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24.偽物姫と夜の交流。

 夜風に靡く蜂蜜色の髪を耳にかけ、私はそっと図鑑を撫でる。

 随分大事にされていたのだろう。

 使い込まれ修繕箇所はいくつかあるが、古い割に状態はよく、所々綺麗な文字で書き込みされていた。

 私は美しい文字を指でなぞる。


「随分、勉強熱心な方だったのね」


 色んな国の言葉で綴られたメモとその訳は様々な症状に合わせて細かく対応できるよう調整された薬のレシピだった。

 後宮、とはそこに閉じ込められた妃にとって決して平等な場所ではない。秩序があり、序列がある。

 身分が低いあるいは陛下に見向きもされない妃なら、きっとその処遇はかなり厳しかった事だろう。

 簡単には部外者である医師や薬師にかかれないほどに。

 あの温室は、そんな妃のための小さな診療所だったのかもしれない。


「後宮の厄介ごとを引き受ける妃、か」


 彼女はこの宮でどんな風に生きたのだろう?

 そんな事を思いながら、ぱらりとページをめくったときだった。


「……っ」


 心臓を締め付けるような痛みに、私は身を竦める。


「だい……じょう、ぶ。大丈夫、よ」


 まだ、大丈夫。

 きっと、春が来るまでは。

 まだ、私は偽物姫(イザベラ)を演じられる。


「……あっ」


 ゆっくり呼吸を落ち着けていると、強い風が吹き肩にかけていた私の真っ赤なポンチョを攫って行った。

 困った、と思っていると。

 トンっと軽やかな音と共にテラスに何かが降り立った。


「バゥ」


 真っ黒な狼は小さくそう鳴いて、私に真っ赤なポンチョを差し出した。

 どうして、ここにセルヴィス様の使い魔が? と驚いて目を瞬かせていると狼は紺碧の瞳で私をじっと見て、そしてゆっくり静かに私の膝の上にポンチョを置いた。


「……ありがとう。大事な、とても大事な物なの」


 私は受け取ると今度は風に飛ばされないようにしっかり羽織、首のボタンを留めた。


「あなたは、夜のお散歩? それとも私の見張り?」


 私の問いかけに狼は答えない。

 代わりにじっと私を見上げた後、トンっと私の隣に座った。


「あらまぁ、強引ね。でもちょうどいいわ」


 少し太太しく強引な態度に、セルヴィス様との共通点を見つけてクスリと笑った私は、少し待っていてと狼に声をかけて部屋に入り、カゴを取ってくる。


「ずっと、あなたにお礼がしたいと思っていたの」


 そう言って私はカゴいっぱいのブルーベリーを差し出す。


「ちょうど今旬で美味しいのよ。これならオオカ……ワンコが食べても大丈夫だし」


 どう見ても見た目狼なんだけど、宮中にいるこの子の事をはっきり狼と言っていいものか迷い訂正した私に、


「……ワン」


 とわざわざ鳴き声を訂正してくれる狼様。

 私と狼の間に沈黙が流れる。


「ふ、ふふ、あはは……あーおっかしい。気を遣って鳴き声訂正しなくていいわよ」


 吹き出すようにひとしきり笑った私は、


「一緒に食べましょう」


 そう言って狼の頭を軽く撫で、部屋に誘った。


「あなたに会うの、カルディア以来ね」


 おいで、と呼べば狼は素直に応じてくれる。

 何度か交流した結果、皇帝陛下の使い魔だけど、あまり警戒しなくてもいいのではないか、という結論に至った私は遠慮なくモフる。


「ふわぁーモッフモフ。癒される」


 この狼からどの程度セルヴィス様に報告が上がっているのかは相変わらず不明だが、カルディアの宿屋に泊まった後もセルヴィス様の態度はさして変わらない。

 私の不調に気づかれていないのか、この子が黙っていてくれているのか、大した事ではないと判断されたのかは分からないけれど。

 身体を検められる事態にならないのならそれでいい。

