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抑止の鍵  作者: 間宮一希
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抑止の鍵 後半

 木が生い茂る山の麓、鬼の村で赤鬼は産まれた。鬼の村と言っても、人間の村と何も変わらない。畑を耕し、獣を狩り、魚を釣り、山菜を取る。自然の恵みに感謝し、山の中を駆け回り、赤鬼は鬼の村で自由に育っていった。

 だが、自由の中に大きな不自由があった。それは、二つの村の掟だ。その一つが、人間とは関わってはいけない、という内容だった。

 鬼の村から山を挟んで反対側に人間の村がある。近年、人口が減っている鬼の村とは違い、人間の村は栄えていく一方だった。

 幼い赤鬼と同年代の子供は、鬼の村には一人も居ない。兄や姉、父や母のような存在は村の中にチラホラいるが、やはり同い年くらいの遊び相手は欲しくなるものだ。

 年上の人達は、自分と遊んでくれるがずっと居てくれる訳では無い。狩りに向い、畑を耕しに行き、バタバタと忙しそうな一日を送っている。

 そうなると、自然と一人で居る時間も多かった。そんな時は、山の中に入る。自然は、いつだってそこに居てくれた。

 頭の上で揺れる葉に、足の指の隙間を通っていく小川、遊んで火照った身体を冷やしてくれる風。栗鼠を追いかけ木を登り、兎を追いかけ草を跳び越す。猪の親子に挨拶をして、神の使いの様な鹿に遭遇する。山には様々なものがあった。楽しさがあり、怖さがあり、生があり、死があった。

 それから数年が経ち、赤鬼も十歳になり、遊ぶだけでなく、狩りをして村の食料の確保などをするようになっていた。

 質素な和服で一本の斧を持ち、巨大な猪をがむしゃらに追いかけて、山の奥へと入っていた。何年も山で遊んできたとは言え、大きな山だ。知らない場所もあれば、来たことの無い場所もある。

 知らない森をズカズカと進み、猪が突っ込んだ草むらを大ジャンプで超えた時だ。


 「わ」


 草むらの先は、整備された山道だった。きっと、相手も驚いただろう。

 道の脇にある草むらから巨大な猪が出てきたかと思えば、その後ろから斧を持った鬼が現れたのだから。

 草むらから飛び出した赤鬼の目の前には、一人の少年が居た。目を丸くし、口を開け、薪を背負った少年。

 少年と少女の目が合った時、お互いの口から間抜けな声が漏れていた。


 「お、鬼だ」

 「に、人間だ」


 お互いに指を指し、時間が一瞬止まる。だが、直ぐに村の掟が赤鬼の頭には浮かび上がっていた。


 「は、まずい!」


 猪の事なんて忘れて、ジャンプで超えてきた草むらをもう一度飛び越え、鬼の村目掛けて走る。

 村の掟のこと、初めて見た人間のこと、通ってきた道筋、逃げた猪。様々なことを考えながら走っていく。


 「あの人、私と同い年くらいかな」


 少年を見た時に驚いて落とした斧の事など忘れて、自分の庭同然の山の方へと帰っていった。そして、次の日になり、


 「斧ないよ〜。やっぱりあの時に落としたのかな?」


 山を駆け回り、無くした斧を探し回る赤鬼。本人の中でも、少年に会った時に落としたと考えているが、再び人間の近くに行くことを少し躊躇っていた。とはいえ、自分の狩り道具であり、愛着もある斧の為、絶対に回収したいという気持ちもあった。

 その為、恐る恐るあの少年に会った方へと進んでいく。小川を飛び越え、倒れた木を飛び越え、あの草むらからそっと顔を出す。


 「そ〜っと」

 「……来た」

 「うわ」


 あの道には、少年が両膝を抱えて座っていた。そして草むらから顔だけを出すシナノの姿を見て、明らかに目の輝きを変えていた。

 その少年の姿を見て、赤鬼が明らかに不機嫌そうな顔をした。


 「あ、あの、この斧、君のだよね?」


 座っている少年の横には、銀色に輝く年季の入った斧が置かれていた。


 「……そうよ。だから返して」


 少年になるべく姿も見せないようにと、草むらから斧を渡すよう手をヒラヒラと差し出す。


 「うん。ふッ!くッ!……あの、これ重いや」


 その斧は、赤鬼達、鬼が使うと想定されている物なので、人間が、それも子供が持つ事なんて不可能だった。

 必死に持ち上げようとしてもピクリとも動かない斧。少年は完全にお手上げ状態だ。その様子を見て、仕方ないとため息をついて、赤鬼は草むらから姿を現した。

 その瞬間、少年の視線が額に生えている二本の角に向かっていることを実感した。その視線を感じながら、落ちている斧の柄を掴み、肩に担ぐ。


 「それじゃ。多分、もう会うことは無いわ。さよな」

 「待って!」


 立ち去ろうとする赤鬼の手を、少年が握っていた。


 「なによ。私は鬼で、アンタは人。関わっちゃいけないんだけど」

 「あ、あの鬼なら高いところまで木登り出来る?」

 「……もちろん、出来るけど」

 「なら、お願いがあります!」




 「それで、この子をあの巣に返してあげればいいの?」

 「うん、お願いします」

 「……しょうがないわね。ほっ」


 少年が数日前に保護したという鳥の雛。その雛を片手に赤鬼は、木をすいすい登っていった。

 あっという間に木の上の方にある巣に辿り着き、その中に雛を優しく置いて、するすると簡単に木を降りてきた。


 「あんなに高く登れるなんて凄いね。ありがとう!」

 「べ、別にこれくらいなんてことないよ。それじゃ、さよなら」


 雛を巣に戻し、斧も回収したので今度こそ帰ろう。そう思って少年に背を向けた。

 「あ、うん。さようなら」


 少年のさようならには、寂しさや悲しさの気持ちが混ざっていた。


 「……あんた、明日も今の時間くらいにここに来れる?」

 「来れる、けど」

 「なら、次に雛が落ちてもあんたが助けられるように、木の登り方を教えてあげる。いい?」

 「……うん!いいよ!」

 「そう。それじゃ、またね」

 「また明日!」


 少年と赤鬼は、明日また会う約束をして、それぞれの村へと楽しそうに帰って行った。

 それから、二人は数日の間、仲良く遊んだ。木登りをして、小川に行って、野いちごを食べ。ある日、少年が自分の友達を誘ってもいいかと聞いてきた。それに対して、少しの不安はあったが、赤鬼は承諾した。

 赤鬼の不安は、杞憂だったらしい。少年の友達も赤鬼の事を快く受け入れ、楽しく遊ぶ日々が続いた。

 だが、ある冬の日だった。


 「子供が鬼に襲われているぞ!!」

 「ガキの鬼一匹だ!村の男を連れて来い!捕まえるぞ!」

 「角だ、角を取れ!」


 いつものように木登りをしていた赤鬼達。そこに人間が偶然通りかかり、一緒に遊んでいる所を見つかってしまった。

 赤鬼や少年達は大人に説明しようとしても、聞き入って貰えなかった。


 「鬼は直ぐに嘘をつく!子供達を食うつもりだったんだろ!」

 「恐怖で言うことを聞かされてるんだ、可哀想に。この鬼が!」


 赤鬼は、人間の男達に顔を殴られ、腹を蹴られても泣くだけで反撃はしなかった。きっと、やり返したらやりすぎてしまう。そう、自分で分かっていたからだ。

 ここで大人達を殺せば、もう二度と少年達と遊べなくなる。今の段階でも確率は低いだろうが、殺してしまえばその確率は無くなる。それだけは避けたかったからだ。

 男達からの暴力が終わり、縄で縛られそうになったタイミングで赤鬼は逃げ出した。

 息を切らしながら山を走り、汗と涙を零しながら村に着く。


 「どうしたの。そんなにボロボロになって」

 「あはは、走り回ってたら崖から滑って落ちちゃった」


 家の前で鉢合わせた母親を誤魔化すために、出来損ないの作り笑いを浮かべた。


 「まったく、こことか痣になってるじゃない。可愛い一人娘なんだから、あんまり心配させないでよね」

 「わかってるよ〜」

 「本当に分かってるの?ほら、薬塗ってあげるから中に入りな」

 「はーい」


 とても優しい手つきで、とても染みて痛い薬を塗ってもらった。

  それから数日は、いつもの遊び場所に行こうとは思えなかった。傷が完治し、心の整理も着いた日。その時にはもう、春が近づいてきていた。


 「す、すみませーん!あのー」


 訪れたのは、あの日、山道で出会った少年の家だった。戸を叩き、声をかける。すると、


 「誰だい?こんな朝早く……ッ、騒ぎになっていた鬼か!」


 他の村人に出くわさないよう、日が出る少し前に家に訪れていた。

 家の中から出てきたのは、少年の母親だろうか。朝早くに起こされ、眠そうだった顔が赤鬼の姿を見て青白くなっていく。


 「いったい、何しに来やがった!やっぱりうちの子供を食うつもりだろ!」

 「ち、違いますよ!私は、本当に仲良くしたいだけなんです。信じてください!」


 そう伝え、頭を下げる赤鬼。


 「信じるって言ったって、鬼の言うことなんか……。そうだ、」


 赤鬼の頭を見ていた少年の母親がふと何かを思いつき、悪そうな顔をした。


 「角だ。息子と遊ばせてやる変わりに、お前の角を寄越しな。鬼の角は物凄く高く売れる。それでいい、角で我慢してあげるよ」

 「……私の、角」


 そう呟きながら、自身の額に触れる。二つある硬い感触。黒曜石のように漆黒に輝く綺麗な自慢の角。


 「で、どうすんだい。村の奴らが起きたら、私まで袋叩きにされるかもしれないでしょ。角を寄越すか、諦めるか。早くしな」


 少年の母親がぐいぐいと押してくるせいで、赤鬼の思考が乱される。鬼の角も大事だが、少年達とも再び仲良くなりたい。その思いがせめぎ合う。


 「……左の角だけなら」


 二つある角の片方。それだけなら許す。そう、赤鬼は述べた。


 「片方だけかい。まぁ、いいさ。ほら、これで切れるかい」


 少年の母親が手渡して来たのは、台所で料理などに使っているであろう包丁だった。一見、そんな包丁では角を切るのは無理そうに見えるが、鬼の筋力とどこに刃を当てれば簡単に切れるかがわかる戦闘能力があれば、楽にやれる行為だった。

