仕事の終わり
リリア様は、信じられないものでも見たとでも言いたげな視線を私に向ける。
けれどそんな目で見られるなんて、正直心外だわ。
私に虐められているように感じたのかもしれないけれど、私はリリア様を助けるつもりでこの場にいるのに。
飲み物一つ飲むのにも、誰が手渡すかで揉めるのが、お城という場所。
もしこの場に『公爵令嬢』という明らかに身分の高い侍女がいない場合、誰に何を頼むかリリア様が采配しなければいけない。
上手くさばけないと、儀式が進まなかったり、火種を生むことだってある。
まぁ、もしこんな面倒な現実を知っていたら、きっと王妃になりたいなんて思わなかったんだろうけど。
最初は私に当たり散らすことでどうにか我慢していたようだけれど、その後も失敗するたびに他の侍女たちの小言と冷たい視線を浴びていくうちに、リリア様の口数はだんだんと減っていった。
「リリア、城での暮らしはどうだ?」
「…………」
ようやく最愛のアレクサンダー王太子殿下とお話をする機会に恵まれたというのに、夕食のころにはすっかり口を利かなくなってしまった。
「リリア?」
殿下好みの可愛らしい顔からは、感情が抜け落ち、アレクサンダー殿下に声をかけられても、反応すらしない。
「……ひとまず食事にしよう」
殿下がそう言うと、リリア様は力なくスプーンを手に取り、スープをすくいあげた。
「まだお食事の前の祈りの儀式が終わっておりません」
しかし、ピシャリと叱責する侍女長の声に阻まれ、スープを飲むことは許されなかった。
みるみるスープは冷めていき、スープの奥に並べられた御馳走たちからもだんだんと艶が失われていく。
「――もう我慢の限界!」
突然、立ち上がったリリア様は、振りかぶった両手を、力いっぱいテーブルに叩きつける。
「せっかくの豪勢な食事も食べられなければ意味がないじゃないッ!」
「リリア様。儀式が終われば、好きなだけお食事を召し上がって構いません」
「儀式、儀式、儀式! 部屋に入る前にも儀式。座る前にも儀式。食べる前の祈りの儀式。それから何? 運ぶ儀式? 儀式って奴はいつになったら終わるのよ!」
叫びたくなるほど儀式が多いという点には同意するし、同情だってする。
けれど、儀式がいつまで経っても終わらないのは、リリア様が何度も失敗したり、我儘を言ったりして、儀式を中断させるからだ。
「殿下。わたくし、このままじゃ何も食べられずに餓死してしまいます。どうかこのしきたりを今すぐ変えてください」
目にいっぱい涙を溜めて、リリア様はアレクサンダー殿下に訴えかけた。
「この程度のことで音を上げてどうする?」
「へ?」
「フェリーチェは三歳のときから、毎日こなしてきたことだぞ。大したことはない。そのうち慣れる」
リリア様の魂の訴えを、アレクサンダー殿下は軽い調子でバッサリと切り捨てた。
「で、ですが、殿下ッ!」
「それよりも、フェリーチェの姿が見当たらないが、あの女はリリアの侍女をするのではなかったのか? まさかあれだけの大口を叩いておきながら、逃げたのか」
ん? なぜか殿下の目の前にいるはずの私に話が飛び火する。
いくら私を罵倒したいからといって、あまりにも底意地が悪い。
「兄さん。フェリーチェなら、そこにいるじゃない」
「どこだ」
「だから、リリア様のすぐ横に」
「……まさか、自分で仕えるのが嫌で、別の女を寄越したのか?」
「たしかに美しく有能で、未来の王妃に仕えるには申し分ない逸材だが、約束は約束だ。本人が来て、リリアに尽くさねば意味がないだろう」
「兄さん」
「なんだ。しつこいな」
「その、美しくて有能で未来の王妃に仕えるには申し分ない逸材に見えるレディが、我らが幼馴染で、公爵家令嬢のフェリーチェだよ」
「フェリーチェ……!?」
食堂にやってきてから、何度もアレクサンダー殿下の視線を感じてきたが、レイナス殿下が私を指し示すと、改めてアレクサンダー殿下はまじまじと私を観察してきた。