 リープ病には治療法がない。私の身体がリープ病に侵されていると露見したら、帝国を出た後イザベラとの入れ替わりが難しくなる。

 それだけは避けなくては、と思うのだけど。


「モフモフは万国共通の正義よね。セルヴィス様、この子私にくれないかしら?」


 魅力的過ぎるモフモフを前に私の理性はあまりに脆かった。


「はぁぁー可愛い。可愛い過ぎる。めちゃくちゃシャンプーとかトリートメントしてあげたいっ!!」


 吠えたり噛んだりされないのをいいことに気が済むまでブラッシングをして、モフモフを堪能したあと、私は手ずからブルーベリーを食べさせる。


「ごめんね、本当はうさぎとか狩って生肉用意したかったんだけど」


 罠にかからなかった、と心底残念そうに言った私に、


「バゥ!」


 すっごい勢いで首を横に振られた。

 どうやらうさぎは好みじゃないらしい。


「菜食主義の狼なのかしら?」


 うーんと首を傾げつつ、私は図鑑を引き寄せる。


「イヌ科の身体に良いものは確か……」


 パラパラと図鑑をめくっていると、狼が身を乗り出して図鑑を覗く。


「あなたも見るの? ……コレは、古代文字?」


 よしよしと、頭を撫でながら視線を落とすとページの下に見慣れない文字を見つける。

 古代文字は獣人族と呼ばれる種族が使っていたとされる文字で、昔々の大きな争いで種族と共に滅んでしまったと言われている。

 今でも多くの研究者がその文字の解読に取り組んでいるけれど、ほとんど読むことができていない。


「……どうして、古代文字がこんなところに?」


 その綺麗な筆跡を指でたどる。

 沢山の国の言葉で綴られた多彩な薬のレシピが書き込まれている図鑑。

 古代文字の訳は書かれていないが、何か意味があるような気がしてならない。


「獣人、か」


 調べてみようかしらとつぶやいた私の言葉に反応した狼が私から図鑑を取り上げる。


「ちょ、ダメ! ダメよ! これは私がセルヴィス様に頂いたものなのよ!?」


「ウゥーーバゥ!!」


 まるで興味を持つな、と言わんばかりに紺碧の瞳が強く訴える。


「バゥ、ガゥガゥ」


「どうしたの? そんなに興奮して」


 なお唸り声を上げる狼を宥めるように抱きしめた私は、


「分かった。調べない! 調べないから」


 これは返して、と図鑑を取り上げたタイミングでまた心臓が酷く痛み、私は図鑑を床に落としてうずくまる。


「……った」


「バウ! バウバウ!!」


 先程までの声音とは違う鳴き声で駆け寄って来た狼に手を伸ばす。


「心配、してくれるの? ありがとう」


 大丈夫、と言った私はそっと狼を撫でる。狼は心配そうな声を上げ、身体を擦りつけ大きな背を向ける。

 どうやら捕まれと言っているらしい。私は狼に助けてもらいながらベッドに横たわる。


「すぐ、治るわ」


 お礼を言った私は、


「私ね、モフモフ大好きなの。だからあなたに嫌われたくない」


 紺碧の瞳と視線を合わせて静かに話す。


「あなたにとって、嫌なことは絶対しないから」


 約束する、と言ってぽんぽんと隣を叩く。


「側にいて欲しい。私が眠るまで、ずっと」


 あの晩あなたのおかげですごく良く眠れたの、と手を伸ばせば狼は仕方なさそうな顔をして、静かにベッドに上がり私の横に身体を横たえた。


「セルヴィス様には内緒ね。私、一応あの人の妻だから。……偽物の寵妃、だけど」


 そう言った私は狼に抱きつく。

 すると不思議な事にだんだん痛みが和らいで、代わりに眠気が押し寄せる。


「おや……すみ」


 温かさと安心感の中、ゆっくりと眠りに落ちながら、私はこの子の名前が知りたいなとそんな事を考えていた。

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