 あとは、心の問題だ。


 「私の、角。私の角。私の角。私の角……」


 角に刃を当て、切れる場所を確認した。あとは右手に力を入れて、落とすだけ。

 鼓動が早くなるのを感じ、背中に嫌な汗が浮かぶ。


 「ほら、早くしな」


 少年の母親の声を聞き、更に心臓が跳ね上がる。呼吸が荒くなり、頭に熱が溜まっていく。自身の呼吸音が耳にうるさいほど届き、冷静な判断が出来なくなっていく。手が震え、包丁と角がぶつかり合い、小さな金属音が聞こえていた。いつの間にか歯が揺れ、膝も大笑いしている。

 お母さんになんて言い訳しようかな。そう考えた時、綺麗な断面図を持った黒色の角が地面に落っこちていた。


 「こ、これどうぞ」


 赤鬼が拾い、差し出した角を、少年の母親は奪うように手に取った。

  キラキラと輝く角を手のひらの上で転がし、ため息をつく。


 「確かに角は受け取った。息子と遊んでも良いわ。といっても、もう大人達は起きてくるし、今日は忙しいの。遊ぶなら明日からにしてくれる?」

 「はい!明日、いつもの木の下で待ってると伝えてください!お願いします!」


 また、一緒に遊べる。その事実だけで、赤鬼の心の中から角を失った悲しさは薄れていた。

 日が登り始めている薄暗い山を駆け、違和感の残る額を摩る。


 「で、その角はどうしたの」


 母親は、明らかに怒っている。少しの呆れと、悲しさも混じっているだろう。真剣な顔の後ろに、複雑な表情が蠢いている。


 「良い?鬼に取って十歳は、もう大人なの。だから、貴方の友達の事や選択の事についても詳しくは言わないわ。でも、大人になったからって私の子供なのは変わらない。親として言うけど、自分の事をもっと大事にして、良いわね」


 母親は、赤鬼の両手を握り、青色の瞳に語りかける。


 「……うん。でも、友達の事って……いつから知ってたの?」


 母親の発言の中には、赤鬼が隠していた事が混ざっていた。それも知ったのは、最近という訳でもないようだった。


 「親っていうのは、子供が知らないくらい子供を見ているものよ。それで、その失った角の分、良いことはあったの?」

 「そうなの!明日ね……あ、その、村の掟の事なんだけど」


 角を落としてまで得た友。だが、その友は人間だ。

 村の掟。それを破った故の怒りが飛んでくる、そう考えて赤鬼は身構えていた。

 だが、母親の表情は柔らかいものだった。


 「人間と関わってはいけない。あの村の掟は、百年以上前のものよ。時代遅れの掟は、生きている者をゆっくりと窒息させる。貴方は、人と関わり、人と共に生きなさい。きっと、その方がいいわ。でも、掟があるのにも理由があったはず。それを破るという事は、それ相応の危険性もきっとあるわ。それは、覚えておいて」


 母親の発言は、正しかった。

 人間と関わることは、良い事で悪い事だ。

 赤鬼が人間と関わる、という選択が悪かったのか。会いに行く時間が悪かったのか。角を片方しか渡さなかったのが悪かったのか。

 大人に見つかって殴れられた時に手を引いておけば良かったのか。雛を巣に戻して直ぐに消えておけば良かったのか。そもそも斧なんて捨てて、人間の近くに行かなければ良かったのか。猪を追っていた時に知らない森に来た時点で引き返しておけば良かったのか。

 そもそも、本当に少年達と仲は良かったのか。自分が鬼で、明日もここに来てと言われ、怖くなったから来ていたのでは無いか。大人達が言っていたのは本当だったのかもしれない。全部、自分が悪かったのかもしれない。


 「なん、で?」


 朝から夕方まであの木の下で待っていた。既に雛は成長し、巣を旅立っている。空になった巣の下で、何時間も待っていた。

 待ちくたびれ、木の根に座っていたところに雨が降ってきた。もう、帰ろう。そう思って立ち上がった時、少年の友達の一人が木の近くを歩いていた。

 近寄り、あの少年の事を聞く。まだ忙しそうなのか。何をしているのか。どうして約束の場所に来られないのか。

 年の友達は困惑し、言葉を零す。その言葉を聞いた時、赤鬼の足は自然と人間の村へと向かっていた。

 村の大人に見つかり、驚かれ、叫ばれても無視を貫く。今の赤鬼には関係ない。

 少年の家に着き、古びた木の扉を乱暴に開く。


 「裏切られた」


 少年の家の中には、誰も居なかった。

 荷物も無くなり、ガランとした家の中からは人間の生活なんて感じられない。

 少年の友達は言っていた。少年は昨日、家族に引っ張られて村を出たらしい。急いで荷物を詰め込み、何かに追われているかのように慌てて村を離れた一家。

 後から知った事だが、鬼の角は、欠片だけで豪邸が建つほどの値打ちがあるらしい。人間の力では、折ることなんて不可能に近い硬さの鬼の角。

 それを一本丸ごと手に入れたあの一家は、一瞬で大富豪になっていたのだ。金の心配は無く、息子を鬼から離せるのなら、こんな小さな村に居る必要は無い。もっと人のいる都市の方へと馬を進めたのだろう。

 様々なものを得た人間と違い、赤鬼の手の中には何も残っていなかった。角を失い、友も失い、人間に騙されて出来た傷だけが心に残り続けている。

 少年の家の前で座り込んだ時、気が付いた。遊ぶ為の友達なら、少年以外にもまだいる。少年が紹介してくれた、友達が数人いる。それなのに、何故自分は、こんなにもあの少年に固執しているのか。


 「そっか。私、好きだったんだ」


 何故、あの家族は、母親は急いで少年を連れて逃げ出したのか。それは、鬼に惚れられた息子を守る為だ。

 自分の子供を守る為に生まれ育った村を捨て、赤鬼の手の届く範囲から逃れたのだ。

 やっと、理解出来た。村の掟が何故あったのか。それは、お互いに傷つかない為なのだろう。

 人間と鬼は、違う生き物だ。相容れぬ存在。どんなに仲良くしても、結局は別物という訳だ。

 母親には人と共に生きろと言われたが、きっと、赤鬼には無理だ。人、という括りだけでは無い。人も鬼も含めて、他人という別の意志を持つ存在と関わらない方が良いのかもしれない。自分は、他者と生きるのが向いてないのかもしれない。

 赤鬼を取り囲む大人達の頭の上を飛び越え、涙を乱暴に腕で拭いながら鬼の村へと帰っていく。

 泣いて帰ってきた娘を見て母親は様々な言葉を投げかけるが、どれも赤鬼の中には入って来ない。

 母親の言葉は、どれも的外れのように聞こえて、どれも本質を得ているような気がする。傷付ける正論では無く、傷を治す甘やかで厳しい言葉。

 赤鬼が人間と関わっていたという噂はすぐに村に広がり、真実と虚構が入り混じる。

 少し考えれば分かるような明らかなでまかせに踊る大人達。赤鬼の考えなんて一切気にしない、厳しい言葉。

 掟を破ったものは、村から追い出されるべき。その考えを持つものも当然だが多かったはずだ。

 それでも村に赤鬼が残れていたのは、母親が村長などと話をしてくれたからなのだろう。

 そんな事は知らず、赤鬼は溺れるほどのぬるま湯に心の傷と共に浸かっている。

 赤鬼は、心を閉ざした訳では無い。心を隠していた。

 他人と会話をし、笑い合う事は出来る。それでも裏切られるのが怖く、裏切られても良いように自分を隠して生きていた。

 他人は裏切る。他人は信用出来ない。他人の本心は汚れていて醜い。

 防衛線を引き、本当の自分が傷つかないように生きていた。

 自分の中で生まれていく、都合の良い真実と虚構。疑心暗鬼と自己嫌悪、拒絶と信頼。生まれてきては消えていく、言い訳と、たらればの道。

 心の傷は、暇な時に開いてくる。昼間の狩りや農作業中にはやって来ない。疲れて帰り、ホッと一息を着くはずのアツアツの風呂の中。身体を横にし、明日の為に眠る布団の中。暇な時間が生まれ、脳が余計なことを考えられる度に、意識はあの村へと引っ張られてしまう。

 どうすれば良かったのか。母親の言うことを聞いてもダメだった。母親も間違えるのか。母親も大人も完璧では無いのか。

 大人って、もっと凄いのではないか。人を騙し、攻撃する悪役はもっと少なくて、世間のほとんどは優しく、暖かいものじゃないのか。悪役は必ず倒され、裁かれるものでは無いのか。

