9話
砦は炎と煙に包まれ、赤備えの武田軍が波のように押し寄せていた。太鼓と狼煙は鳴り響き、避難路へ民が急ぐ。子どもや老人は必死に逃げ、母親は幼子を抱きしめ、若者は荷を担ぎながら走り回る。だが砦に残った兵は少なく、戦の流れは明らかに武田に傾いていた。
直虎は砦の上から民の姿を見守り、声を張り上げた。
「領地を失っても、民を守る!それが井伊の務めです!」
その声に兵たちは奮い立ったが、敵の勢いは止まらない。槍が砦を突き破り、直虎の周囲に敵兵が迫った。
その瞬間、慎之介が直虎の前に立ちはだかった。未来を知る者として、この戦が敗れることを理解していた。だが直虎を守りたいという想いが彼を突き動かした。剣を抜き、敵兵の槍を受け止める。炎に照らされたその背は、直虎にとって唯一の盾だった。
敵兵が弓を引き絞り、慎之介に狙いを定めた。矢の先が炎に照らされ、鋭く光る。時間が止まったように、直虎の目にはその矢の軌跡がはっきりと映った。
「慎之介!」
直虎の叫びが夜空を裂いた。
矢は放たれ、空を裂いて慎之介の胸へと一直線に迫る――。
矢が胸に迫る感覚に震え、慎之介は荒い息を吐きながら目を覚ました。炎も煙も消え、そこは戦場ではなく、静かな寺の境内だった。夜の冷気が石畳を包み、蝋燭の灯が揺れている。
彼の前には、直虎の墓があった。苔むした石に刻まれた名を見つめ、慎之介は膝を折った。
「直虎さん…あなたが守ろうとされた務めを、私も受け継ぎます。未来を知る者としてではなく、この時代に生きる者として」
その声は恋心からの呼びかけではなく、師や領主に向けた誓いだった。鐘の音が遠くで響き、夜の静けさに誓いだけが残る。
慎之介は目を閉じ、冷たい石に額を寄せた。矢が胸に迫った瞬間の恐怖は、彼に「命の重さ」を突きつけていた。だがその恐怖は、直虎の精神を継ぐ決意へと変わっていた。




