自分の知識が形になり、村を変えていく――それは直虎への想いが届いている証のように思えた。
だが、農業だけでは井伊家の困窮は救えない。慎之介は和尚に新たな言葉を託した。
「作物を育てるだけでなく、人を集め、物を動かす仕組みが必要です。市を開き、誰でも商いできるようにすれば、人が集まり、村が潤います。関所の税を軽くすれば、商人が通いやすくなります。さらに、蔵を整えて米や茶を備蓄し、貸し出せば信用を得られます」
和尚は目を細め、静かに頷いた。
「商いと信用か…仏の教えにも通じるものだ。直虎に伝えてみよう」
翌日、直虎は村人を集めて言った。
「市を開きましょう。茶やみかんを売り、棚田の米を取引すれば、井伊谷はもっと豊かになるはずです。関所の税も見直し、商人が通いやすくします。そして、蔵を整え、余剰の米を貸し出すことで、困窮する者を助け、商人との信を築きます」
村人たちは驚き、やがて歓声を上げた。「領主様が市を開いてくださる!」と。慎之介は人垣の後ろでその声を聞き、胸の奥で誇らしさを覚えた。自分の言葉が直虎の口から出て、人々を動かしている――それは恋の告白の代わりだった。
夕暮れ、村の広場で試しに小さな市が開かれた。茶の葉を束ねたもの、みかんの若木を植え替えたもの、棚田の米を袋に詰めたものが並ぶ。村人たちが笑いながら物を交換し合う姿に、直虎は静かに目を細めた。領主としての責任感が胸に広がると同時に、ふと慎之介の姿を探してしまう。
慎之介は人混みの中で子どもたちに囲まれ、走り回っていた。村人に「坊主さまは領主様に気に入られているな」と冷やかされ、彼は真っ赤になった。直虎もその言葉を耳にしてしまい、思わず頬を染める。領主として毅然とせねばならぬのに、心の奥でどうしようもなく揺れてしまう。
夜、広場の片隅で直虎と慎之介は偶然出会った。市の余韻が残り、焚き火の明かりが二人を照らす。直虎は少し言葉を探し、やがて静かに言った。
「市を開けば、人が集まる。蔵を整えれば、困窮する者を助けられる。それを教えてくれたのは…和尚だけではない気がします」
慎之介は息を呑んだ。直虎の視線が自分に向けられている。言葉にはできないが、確かに心が通じていると感じた。
二人の間に沈黙が落ちる。だがその沈黙は、恋の芽生えを確かに育んでいた。