 そもそも、悪とは何なのだろうか。自分から見れば角を奪い、約束を無下にしたあの母親が悪だ。しかし、向こうから見れば息子を連れ回し、遂には家にまで来た鬼の方が悪に見え、恐怖するのかもしれない。あの日、赤鬼が家の戸を叩いた時、本当は息子も旦那も捨てて、走って逃げたかったのかもしれない。あの場を切り抜ける最善の方法が高額の角を貰い、村からも逃げる事だったのかもしれない。それなら、


 「私って、悪い鬼なのかな」


 深夜三十二時の陽の光の中、部屋の隅で膝を抱えて座っていた。

 嫌なことばかり思い出す頭がつくづく嫌になる。ずっと吐けないまま残っている吐き気のような気持ち悪さにうなされ、頭が割れそうだった。

 少年が居なくなったあの日から、長い期間が経ったようにも、ほんの僅かな期間にも感じる。しかし、母親の心配具合から長い期間が立っているのだろう。

 いつまでも心が不安定な赤鬼の為に、母親がこの子を連れて来てくれた。


 「ん、おはよう。よく寝てたね」


 赤鬼の布団の中から顔を出したのは、一匹の犬だった。白と茶色の美しい毛並みの可愛らしい犬。

 他人を拒絶する赤鬼に取って、心の傷を癒してくれる数少ない存在。一人で生きる覚悟が無ければ、他人を信じる勇気も無い。そんな赤鬼を助けてくれる存在。

 嘘に塗れ、思っていたよりもろくでもない、自身の想像の遥か下にある現実。その中でも、真実だけで生き続けている純粋無垢な生物。

 寝惚け顔で布団から抜け出し、赤鬼の元へ近寄ってきた犬の頭を優しく撫でる。柔らかく、暖かいその生き物は、赤鬼の荒み、傷んだ感性を治してくれていた。


 「さて、そろそろ起きるかな」


 犬を抱き締め、その体温を堪能する。自分よりも早い鼓動を確認し、立ち上がった。腕を大きく上にあげ、背中や足などを伸ばす。貯めてある冷たい水で顔を洗い、気合を入れた。

 犬の飲み水用の皿を洗い、綺麗な水を入れて差し出す。草鞋を履き、玄関の戸を開けると、気持ちの良い風が家の中に入って来た。


 「おはよう、猫ちゃん達」


 家の前には、猫が並んで座っていた。サバトラと呼ばれる、銀色に黒の縦線が入った模様をしている種類で、赤鬼の姿を見るや、その可愛らしい声で鳴き始めた。

 身体が大きい猫が二匹居て、その間には、手のひらに乗るほどの小さい猫が五匹並んでいた。

 いつの間にか家に住み着いている、野良猫の一家。その野良猫達にも水の入った皿を差し出し、天気のいい外を数歩歩く。

 静かだが騒がしい山の中に、赤鬼は一人で住んでいた。母親のおかげで村を追い出されなかったが、噂や嘘が飛び交う村の中は生きづらかった。村から少し離れた山の中に小さな小屋を立て、そこで犬と猫の家族と共に生きる事を選んだ。

 山の下を見れば、煙が上がっている鬼の村が見えている。

 一人で小屋に住むようになってから二年が経っていた。今でも寂しさはあるが、その寂しさはこの子達が埋めてくれている。

 初めて会った時は野良猫一匹だったのにも関わらず、いつからか二匹になり、今では子猫が横に並んでいる。そんなに時間が進んでいたんだ。子猫の頭を撫でながら、そんな事を考えていた。


 「ほら、ご飯だぞ。たーんとお食べ」


 犬には猪の肉を、猫には魚を、子猫には貴重な牛乳を差し出した。


 「……私も食べるか」


 干し肉を取り出し、噛みちぎる。赤鬼の食事はそれだけだった。

 自分の食事よりも、この子達の食事を優先している訳では無い。あの日のことを思い出した日は、自然と食べ物が喉を通りづらくなる、それだけだ。

 あれから二年経っていても、未だにそうなってしまうのは、自分が弱いからなのか、他の人もそうなのか。それは分からなかった。


 「それじゃ、行ってくるから。ちゃんと留守番しててね」


 悲しげな声を上げる犬と、鳴かずに見つめてくるだけの猫達に留守番を頼み、山を降りていった。

 村で夕方まで農作業をし、母親の住んでいる家に顔を出し、山の中へと帰る。いつもと変わらない、何の変哲もないただの一日。

 小屋に戻り、犬と猫にただいまを伝える。そのはずだった。


 「犬の、鳴き声……ッ!」


 山道を歩いていた赤鬼の耳に、甲高い鳴き声が届く。その声を聞いた途端、全身に悪寒が走り、心臓が暴れだした。汗がじんわりと浮き上がり、嫌なものばかり当たる赤鬼の予感が、頭の中でうるさいほど鳴っている。

 焦りと恐怖が赤鬼の足を進めていた。木の隙間から小屋が見えたタイミングで、風向きが変わった。


 「血の匂い」


 鼻に入ってくる血特有の独特の匂い。焦りと恐怖は、怒りへと変わっていた。

 それは自分への怒りなのか、小屋から出てくる男への怒りなのか分からなかった。


 「あ、ああッ!!!」


 男の手からは、血が滴り落ちている。粘度が高く、へばりついている赤黒い血。男が持っている出刃包丁には肉の破片がこびりついていて、赤鬼の正気はほとんど消えていた。


 「っ、ごぉ」


 男のこめかみに、赤鬼のつま先がめり込む。首の骨が折れないギリギリの威力の蹴りをくらい、立っていられる者はいない。

 地面を転がり、止まった呼吸を必死に戻そうともがいていた。咳き込み、涎を大量に零しながら男が虚ろな目で周囲を確認する。

 その視界の外側から男の服を掴み、岩に投げつける。


 「どうして、あの子達を殺したの」


 今すぐに殺してやりたいという本能を、僅かな理性で止まらせ、男に質問をする。


 「お、お前があいつらの飼い主か?そりゃ、残念だったな。俺は、自分よりも弱い畜生どもを殺すのが好きなんだよ」

 「つまり、意味なんて無いと」

 「あぁ、そうだ。嫁と喧嘩して村を出て、いつもみたいに殺しやすそうなのがいないか探していたら小屋を見つけてな。中に犬と猫が居たから殺した。それだけだ。殺しやすかったぜ?人に慣れているのか全く吠えなかったし、子猫なんて握るだけで潰れちまったよ」


 人を殺すのは、全てでは無いが多少は分かる。殺したくなるほど憎く、理不尽な敵なら殺そうと思う。

 動物を殺すのは、意味が無いと分からない。

 食べる為に殺すのは分かる。動物はみな別の生き物を殺し、食べて生きているからだ。

 戦場で殺すのは分かる。殺さなければ、殺されるからだ。

 自分が生きる為に必要だから、動物を殺す。これが赤鬼の中の答えだった。

 食べる為に殺す。殺されるから殺す。だが、目の前の男は殺す為に殺した。

 鳴かず、噛むことも怒ることもしなかっただろう。優秀で可愛らしい犬を、意味も無く殺す為に殺した。

 子を守る為に立ち向かい、人間と比べればとても非力で弱い存在である猫達を、意味も無く殺す為に殺した。

 そう、男は述べたのだ。それなら、この男を殺そう。


 「ごぉぇ」


 男の頭が、岩に埋まる。否、正確には埋まった訳では無かった。岩の表面に男の頭が広げられていた。

 赤鬼の蹴りが鼻の骨を砕き、頭蓋骨を壊し、筋肉と脳を岩に擦り付けていた。落としたトマトのように赤色の身が弾け、乾いていない絵の具のように岩の上を滑り落ちていく。

 破裂した目玉の端と、頭脳を無くし筋肉へと伝達が無くなった身体が地面に落ちていた。

 これが、赤鬼の初めての人殺しだった。

 赤く染った扉を開けて家の中に入ると、むせ返るような死の匂いが溢れ出した。

 喉を刺され絶命し、腹をさかれた犬。首を跳ねられた親猫。握りつぶされ、内蔵が口や腹から飛び出した子猫。

 あの少年が、あの少年の父親や母親がこういう人間だったかもしれない。村の中でこの男とすれ違っていたかもしれない。自分のことを殴っていた中にいたのかもしれない。鬼の村の中にもいるのかもしれない。

