プロローグ
十一月の午後。大学一年生の速水慎之介は、キャンパスの図書館の片隅でノートを広げていた。
彼のページには「井伊直虎」という名前が何度も書き込まれている。戦国時代に女性ながら領主を務めた人物。教科書ではわずかに触れられるだけだが、慎之介にとっては特別な存在だった。
「桶狭間で直盛が討たれた後、直虎が跡を継ぐ…」
彼は小声でつぶやきながら、参考書をめくる。周囲の学生は資格試験や語学の勉強に励んでいるが、慎之介はただひたすら直虎の足跡を追っていた。
歴史研究サークルに入ってからというもの、彼は「忘れられた人々」に惹かれるようになった。名将や天下人ではなく、時代の波に翻弄されながらも必死に生き抜いた人々。その中でも直虎は、領主としての責任感と女性としての孤独を背負った稀有な存在だった。
「直虎は、どんな気持ちで領主を務めていたんだろう…」
慎之介はペンを止め、窓の外を見つめた。晩秋の光が差し込み、木々の葉が風に揺れている。
その週末、彼は浜松市の山あいにある龍潭寺を訪れることにした。直虎ゆかりの寺。歴史書の中で何度も目にした名前が、現実の場所として存在している。
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石段を登ると、苔むした石や木々の間から射し込む光が柔らかく広がっていた。山の空気は冷たく澄み、どこか懐かしい匂いが漂う。
「ここが…直虎が歩いた場所か」
慎之介は胸の奥が熱くなるのを感じた。
本堂に入ると、僧侶たちが静かに並び、読経が始まった。低く、深く、一定のリズムで響く声が、堂内の空気を震わせる。慎之介は畳に座り、背筋を伸ばした。
最初は「歴史好きとして、この場を体験できるなんて」と胸が高鳴っていた。だが、経の響きはあまりにも規則的で、波のように繰り返される。
「…眠くなるな」
慎之介は心の中で呟き、必死に耐えようとした。
まぶたが重くなる。頭がかすかに揺れる。
「ダメだ、寝ちゃいけない…」
彼は爪を立てて膝を押さえ、意識をつなぎ止めようとする。
僧侶たちの声は、まるで遠い太鼓の音のように響き、慎之介の意識を深い水底へと引きずり込む。
「…少しだけ、目を閉じても…」
その瞬間、彼の身体はふっと力を失い、意識は暗闇に落ちていった。
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――夢か、現か。
気づけば、見知らぬ景色が広がっていた。
山あいの谷間に連なる水田。木造の屋敷。遠くに小さな砦のような城。人々は和服をまとい、馬が行き交い、空気には土と薪の匂いが濃く漂っている。
慎之介は息を呑んだ。
「ここは…井伊谷?」
歴史書で読んだ地名が、目の前に広がっている。
背後から声がした。
「おぬし、どこから来た?」
振り返ると、僧衣をまとった男が立っていた。鋭い眼差しを持ちながらも、どこか温かさを感じさせる。南渓和尚――井伊直虎を支えた龍潭寺の住職だ。
慎之介は言葉を失った。だが和尚は彼をじっと見つめ、やがて微笑んだ。
「迷える者もまた、仏の導きに従うもの。ここで修行を積むがよい」
その瞬間、慎之介は僧侶として井伊谷に受け入れられた。




