1話
目を覚ますと、慎之介は龍潭寺の僧房に寝かされていた。畳の匂いが鼻をくすぐり、木の柱の冷たさが背に伝わる。外からは鶏の鳴き声が響き、現代ではありえない音の重なりに、彼はただ呆然とした。夢だと分かっていても、あまりに鮮烈で、現実のように感じられる。
「おぬし、もう目覚めたか」
声をかけてきたのは昊天だった。大柄で豪快な僧侶は、慎之介を見下ろしながら笑った。
「南渓和尚がおぬしを預かると仰せだ。今日から修行僧として働け」
言葉の意味をすぐには理解できなかったが、慎之介は頷くしかなかった。大学一年生の彼にとって、僧侶の生活は未知そのものだった。朝は鐘の音で起き、畑を耕し、経を唱え、村人の手伝いをする。走ることだけは得意だったので、伝令役として山道を駆け回ることもあった。汗を流しながら走るたびに、村の子どもたちが「坊主さま、速い!」と笑い声を上げる。彼は少し照れながらも、心の奥で誇らしさを覚えた。
夜、南渓和尚に呼ばれることがあった。和尚は慎之介の言葉をじっと聞き、静かに頷いた。
「おぬし、妙な知恵を持っておるな」
慎之介は勇気を振り絞り、未来で学んだ知識を少しだけ口にした。水路を整えれば田を守れる、市を開けば人が集まる――そんな言葉を和尚に託すと、和尚は目を細めて微笑んだ。
「仏の教えに通じるものだ。直虎に伝えてみよう」
翌日、直虎が村を視察に訪れた。凛とした佇まいで村人に声をかける姿は、まさに領主そのものだった。和尚が慎之介の策を伝えると、直虎は少し考え、頷いた。
「それは良い。試してみましょう」
その瞬間、直虎と慎之介の視線が交わった。直虎はわずかに頬を染め、すぐに視線を逸らした。慎之介も慌てて目を伏せたが、胸の奥で「恋が届いた」と感じていた。策が通ることは、彼にとって告白の代わりだった。
直虎もまた、心の奥で慎之介の存在を意識していた。和尚の助言にしては妙に若々しいと感じるたびに、あの僧侶の顔が浮かぶ。領主としての責任感が彼女を縛り、恋心を言葉にすることはできない。だからこそ、視線が交わるたびに、どうしようもなく照れてしまう。
夜、慎之介は龍潭寺の庭で星を見上げた。冷たい風が頬を撫でる。
「俺の策が通れば、直虎に気持ちが届く…」
そう呟きながら、胸の奥に甘酸っぱい熱を抱いていた。
直虎もまた、領主としての務めを果たした後、ふと慎之介の姿を思い出していた。
「どうして、あの僧侶を見ると…心が揺れるのだろう」
二人の恋はまだ言葉にならない。だが、視線と策を通じて、確かに芽生え始めていた。