 こんな事をできる人間が、何気無い顔で村で生きていたのだ。人とよく似た気持ちの悪い生き物が居るのは、恐怖以外の何者でも無かった。

 家の近くに大きな穴を一つ掘った。その中に、薪を積み、溢れ出てくる大粒の涙を零しながら、無惨な亡骸を大事に入れていく。

 犬が入れられ、猫達が入れられ、火のついた棒が最後に優しく置かれる。

 それが、赤鬼の理性が保たれる限界だった。


 「殺してやる」


 あの村への道を二年ぶりに歩き出す。


 「殺してやる」


 赤鬼から全てを奪っていくあの村へ。


 「殺してやる」


 鬼の本能。他の生物を殺したいという欲求のまま、赤鬼は行動をする。

 原理や理由なんて分からなくても、細胞が、本能が次にするべき行動を理解している。

 殺意の具現化。鬼が本能に目覚めた時に現れる秘剣。


 「殺してやるッ!」


 至極色に燃え盛る刀を持って、鬼が人里に降りてきた。

 出来の悪い悪夢だ。鬼の振り回す殺意から逃れられた人間は、誰一人として居なかった。

 頭を輪切りにされ朽ち果てる男、胴体を斜めに切り落とされた女。両足を切り落とされ、頭を潰された少女、かつての友に心臓を引き抜かれた少年。

 人口二百人程の村が、一晩で地図から消えた。残されたのは、死体と焼け落ちた家屋、無傷の家畜達のみ。

 鼻の良い村人が小屋での惨劇に気付き、鬼達は意を決して、人間の村に足を運んだ。

 殺す本能が宿る赤鬼の角を鬼達が封印するまで、赤鬼は炎と死体の中で遊んでいた。

 「今回ばかりは擁護出来ない。鬼の本能が一度でも目覚めた者は危険すぎるんだ。すまないが、掟に従い村からは出ていって貰う。夜明け前には出てくれ、悪いな」

 人を喰らい、気を失った赤鬼を巡っての議論。その結論が村長の口から紡がれた。

 角を封印したと言っても、それは一時的なものだ。赤鬼が怒りに飲まれ、殺意を抱く度に角は皮膚の下から姿を現すだろう。

 鬼の本能に呑まれた者は、村から立ち去る。それが、村の掟の二つ目だった。

 赤鬼の母親は、その言葉を聞いて、泣きながらその場に座り込んでしまった。逆に赤鬼は、冷静に話を聞き、最後にやることがあると伝え山の小屋へと戻っていった。


 「ごめんね。ありがとう」


 男の死体は村人が片付けたらしく、既に消えている。

 穴に残された骨に一回一回気持ちを込めて土をかけ、拾ってきた大小様々な石を積み上げ、簡素ではあるが墓を作った。

 墓の前に少ない花を添え合掌し、静かに目を瞑る。心の支えとなり、赤鬼を救ってくれた八匹に一分間の黙祷を捧げた。


 「さよなら」


 山にある全てに別れを告げ、山を降りた。

 遠くの空が明日を迎えようとしている。村人はみな家に帰り、暗い村は静まり返っていた。

 赤鬼は、追い出される身。見送りなどは無く、一人、ひっそりとこの村から出て行くものだ。少しの金と水の入った小さな竹の水筒を持ち、村の入口へと歩いていく。


 「待って。何処に行くにしても道は遠い、この子に乗っていきなさい」


 呼び止められ振り返ると、茶色い美しい毛並みを持つ馬を連れた母親が立っていた。

 赤鬼が小屋に住むようになってから母親が飼いだした馬。


 「良いの?」

 「もちろんよ。貴方は近いうちに旅に出ると分かっていたから。その時に助けになってくれるよう育てたんだもの」


 鐙に足を乗せ、馬の背に跨る。景色がすっと高くなり、遠くに登り始めていた朝日が瞳に入って来た。

 薄らと霧が出て、冷たい空気の山が日に照らされ始める。どんなに酷く、醜い惨劇があったとしても、自然はいつも通り姿を変えずにそこにあった。


 「お母さん、行ってきます」

 「行ってらっしゃい、シナノ」


 シナノの瞳から大粒の涙が零れるが、もう母親に拭うことは出来ない。

 馬の腹を優しく蹴り、旅の一歩目が踏み出されていた。

 あっという間だ。手を振り続ける母親の目には、既にシナノ達の姿は無い。馬の足音が遠くなり、残響すら消えていく。

 既に泣き、赤くなっていた目から、再び涙が溢れ出していた。

 速い馬だ。村の入口を飛び出し、全身に風を感じながら疾走する。朝の気持ちいい空気を肺いっぱいに取り込み、深く呼吸をする。

 涙が出るほど悲しいはずなのに、気持ちはすっきりしていた。目に見える自然の美しさも、自分のことを歓迎し、祝福してくれているように見えた。緑の葉が風に揺れ、土の匂いが広がる、陽が小川の水を煌めかせる。

 泣いた赤鬼の旅が始まった。




 刀が振られる度に、至極色の殺意が猛威を振るう。

 数十メートルは離れたエマに向けて刀が振られ、刀から放たれた炎の束が、その距離を喰らいつくし、その間にあったもの全てを葬り去る。

 赤鬼の殺意と共に増した炎は、木を消失させ、地面や岩をその圧倒的な火力で蒸発させていった。

 一度に広範囲を破壊し、絶命させる鬼の刀は、敵味方の区別など無い。森の中にあったログハウスは、近くを通った炎の束の余波だけで吹き飛び、弱く脆い人間は骨の欠片も残さずに蒸発していた。

 現代兵器にすら無いであろう破壊力と凄まじいエネルギー。炎の束の爆発的な威力は、核兵器に匹敵していた。そんな火力が一人の少女から出ているというのは、恐怖で済むような話では無かった。

 本体が見えなくなるほどの炎が、刀の内側から止めどなく溢れ出ている。それを握り、敵に向けて振るい続ける赤鬼の姿は、希望にも絶望にも取れる姿だった。

 外なる神の力と鬼神の戦いによって、緑の森が消えていく。炎上、焼却、消滅、蒸発、腐敗、崩壊。人ならざる者の力によって、世界が壊されていった。


 「ッ!!」

 「蛮勇、醜悪ね」


 エマの姿を正面に捉え、再び刀が大きく振られた。

 森を吹き飛ばし、地面を抉りながら迫る炎の束を、身を翻し、宙で華麗に回避するエマ。

 炎の束はそのまま突き進み、森の傍にある丘に激突していた。ぶつかった地面は蒸発し、クレーターのように抉り取られ、その表面はマグマのように溶け、真っ赤になっている。そして、内側から巨大な爆発音と共に爆ぜ、丘は完全に無くなり、周囲の森に火を降らせていた。

 赤鬼の斬撃によって、地面から生えている紫紺色の触手が燃え尽き、木と共に消失した。だが、瞼を一回閉じる間に、大量にあった全ての触手が甦っていた。何度消えても、再び地面を割って姿を現す大量の触手達。

 砂漠でアーカムが出した触手よりも、遥かに多い数だ。大小様々な触手が暴れ狂い、赤鬼を殺そうとする。


 「もう、見飽きたッ!」


 だが赤鬼は、三度の戦いを経て、既に触手の動きを見切っていた。否、見切っていてもいなくても変わらなかっただろう。赤鬼の火力は異常だ。一振で百メートル先までは消し炭に変えている。その威力の前では、無限に湧いた所で、ただ消えていくだけだった。


 「そう、これならどう?」


 ただ暴れていた触手達が、意志を持った行動を始めた。

 そのまま赤鬼を殺そうとする触手と、赤鬼を取り囲もうとして、素早くドーム状に広がっていく触手の二つに別れる。一瞬にして、夜の暗闇よりも更に深い闇に包まれる赤鬼。暗闇でも見える目なので効果は無い、そう思っていたが、


 「ッ!」


 赤鬼を大きく取り囲んでいた触手の吸盤。数なんて、もう分からないほどの量だ。その全てが、甲高い奇妙な音を立てながら、紫色の光を力強く放つ。

 その次の瞬間、触手で取り囲まれていた空間全てが光に包まれ、轟音が鳴り響き、巨大な爆発を起こしていた。中にあった味方であろう触手なんて関係無く、空間全てを吹き飛ばす。

 先の光は、弾を撃った時に銃口から出る閃光だ。赤鬼の炎の束の様なエネルギーの凝縮体。それが吸盤から放たれたのだろう。

 爆発の炎が取り囲んでいる触手も吹き飛ばし、数十メートルの火柱が外へと舞い上がる。

 この戦いで一番大きな爆風と衝撃波が広がっていき、海に停まっているモビィ・ディックを揺らす程だった。


 「あの炎はシナノか……。ッ、人間が行っても死ぬだけだ!海岸に居るスタッフを全員艦に戻せ!」


 数年前に見た至極色の炎が再点火されているのをモニターで確認し、クーパーがスタッフの回収を命じる。

 森から生えてくる火柱や暴れ狂う無数の触手、それらを焼き滅ぼす至極色。それは、人間の可能性の外側の戦いだ。

 神話の戦いに手を出せる人類はそういない。シナノが鬼の本能を出すような事態、それだけでただ事では無いことが分かる。今の人間には、その圧倒的な力を見ている事しか出来なかった。


 「面倒くさい。今ので死んでいた方が気持ち良かったんじゃない?」


 触手が解けるように消えていき、爆発の跡地が顕になる。

 植物は完全に消えて地面が赤く煮えている。二メートルはある巨大な岩は全て溶け、クレーターの底へと粘り気を持って流れていく。

 クレーターの底には、赤鬼が居座っていた。巫女の様な可愛らしい衣服を捨て、流れてくるマグマのように紅く、至極色の刀のように禍々しい雰囲気を持つ甲冑を着ている赤鬼。

 その甲冑が爆発から身を守ったのだろうか。紅色の兜と、金色の牙が施された黒色の仮面が割れて地面に落ちるが、赤鬼は亡霊のようにゆらりと立ち上がり、穴の底を覗くエマを睨みつけていた。


