71.偽物姫は走り出す。
意識が浮上して、私はゆっくり目を開ける。
「……痛くない」
私は今日も目が覚めたことに感謝し、同時に生きていることが苦しくて泣きたくなった。
リープ病の発作は収まり身体が軽く、最近では度々力が入らなくなっていた指先にちゃんと感覚がある。
そうなった心当たりは一つしかない。
私はそっと指先で自身の唇に触れる。
セルヴィス様の魔力の効果は絶大だった。
思い返せばセルヴィス様に薬を飲ませた後も、セルヴィス様からキスされた後も、私の身体の調子は良かった。
だが、その後やはり発作が起きるようになったのだから、効果は一時的でこの病を治すほどの力はないのだろう。
「でも、もうこの手は使えないわね」
『俺は君が好きだ』
セルヴィス様の向けてくれる温かな気持ちには気づいていた。
私は顔を覆い、目を伏せる。
「……私、だって」
応えられるなら、応えたかった。
でも。
(ベラじゃない。私は、イザベラじゃないの)
もし、私が本物のイザベラだったなら、彼の手を取る未来があっただろうか?
もし、私がリープ病でなかったら、他の手段を考える時間があっただろうか?
もしも……だったら。
「馬鹿ね。考えるだけ、無駄なのに」
"だったらいいのに"が叶う事はないと、嫌になるほど知っている。
願うだけでは、何も変わらなかった。
嘆くだけでは、何一つ好転しなかった。
私にできるのは、いつだって苦しい現実と向き合いながら、必死にもがく事だけ。
「私の全部が偽物。私はリィル。彼が好きだと言ってくれたイザベラ・カルーテ・ロンドラインはそもそも存在しない」
自分にそう言い聞かせると、
「さて、袖にしてしまった相手にどうやってクローゼアを押し付けようかしら」
暗い気持ちを心の奥底に押しやって、私はこれからを考えることにしたところで軽くノックがし、入室許可を求められる。
訪ねてきたのはシエラだった。
「イザベラ、陛下から遣いが来ているわ」
「……陛下が?」
こんなに朝早く? と今までになかったパターンに首を傾げる私に、
「体調が良ければ朝食を一緒にしないか、と。行くでしょ?」
支度をしましょう、と私が意向を伝える前に準備に取り掛かるシエラ。
まぁ、皇帝陛下のお誘いを断るという選択肢は確かにないけれど。
「あとコレも添えられていたわよ」
シエラは何かを差し出す。
「……コレは」
添えられていたのは大きな一輪の真っ赤な薔薇で。
メッセージカードには私を気遣う言葉と無理をして来なくてよいという旨が記載されてあった。
「直筆のメッセージに大輪の薔薇なんて。陛下がこんなベタな事するタイプなんて思わなかったわ」
シエラの揶揄いが耳を通り過ぎる。
セルヴィス様の心遣いが嬉しくて。
なのに、素直に受け取れない自分が苦しくて。
「今日のドレスはどれにする? 病み上がりだし、コレとか」
「……今日は、やめておく」
上手くイザベラを演じられる自信がなくて、私はカードを机に伏せる。
「へ? ちょっと、そんなに悪いの?」
「ただの風邪よ。でも、陛下にうつすわけにはいかないでしょう?」
そう言って私はシエラを下がらせ、一人になったベッドで丸くなると、
「……ごめん、なさい」
届くことのない謝罪の言葉を呟いた。
身体は今までで一番調子が良かったが、セルヴィス様にどんな顔をして会えばいいのか分からなかった。
セルヴィス様のお誘いを断って以降、政務室への呼び出しもなく、私はただぼんやりと毎日を過ごしていた。
動かなけばいけないのに、時間だけが過ぎていく。
いつまでも避け続けるわけにはいかないのに。
寝付けず、ふと見上げた空の月はもうすでに欠けていた。
「ああ、満月が終わったのね」
今月は苦しまずに済んだだろうか?
離れていても浮かぶのは、あの優しい笑顔で。
そんな資格もないくせに、なんだか無性に泣きたくなった。
「そうだ、ルクアの実」
ルクアの実の世話をしなくてはと。
自分を奮い立たせた私は自室をこっそり抜け出して温室に足を運んだ。
ドアを開けてた途端ふわりと暖かい空気が流れてきた。
「……?」
真っ暗な部屋にカンテラで明かりを灯す。
温室を見渡すけれど、セルヴィス様も黒狼も見当たらなかった。
代わりに手入れされた形跡のあるルクアの実を見つけた。
ここには私とセルヴィス様しか来ないのだから、きっとセルヴィス様が手入れしてくれていたのだろう。
他にも何か変わりはないかと確認しながら進んでいくと、
「コレ……は?」
小さなテーブルに赤い薔薇とメッセージが添えてあった。
毎日、毎日、ここに置いてくれたのだろうそれには、ひとつひとつに私のことを気遣う言葉で溢れていて。
私は、赤い花にそっと触れる。
偶然かもしれないけれど、置いてあった薔薇は全部で5本。
花言葉は、"あなたに出会えてよかった"。
「……私も。私もだよ、ヴィー」
後悔したくない、と思った。
たとえ、セルヴィス様の隣にいられる未来がなくても。
そう思ったら、衝動的に駆け出していた。
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