特に胸のあたりに熱い視線を感じる。気持ち悪くてたまらない。
「この、美人が!?」
「フェリーチェ・クレメンスでございます」
十年も傍にいたというのに、顔すら覚えていなかったのだろう。
アレクサンダー殿下は、まだ信じられないとばかりに、私の頭のてっぺんから足の先まで舐めるように眺めてきた。
「殿下、聞いてください! この女が今日一日散々酷い仕打ちを……」
リリア様はすかさずアレクサンダー殿下に駆け寄り、泣きつく。ところが殿下の視線は私に――私の胸に完全に固定されており、リリア様の方を見ようともしない。
それどころかリリア様を振りほどいて、私の目の前までやってくると――あろうことか、その場で跪いて私の手の甲に、口付けを落とした。
「フェリーチェ……君はそんなに美しかったんだね」
「殿下! どういうつもりですかッ!」
顔を真っ赤にして、リリア様はアレクサンダー殿下に詰め寄った。
「リリア。君にはガッカリだよ。あれだけ、立派な王妃になってみせると大口を叩いていたのに、たった一日も我慢できないなんて」
しかし、アレクサンダー殿下はリリア様を罵倒する最中も、ずっと私を見つめ、手を握りしめたままだった。
見つめてすらもらえない屈辱で、リリア様の瞳からついに本当に涙が零れ落ちた。
「わ、私は、聖女よ!? 今まで一人もいなかった聖女の王妃を得て、歴史に名が残る立派な王になるんじゃなかったの!?」
「そもそも、聖女って言っても、まだ候補になっただけだよね」
今まで静かに事の成り行きを見守っていたレイナス殿下が、ポツリと呟いた。
「それに魔力だってフェリーチェの方がずっと強いよ。聖女の条件である光属性の魔法は使えないかもしれないけど、他の属性魔法のほとんど使えるし、確か新しい魔法理論を構築したって宮廷魔術師長から表彰もされてたよね」
リリア様は何も言い返すことができないと、悔しそうに俯くばかり。
一方のアレクサンダー殿下は、いまだかつて見たことのないような恍惚とした表情で、私をじっと見つめてくる。
「フェリーチェ。君の輝きが眩しすぎて、君の近くに居すぎて、君の真実の価値が見えなくなっていたみたいだ。私が間違っていた。謝罪するだから――」
「お断りいたします」
「あの、まだ、途中で」
「わたくしは、何があってもアレクサンダー殿下との婚約破棄を覆すことはありません!」
断言されたのがよほどショックなのか、アレクサンダー殿下はぽかんと口を開けたまま微動だにしない。
私は貴婦人の微笑みを浮かべたまま、私の手を握るアレクサンダー殿下の手をやんわりと撥ね除けた。
「それと今回の婚約破棄ですけれど、私にはリリア様を虐めることはできなかったという証拠を陛下に提出しておきましたので、殿下の一方的な我儘によるものだと認めていただきました」
「ち、父上に!?」
「その結果、賠償金を頂戴することになりました。詳しくは陛下にお尋ねくださいませ」
「待て。私と君の仲だろう賠償金なんてそんなッ……!」
「わたくしたちの間には、もう何の仲もございませんよ」
私が立ち去ろうとしても、アレクサンダー殿下は跪いたまま、その場に縫い付けられたように動くことができない。
「こんなはずじゃなかったのに……」
アレクサンダー殿下の声音は、今にも消え入りそうなほど弱々しい。
けれど、私にそんなことを言われても、できることは何もないし、これ以上何かしてあげるつもりもない。
十分私はやるべきことをしてきたのだから。
「リリア様が婚約者をお降りになったということは、わたくしのお仕事もこれでお終いですわよね。短い間ですが、確かにお約束通り、お世話させていただきました。では、これにて失礼いたします。――ごきげんよう」
私は渾身のお辞儀をしてから、足早に王宮を後にした。