 「ヴァ、アァッ!!」

 「言葉まで失った。もはやただの獣。もののけね」


 獣の威嚇を聞き、腰の短剣を引き抜く。

 その次の瞬間には、赤鬼がエマの目の前に現れた。炎の束を自身の後ろに放ち、その莫大な推進力で穴の底から飛び出していた。

 炎の束の威力そのまま、二本の刀でエマを切り裂こうとする。

 片方は自身の短剣で、もう片方は地面から飛び出した何本もの触手が腕を掴むことで止めていた。


 「オァッ!!」


 だが、腕が止まっても脚は止まっていない。エマの横腹に、赤鬼の脛当てがめり込んでいた。

 その一撃が入っていることを確認してから、刀の炎が更に威力を増す。腕に絡みついている触手がちぎれ、エマと赤鬼の身体が高速で森の中を移動する。岩を砕き、木を薙ぎ倒し、地面に背中や後頭部を激しくぶつけているがエマの顔は涼しいままだった。


 「うざい」


 目の前で叫んでいる赤鬼に一言呟き、その場から消える。

 転移魔術を使用し突如消えた標的。エマを探す赤鬼の頭上で、紫色の光が何発も放たれた。

 触手が現れるのに一秒もかからない。気付いた時には、触手が全方面を覆っていた。再びあの巨大な爆発を浴びれば、赤鬼の鎧は砕けるだろう。赤鬼自身の強度も相当だが、それでも鎧を失うのは痛手な筈だ。

 紫色の光と甲高い奇妙な音があったということは、既に弾は発射されている。今から爆発の範囲の外側まで逃げることは難しいだろう。否、そもそも赤鬼は逃げる姿勢を見せていなかった。


 「ッ!!」


 炎が空を斬り裂いた。赤鬼が自身の頭上に向けて刀を振り、至極色の炎が滝のように天へと登っていく。

 その途中にある全てが破壊される。それは、不可視の弾丸も含まれていた。空中で巨大な爆発が生まれ、天にも地にも莫大な影響が出ているが、赤鬼の目的は悪魔で直撃を避けることだ。その目的は達成され、赤鬼に目立った外傷は確認出来なかった。

 それを見て、エマがため息を一度着く。触手に任せて遠距離からの攻撃で終わるのなら一番楽で簡単だったのだが、このままでは埒が明かない。時間だって無限にある訳ではない上、狂犬と戯れ続けるなんて面倒極まりない。


 「良いわ。私の方から行ってあげる」


 その言葉と同時、赤鬼の両手両足と首に触手が絡み付き、一瞬であろうと動きを止めた。地面を蹴る必要も、急いで移動する必要も無い。通常の移動なら、一瞬止めたとしても意味は無いだろうが、エマには転移魔術がある。その一瞬で殺す為に赤鬼の後ろに出現し、白く綺麗な首筋に短剣を振りかざす。

 だが、赤鬼の戦闘時の俊敏さや破壊力は異常だ。人間では有り得ない反応速度で背後を振り返る。それも、ただで振り向く訳では無い。刀の炎を集め、最大火力の炎の束を撃とうとしながら、振り向こうとしていた。

 エマもそれを見逃さなかった。否、見逃せない程の禍々しさが視界の中に飛び込んできた為、生存本能の脊髄反射だ。

 刀を振らせないために首を狙っていた短剣を急遽、刀にぶつけ、強制的に鍔迫り合いの様な形に持っていった。

 だが、この接近している状態を逃がすのは惜しい。触手に再び縛ってもらい、自身の目に集中した。


 「死んで」


 赤鬼を捉えている翠色の右の瞳から、紫色の輝きが放たれた。それは、あの触手と同じ物だ。不可視の弾丸。それが、近距離であるエマの目から放たれる。

 想定外の攻撃を、首を曲げて、寸前のところで回避した。赤鬼の髪の毛の先を消し、高速で飛んで行った弾丸は、遠くの森で大爆発を起こした。

 その爆風が、エマと赤鬼の髪や服を揺らす。

 この強力な一撃を放った瞳。その瞳を潰そうと、赤鬼が刀を握り直す。触手の拘束を筋力で突破する。

 整っていて、とても美しいエマの顔を潰そうと赤鬼が狙いを定めた時だった。


 「……ッ、ア、ガァ」


 翠色の視線と蒼色の視線が交差する。

 赤鬼は、身体的、物理的には最強と言っても過言では無かった。

 己の意識を無くし、言葉も失い、完全に本能だけで動く状態。痛みなどの感覚も壊し、相手を殺す為だけに動く獣。

 それが、仇となった。

 警戒心が高く、疑い深いシナノなら、あんな一撃を放つような目を肉眼で見る事などしなかっただろう。

 赤鬼は、その全てを破壊する。罠があればその罠を踏み荒らし、策があればその策を正面から壊滅させる。それは、物理的な問題だ。

 この瞳は違う。それは、見た者を発狂させ、狂気の渦に沈める瞳だ。

 心理攻撃、精神汚染。赤鬼の中に、莫大な恐怖が芽生えた。何が理由なのかは分からない。だが、その分からない事すら不安で、心配になり、恐怖へと強制的に変更される。感じる事、考える事、思う事全てが狂気を纏う。

 気付けば赤鬼は消えていた。圧倒的な恐怖を前にして、シナノの裏に逃げ隠れたらしい。本能で生きている赤鬼にとって、翠の瞳はそれ程にまで恐怖の対象だったのだ。


 「あ、あああ、いやッ!ひぃ、あぁッ」


 シナノの中に、自身が恐怖と捉えるもの全てが流れ込んでくる。死、人間、嘘、暗闇、孤独、他人、未知、喪失、血、炎、深海、高所、空、宇宙、裏切り。

 己の中の恐怖が、口から漏れ出す。カタカタと音が聞こえるほど歯がぶつかり合い、手や足が見た事無い程に震えている。震える足に何とか力を入れているから立っているが、少しでも弱めれば、地面に崩れ落ちるだろう。

 首や背中、手のひらなどに汗が現れ、胃の中の物が喉へと込み上げている。生唾が口の中に出現し、自然と涙が零れていた。

 誰かが叫んでいる。死に面した動物の様な、産まれを悲しむ赤子の様な、耳をつんざく金切り声が頭の中を壊してくる。

 いいや、違った。この声は自分の声だ。

 シナノの喉から、叫び声が上がり続けている。

 精神が壊れていく。過去の忘れたい記憶が呼び覚まされ、大人から子供の頃に。あの時へと戻され、脳の奥底に寄せていたものを突きつけられる。

 なんでこんなのを見せるんだ。なんで昔の自分はこんな何だ。裏切り者。嘘つき。虚言。私に優しくしてよ。

 曖昧で知らなかったものが、流れてくる真実の情報で壊される。現実、真実、事実、本心、本当の事は知ると傷つくものだ。自分の知らない、知らないままの方が良かったことがほとんどだ。

 本当は、仲間は皆、自分の事を嫌っているんだ。要らない、捨てたい、追い出したいと思っているんだ。村から追い出された時と同じ様に、静かに消えて欲しいという雰囲気の中でまた過ごしているんだ。

 必要とされたい。捨てられたくない。役に立ちたい。一緒に居たい。見捨てられたくない。殺されたくない。何も分かっていなかった。子供だから知らなかったんだ。執拗いかもしれないけど、傷つきたくないから助けて欲しい。嫌な事から逃げ出す哀れな自分を救って欲しい。

 自分の中に入ってくる世界を拒絶しても、どこかの隙間から入って来る。どんなに心を閉じても、必ず開かれる。

 嫌だ。逃げたい。誰か、助けてよ。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。

 感情が押し付けられる。自分の中から湧き上がってくる殺意とは違う。他人の意思で、自分の感情が決められた。

 強制的な発狂。行為的な心の破壊。

 自分の中に何かが入って来て、自分の内側全てを見られた。

 私を見て欲しいけど、見て欲しくない。

 知って欲しいけど、知られたくない。

 伝わって欲しいけど、伝わって欲しくない。

 分かって欲しいけど、分かって欲しくない。否、分かるはずがない。


 「……やめて。もうやめてッ!!」


 深層心理、自分で意識していない、無意識までもが見られた。

 全てを見られ、全てを否定され、全てを恐怖に変えられた。

 自分の意志を、自分の思想を、自分の感情を、自分の選択を、自分の努力を、自分の人生を食べられ、舐められ、しゃぶられ、汚され、捨てられた。

 悲鳴と否定が絶えず口から溢れ続けていた。

 気付けば、地面に倒れている。右の頬に柔らかい土の感触があり、口の中で土と血の味がする。

 潮と鉄の匂いを嗅ぐことが多くなってから、土の匂いを懐かしむ事が多くなった。

 どっちの方が幸せだったのかは分からない。未来は、誰にも分からないものだ。あのまま山の中で土の匂いと共に生きるか、海の上で潮の匂いと共に生きるか。

 そもそも、山の中と海の上では、価値基準が変わり、考えも変わっただろうから幸せの定義が異なっているかもしれない。もしもそうなら、世界が広がったという点で、海の方が良かったのだろうか。それとも、知らない方が良かったものが多くある、気持ち悪い世界なんて認識せずに、山の中にずっと居た方が良かったのだろうか。

 山と海の記憶が、恐怖の下から溢れ出す。これが、走馬灯と呼ぶものなのかもしれない。


 「……あの子達に行ってきますを言うの、忘れちゃってたな」


 セーラムに向かうヘリコプターの中で、犬と猫に行ってきますを言うのを忘れてしまった事に気が付いた。

 今日死んでしまったら、最後の会話はなんだっただろう。もう、会えないかもしれない。これで終わりかもしれない。

 そういった不安が、作戦中、心の中にずっと居座っていた。その不安が後悔に変わり、シナノの心を埋め尽くす。


「力があっても、結局最後は、春の夜の夢ね」


 ぼんやりと宙を見る少女の頭上で、紫の光が強く放たれた。





 「おらァッ!!」


 赤の軌跡と紫の軌跡がぶつかり合う。金属音とは違う、高音で心地の良い、宝石に衝撃が伝わっていく音がトンネルに鳴り響いていた。

 残響が鳴り止まぬ内に、次の一手がぶつかり、高速で戦闘が進んでいた。


 「そこッ!」


 戦闘は、二対一だ。

 前に出てアーカムと直接斬りあっているハーリング。そして、後方から射撃でサポートをするイーサン。

 ハーリングとシナノがペアとなり、任務に向かうようになるまでは、イーサンとハーリングがペアだった。

 その頃の感覚をお互いに忘れてはいない。息のあった、隙のない攻撃を次々に繰り出していく。

 イーサンが閃光弾を投げるタイミングで、一瞬のみ身体を後ろに向けて眩い光を回避し、即座に槍を上から下へ振り落とす。

 ハーリングが低く構え、アーカムに突進する際は、上の開けたスペースをイーサンの弾丸が飛んで行く。

 ハーリングの蹴りがアーカムを中心に捉え、吹き飛ばす。その吹き飛んでいく場所を予測し、先にグレネードを投げ込んでおくなど、異常なまでの相性の良さを見せていた。

 だが、


 「決め手に欠けるな。ボス、残弾は?」


 アーカムとの戦闘を一度止め、大きく跳躍するハーリング。後方で支援をしているイーサンの横に着地し、アーカムの方を見続けながら問う。


 「化け物の群れの後に連戦だ。残弾は無し、ナノテクもほとんど使い切ってる」


 触手を持った怪物の群れとの戦闘で、既にかなりの量の弾やグレネードを消耗していた。それにも関わらず、補給も無いままアーカムとの戦闘に入り、決着が長引いている。

 マガジンは空、グレネードは全て使い切った状態だ。


 「残ってるのは、こいつだけだ」


 左胸の前に装備している軍用ナイフ。その大きく、特徴的なグリップを掴み、引き抜いた。

 コンバットナイフと呼ばれ、片側にのみ刃があり、刃もグリップも黒色。三十センチ程の大型のナイフが、アーカムへと向けられた。


 「その、ナイフで……俺を殺そうと?面白い。やって、みるか」


 アーカムの声音には、いつものような明るさは無い。必死に絞り出した後の絞りカスのような空元気だ。病人のような息遣いに、フラフラと揺れている脚。

 それでも、イーサン達との距離を、躊躇いなく歩いて縮めていく。一歩一歩、足音を響かせ、手に持っている宝石が地面に線を描いていく。


 「左で右だ」

 「了解した」


 短い言葉だけで、作戦を伝え、理解する。

 呼吸と足音、床を削る、耳鳴りのような甲高い騒音。

 連続の戦闘により、肩で息をしていた二人。その呼吸が、ピタリと止まる。息を止め、短い時間に強く筋肉を動かす無酸素運動に近い。

 全身の筋肉に力が伝わり、二人の身体は、アーカムを殺そうと動いていた。

 ナイフを逆手持ちし、右肩に突き刺そうとするイーサン。赤い槍の刃を下に構え、アーカムの左脇腹を斜めに切断しようとするハーリング。

  同時だ。その攻撃は、全く同じタイミングで始まり、全く同じタイミングで終わろうとしている。


 「ッ!」


 赤い槍を紫色の宝石が、黒いナイフを黄金の義手が掌で受け止めていた。

 宝石と槍の鍔迫り合い、義手を貫こうと押し込み続けられる義手の間で大量の火花が散っている。金属同士が擦れる耳障りな音が響く。

 だが、その時間は、そう長くは無かった。

 ハーリングがすぐさま槍で宝石を弾き、その威力を殺さないまま、アーカムの腹に全力で脛をめり込ませた。

 その蹴りを食らっても倒れること無く、地面の上を滑っていくアーカム。義手の指先を地面に突き刺し、大量の火花を散らしながら道路を抉り停止した。

 胴体を上げるアーカムに向けて、攻撃の手は止まらなかった。

 アーカムに蹴りを入れた直後、ハーリングは再び脚に全力を込めていた。

 血管を通過していく血が、肉を支えている骨が、電気信号が飛び交う神経が、脚にある全ての肉の繊維が目標物を蹴り飛ばす。

 その蹴りは、樹齢数千年の大木をなぎ倒し、海を割ることすら可能かもしれない。

 海の怪物の頭骨から作り出された、紅色に燃え上がる破裂の槍。その槍が、ソニックブームに匹敵する衝撃波と爆音と共に、ハーリングから蹴り出されていた。

 だが、無数の触手が槍を止めようと黒く染った地面から現れた。貫かれ、弾かれ、抉られ、死んでいく。雑魚が大量に現れた所で槍は止まらない。止まらないが、減速はしていた。

 元の速度が異常すぎる為、多少の減速があっとしても、この槍に人間は叶うはずが無い。しかし、アーカムは人間を捨てていた。自らの寿命を、命の灯火を差し出し、鍵の力を引き出した。アーカムの身体は、人間という枠組みを超えている。

 細胞が書き換えられ、人ならざる者に変化している。

 心臓を狙った一撃。その攻撃は、心臓のすぐ横の皮膚を貫いていた。皮を引き剥がし、肉に食らいつき、肺胞を崩壊させる。密集した細く小さい血管を破り捨て、肩甲骨と共に背中の内側から外へ貫通した。

 通常なら即死も有り得る程の損傷。気を失う程の激痛が身体を襲い、肺を失った事により呼吸も困難になるはずだ。


 「……ッ、あ、ぐうッ!」

 「こいつ、完全に怪物に変わってやがったか」


 それにも関わらず、アーカムは自身に突き刺さっている槍を引き抜こうと手で握っていた。血が槍の表面を滴り、少しズレるだけで大量に傷口から溢れ出ている。血や脂で汚れ、手を滑らせながら槍を引き抜く様は、見ている相手に多大なる恐怖を与えただろう。

 槍を引き抜き、地面に投げ捨てる。

 それは、まるで目の錯覚だ。槍によって開かれた穴が埋まっていく。背中まで到達した傷が、潰れてグジュグジュになった肺が、散り散りになった血管が元に戻っていく。


 「この、くらいで……ッ!?」


 修復されていく傷口を抑え、ガスマスクの下に大量の汗をかきながら立ち上がるアーカム。

 その身体に、異変があった。

 衝撃が全身に伝わり、腹部に鋭い痛みが走る。先の攻撃程では無い。否、あの槍の一撃からしてみれば痒いと感じるレベルのものだった。

 目の前に人影がある。両手で大型のナイフを持った男、イーサンが立っている。漆黒のナイフをアーカムの腹に深く突き刺し、立ち止まっている。

 ナイフは、刃が見えなくなるほど腹に突き刺さっているが、アーカムには大したダメージは与えられていない。


 「いまさら、こんなナイフが効く訳が……」

 イーサンの行動に困惑しているのはアーカムだった。先の槍で生きていた怪物に、こんなナイフが通じる筈が無い。そんな事、少し考えれば分かるだろう。

 それにも関わらず、この男はナイフ一本で立ち向かって来た。刺して逃げる訳でもなく、今も怪物の手の届く範囲で止まっている。

 何故なのか。この男は、そんなに馬鹿では無いはずだ。一体、何をしようとしているんだ。

 アーカムが、思考を巡らせている時だった。


 「ボンッ」


 イーサンが小さく呟いたのと同時、右手の親指がグリップのスイッチを押していた。


 「なッ!?」


 その直後、大型のグリップ内に設置されているカートリッジから、詰め込まれていた超高圧のガスが、非常に強い勢いで一気に刀身から噴射された。深く突き刺さっているナイフから出たガスは、当然ながらアーカムの体内へと送り込まれる。

 イーサンがスイッチを押した直後、アーカムの上半身が内側から爆ぜていた。


 「あ……、がぁ、は」


 上半身と下半身が皮一枚を残して別れ、黒色のレインコートの下から血が広がっている。骨や内蔵が散乱し、スプラッター映画さながらの光景になっていた。

 アーカムは地面に倒れ、虫の息となっているが、ガスで破裂した傷すら、急速に修復されている様子だった。レインコートの下で見えない何かが蠢いているが、その正体は恐らく治っていく傷口だろう。

 ちぎれた上半身と下半身がくっついていく場所なんて、とても見られたものでは無い。今は、アーカムが着ているレインコートに感謝だ。


 「ボス、こいつにどうやってトドメを刺す?身体が真っ二つに鳴っても死んでないような奴だ」

 「……シナノとエマが無線に出なくて心配だ。こいつは、再生するのにまだ時間がかかる。先にシナノ達と合流しよう」


 地面に投げ捨てられていた槍を拾い、地面に這いつくばっているアーカムへと近寄るハーリング。

 エマとシナノと別れてから、それなりの時間が経っている。順調に事が進んで核を破壊しても、何かの邪魔が入ってまだ壊せてないにしても無線で何かしらの連絡はするはずだ。

 その無線が来ていなく、こちらからの連絡にも答えない事から、何か嫌な予感がしていた。


 「了解。取り敢えず、最後にもう一回刺しとくか。もしかしたら殺せるかもしれねぇ」


 横たわっているハーリングの頭を狙い、槍を持ち上げる。そして、頭の上に槍があるのを確認して振り上げ、「よ」という掛け声と共に、腕の力と重力、槍の重量でアーカムの頭を突き刺す。はずだった。


 「な」


 槍は、柔らかくて硬い人間の頭部には当たらなかった。青々と生えている草を斬り、冷たい土に勢い良く穂が潜り込む。

 空気の悪い地下トンネルから一変、涼しい夜風が美味しい空気を運んで来てくれた。

 暗く、静かな夜の山。

 開けていて、木のベンチなどが置かれている休憩所の様な場所だ。

 目前には、夜の暗闇に光る美しいセーラムの街とそびえ立つ巨大な城。どこまでも続く白い点線が並んだ滑走路に眩しい明かりを灯している軍の施設。

 見えている光景から判断して、自分達は城の裏にある山に居るらしい。


 「ハーリング、無事か!アーカムは!?」


 声の方を振り返ると、ハーリングと同じく状況に困惑しているイーサンが立っていた。そして、


 「そんなに、大声で呼ぶな。ちゃんとここに居るさ」


 少し離れた場所から、アーカムの弱った声が聞こえてきた。

 身体はまだ動かせない様子で、首だけを傾けて二人の方を向いている。そして、首を反対方向に傾け、山の下、城の方を眺め始めた。


 「アーカム、なんでこんな所に連れてきた。逃げるだけなら俺らを飛ばすか、自分だけ飛べば良かっただろ。目的はなんだ」

 「目的も何も、一緒に見ようじゃないか……。歓喜の時だ」


 その声は、喜びに包まれている。

 声を荒らげる訳では無い。噛み締めるようにゆっくりと、抱き締めるようにしっかりと、幸福と共に口に出していた。

 安堵し、自身の仕事の一旦の終わりを悟るアーカム。


 「歓喜の時……?ハーリング、シナノ達が核を壊せたのかまだ分からない!とにかく急いで破壊しに行くぞ!」


 アーカムの言葉によって、嫌な予感が溢れ出てくる。

 胸騒ぎがする、なんていうレベルでは無い。もはや、確信に近かった。シナノとエマが核の破壊に失敗したと。

 すぐさまハーリングを連れて、走り出そうとした時だった。


 「いいや、もう遅い。砂浜に停泊中の海賊船は、核の炎で燃え尽きる」


 イーサン達の居る山の麓。そこから、巨大な金属音が鳴り響いた。

 その音に反応し、下を覗くイーサンとハーリング。

 それは、ハッチが開いた音だった。森の中に隠されていた重く分厚い半円型のハッチが二つ開いていき、直径数メートルの円形の穴が姿を現した。

 開いてすぐ、黒い煙が中から溢れ出す。

 絶対に開かせてはいけなかった。絶対に阻止しなくてはいけない。

 二人は、一目でそれが何なのか理解した。そして、自分達が取るべき行動もだ。


 「走れ、ハーリングッ!」


 イーサンの叫び声よりも前にハーリングは飛び出していた。山の柔らかい地面を蹴り飛ばし、背の高い木々を踏み越え、暗い山の傾斜を全力で走り抜けていく。

 石を割り、葉を散らし、突き進む。

 自身の正面に立ち塞がる木を全て瞬時に斬り倒し、強引に最短距離を突っ込んでいく。

 開いた穴の中から、直径二メートル、全長十六メートルの筒が強大な推進力によって飛び出す。

 真っ白で傷一つ無い弾頭が姿を現す。通常の人間が見ていたとしても、弾頭だけが見えている瞬間なんて分かるが無い。だが、ハーリングは弾頭が姿を現し、下の部分が穴から出て来ているのを細かく見れる程の速さを持っていた。

 地響きのような巨大な爆音と衝撃波、熱風が山中を震わせている。だが、ハーリングもかなりの速さで接近していた。直接叩く事は出来ないが、アーカムを貫いたあの槍なら届く範囲に到着していた。


 「ここからならッ!」


 ハーリングから核ミサイルまで、約五十メートル。トンネル内でアーカムに傷を負わせたのとほぼ同じ距離だ。

 既に槍は右足の甲にぶつかっている。一方、空へと飛び上がろうとしている核ミサイルはまだ半分程が地面の中だ。

 槍が蹴り出される。足の筋肉がしっかりと槍を捉え、前へ押し出している。

 核ミサイルも上がってきているが、まだ筒の最後尾、長く伸びる火柱は地上に出てきていない。周囲を煙が覆っていくが、ハーリングの槍には関係無い。


 「死ねッ!!」


 推進力を与えられた槍が、ハーリングの脚から離れる瞬間だった。

 煙の中から、奇妙な紫色の光が放たれていた。


 「ぁ」


 ハーリングを中心に大爆発が起きるのと同時、核ミサイルが夜空に炎の帯を描き出す。

 空に昇っていくほうき星のようなその姿は、美しくも恐怖を覚える姿をしていた。

 鼓膜を破る程の巨大なエンジン音を立てながら、空高くへと上がっていく人類の叡智。その少し横を、爆発によって軌道がズレた赤い槍が通過していった。

 下から吹き上がってくる爆風と大量の熱風。エンジンの煙や、紫の光によって巻き上げられた土煙。

 ハーリングの蹴りから生まれたエネルギー、触手の爆発、核ミサイルのエンジン、様々なものが混ざり、山どころかセーラムの街全体が揺れていた。


 「ハーリング!」


 下で起こった大爆発の中心に居るのは、間違いなくハーリングだ。心配し、大声を上げるが大量の土煙とミサイルから出た黒煙で、下の方は何も見えない状況だった。


 「最悪だ、クーパー!核が発射された!目標はオーマだ!おい、聞こえてるか!?お……ッ!?」


 耳に手を当て、クーパーに無線で連絡を取ろうとしている時だった。

 空で、爆発が起きた。

 星が散りばめられた夜空の中、一際輝く直径数十メートルの炎の球体。

 長く伸びた煙の先。高速で飛翔していた核ミサイルの姿は無くなっていた。

 白色の筒の破片が散らばり、地面へと落下していく。その光景に驚いていた時、遅れて爆発の音と衝撃波がイーサンの身体を襲った。


 「なんだ、何が起こってるんだ……?」


 空での爆発と地上を繋ぐ一本の線があった。

 赤、青、紫の稲妻が纏った白色の一本の線。それが、撃ち出された核ミサイルを撃墜していた。

 高音と低音、硝子が割れるような繊細な音に石で殴った時のような鈍い音。破壊という全てが詰め込まれた、脳に刻まれる銃声。

 空に伸び、新しい太陽だと思われるほどに世界を照らし、下に広がる世界を輝かせる。

 かすっただけでも大爆発を起こさせる、強大な熱エネルギー。溶かし、蒸発させ、爆破する。現代にも存在しない、驚異的な威力を持ったビーム兵器。

 それを撃った者が下に居た。

 核を破壊した熱線の先、そこは、セーラムの城。否、城があった場所だ。今の熱線によって、崩壊していく最中だった。

 城の壁は熱で溶け、真っ赤に染まりながら横に倒れていく。屋根や背の高い塔は蒸発し、城全体が一瞬で瓦礫に変わっていく。それは、熱線のせいだけでは無かった。

 城が、下に崩れ落ちていく。壊れ、地面に落下するだけではない。否、そもそも城の床、地面が無くなっていた。

 巨大な穴。城の地下へと、粘り気を持つ城だった液体達が垂れていく。

 全てが穴へ落下するのにも関わらず、逆に穴から這い上がってくるものがあった。超高温で降ってくる城を無視し、穴の縁に手をかけ、ゆっくりと顔を出す。

 それは、人型だが人間では無い。落ちてくる瓦礫を無視して登ってきているから、などという理由では無い。そもそも、大きさが違い過ぎた。


 「……なんだ、アイツ」


 城の地下から登ってきたのは、巨人だ。城壁を掴み、身体を持ち上げる巨大不明生物。

 腕だけでも数十メートルはあり、その全長は百メートル近いかもしれない。

 皮膚は無く、筋肉が露出しているような暗緑色の肉体。身体中の筋や血管が動いているのを遠目でも確認出来る。

 長い手足を持ち、等身も高く、細長いという印象を受ける巨人。

 腕や肩には複数の突起物があり、腰からは、まるで別の生物かのように激しく動き回る細長い尾が生えていた。

 生気を感じない、紫色の目が下界を覗いている。黒目のようなものはなく、目に当てはまる場所に紫色の宝石を置いているだけのように見えていた。

 開かれている口の中には、鋭く禍々しい牙が生え揃っている。鼻や耳に当てはまる部位には穴があるだけで、骸骨のような印象を受ける頭部だった。

 五本揃っている手と足の指は非常に長く、鋭い、身体と同じ色をした爪が生えている。足の爪が、赤く爛れた地面に深く突き刺さり、巨人の身体のほとんどが地上に姿を現していた。


 「核が、核が壊された……?あの巨人は……ッ」


 暗緑色の巨人に驚いているのは、イーサンだけでは無かった。想定外の謎の生物に核が壊され、混乱しているアーカム。

 その反応は、どう見ても演技では無い。本当に驚き、困惑している様子から、アーカムに取っても異常事態らしい。

 そんな、疑問だけが飛び交っている場所に、一人の少女が答えを持って現れた。


 「今までご苦労様、イーサン、アーカム。貴方達のおかげで、人々に忘れ去られた抑止力が目を覚ましたわ」


 聞くものを虜にする美しい声音。

 可愛さと美しさを備えた美貌に、月の明かりの様に輝く銀色の髪。

 整った顔の中でとびきりに輝く、大紫色の瞳。形のいい鼻や、艶のある唇。

 顔や腕の白く透き通るような綺麗な肌が、金色の装飾が施された漆黒のドレスによって更に際立つ。

 自身の肘を抱き、地面をハイヒールで蹴って現れた少女は、エマだった。


 「エ、エマ?」

 「エヴァ様!」


 驚きを隠せないイーサンと、喜びと焦りの声を出すアーカム。

 二人の声を聞いて、エマが微笑みながら話し出した。


 「そうね、この際だから教えてあげる。私の本当の名前はエヴァ。エマっていうのは、私の姉の名前よ。今まで貴方に見せてきた金色の髪もエマのもの。本当の私は、自然の物ではない、この銀色」


 これまでとは違う、銀色に輝く髪を手で払いイーサンに見せつける。


 「エマ……エヴァ、お前の目的は何なんだ」

 「私の目的は、核を撃つこと。でも、それだけじゃなかったの。核という、人間が持ってはいけない力を使って、抑止の神を呼び起こすことが真の目的。その目的は、ついさっき叶ったわ」

 「なん、で……?」

 「ああ、貴方にも言ってなかったわね、アーカム。貴方に言っていた、核を撃って世界を平和にするというのは全て嘘よ。……あの子を呼び起こすには、争いが必要だったの。その為にアメリカの軍人数人をこの目でコントロールしたわ」


 エヴァが指差すのは、翠から紫に変わっている自身の瞳だった。


 「初めに世界に銃をばらまいて、紛争や戦争を起こさせた。次に、脱走兵が出たという話を聞いたから、その脱走兵へ空母を行かせ、巨大な軍事力を建造し、高度な争いを増やした。そして核を運び込み、脱走兵の軍団と核をぶつける。対等な力を持った敵に向けて核を撃つ、これが決定的だったわ。抑止の神はこうして目覚めてくれたもの」


 崩壊した城の上で佇む抑止力を見て、エヴァが話を続ける。


 「あの子は、遠い昔に複数の国によって共同で作られた人工の神。大きな戦争に繋がる、人間が持ってはいけない、使ってはいけない物や事を自動で選別し、止めてくれる絶対的な存在。私の目的はただ一つ。その力を使って、世界を燃やし尽くす。それだけよ、イーサン」

 「……目的は分かったが、そこに至った理由は何だ」

 「そうね、でもその話は長くなるから、また今度。さ、長い話もおしまい。イーサン、アーカム、歓喜の時よ。喜びなさい」

 「ッ、待ってくれ!」


 その言葉を最後に、エヴァの姿が消える。直感的に何処にいるのか分かった。

 停止している暗緑色の巨人。その上半身辺りを目を凝らして見てみると、こちらに手を振るエヴァの姿があった。

 巨人の肩の上で手を振っていたエヴァが、徐々に巨人の首の中に侵入いく。水中に入っていくかのように滑らかに、静かにエヴァの姿が消えていった。

 そして、最後まで外に出ていたエヴァの左脚が巨人の中に入るのと同時。巨人が、攻撃を開始した。


 「ーーーーーッッ!!」


 人間の耳では聞き取ることの出来ない、巨人の咆哮。

 大きく広げた口から超音波の様な雄叫びが飛び出し、世界を揺るがした。山にいる動物が逃げ出し、セーラムの街にある全ての窓ガラスが砕け散る。

 巨人の身体に光が灯る。剥き出しの筋の隙間や突起物の先端が、柔らかな青緑色の光を放つ。暗闇の中に生まれた、小さな銀河のような光は、輝きを増していく。

 華やかでぼやけていた光は、やがてはっきりとした輪郭を持ち、煌々と輝く。

 アメリカ軍の基地に向けて、上半身を捻る。

 巨人の口の中に光が集まりだした。

 青緑色の光は、輝きを更に増していき、太陽のように白く黄金の輝きを持つ。赤、青、紫の稲妻が牙の隙間を飛び散り始める。

 その直後だった。

 巨人の口元がこれまでに無いほどの輝きを放ち、全てを破壊する銃声が鳴り響いた。

 超高音の線が、セーラムの街の上を通過していく。放たれた巨大な熱線は、アメリカ軍の戦闘機を破壊していた。

 滑走路の横で並んでいる戦闘機。その全てを狙い、熱線が横切る。次の瞬間には、真っ赤に溶けた戦闘機の内側から、巨大な爆発が起こっていた。燃え上がる炎と、立ち上っていく巨大な黒煙。

 本来なら爆発なんて起こるはずのない地面からも大爆発が起き、溶けたアスファルトが滑走路に降り注ぐ。

 マグマのようになり、抉れた地面と一体化する戦闘機。本の数秒前まで戦闘機があった場所には、マグマ溜りが出来ていた。


 「なんて威力だ」


 その破壊力に素直に感心するイーサン達の元へも爆風と衝撃波が遅れてやってくる。

 だが、巨人の攻撃はそれで終わりでは無かった。


 「ーーーーーッッ!!」


 落雷のような光と地獄のような音が連続で放たれた。戦車部隊が溶け落ち、軍の施設が焼き切られる。格納庫やトラック群、滑走路などアメリカ軍に関係する物全てが破壊されていく。

 最新鋭の機体が次々に破壊され、巨人に向けて攻撃をしようとした軍人なども、全てが一瞬で蒸発していく。

 それは、アメリカの基地だけでは無かった。

 巨人が首を動かし狙ったのは、セーラムの壁だった。

 非常に長い熱線が、街全体の上空を高速で飛んでいく。射線上にあった教会の鐘が熱線に触れ、一瞬で高温になった鉄が空から降り注がれ、周囲の建物や人に火を付けていく。

 熱線は見事に壁の上部を削ぎ落とし、銃火器類を破壊した。

 街を取り囲む壁が次々に爆発し、炎が巨大な円を描き出す。

 美しかった街が一瞬で炎に包まれていくが、それでも巨人は止まらなかった。

 街の外にある線路にそって熱線が吐かれ、遠く見えない地平線の先まで破壊されてく。線路のあった場所には、グネグネと曲がった爆発の道が作り出さていた。

 綺麗だった夜景は、火の粉と黒煙に犯される。至る所で爆発が起き、人の悲鳴が聞こえていた。

 そんな中、遠くから聞こえてきたのは風きり音だ。聞き覚えのある、回転翼機の騒音。


 「ボス、無事ですか!?」

 「サトゥルニアか!」


 黒煙を突き抜け、サトゥルニアの操縦する軍用ヘリコプターが姿を現した。

 緊急時の援護の為にセーラム周辺で待機していたサトゥルニア。明らかな異常事態を確認し、イーサン達のGPSを頼りに向かって来ていた。

 巨人の横を通り抜け、イーサンとアーカムの居る山の上へと移動していく。

 巨人の姿を近くで見たサトゥルニアの全身から嫌な汗が出て、動悸も激しくなっていた。だが、震える手足を抑え、奥歯を噛み締めてヘリコプターを下げていく。


 「今はとにかく離脱しましょう!ヘリを広場に着陸させます!下がってください!」


 ヘリコプターから出る風によって木々がざわめく。

 段々とヘリコプターの高度が下がっていき、蛾のマークが鮮明に見え始めた。強風が広場の土を巻き上げ、吹き飛ばしていく。

 地面まで残り五メートル程の高さ。その時だった。


 「ッ、サトゥルニア退避しろ!急げ!」


 黒煙を切り分け、暗緑色の右腕が接近して来ていた。直ぐに上昇し、回避しようとしても巨人は非常に俊敏だった。


 「な、あぁッ!助けてく」


 機体後部のテールローダーが、巨人の掌の中に収まり、潰される。そして、左の掌がコックピットを握り潰していた。

 サトゥルニアの悲鳴と窓ガラスが割れる音、機体が潰れる音がして無線が途切れる。コックピット周辺に血が飛び散り、機体が炎上する。

 そして、巨人の手を離れ、山の斜面に捨てられた。その一泊後、炎上していた機体が爆発を起こす。


 「……ッ」


 いつの間にか、巨人は街に背を向けていた。イーサン達の立っている山に目を向けていた。といっても、イーサン達を見ている様子は無かった。

 山の中、地面の中を見ている。恐らく巨人が狙っているのは、土の中の核兵器関連の物達だ。ウラン濃縮工場やウランそのもの、イーサン達が発見していない、核ミサイル開発設備や核ミサイルの発射場。

 それらを狙い、巨人が口を開いた。

 青緑色の光が、イーサンの身体を照らしている。赤、青、紫が集まり、太陽に匹敵するエネルギーが生み出される。


 「ぁ」


 熱線が放たれた。

 白い線が山を下から上まで破壊していく。地面を貫通し、土を溶かし、木を燃やし、ウランを焼却していく。

 工場を爆破し、トンネルを破壊し、発射場を蒸発させた。

 熱線は、イーサンの居る広場から少しズレた場所を通り、空へと上がって行った。だが、被害は尋常では無い。地面が爆発し、赤、青、紫な稲妻が辺り一面を走り回る。その稲妻の一つが、広場を襲っていた。すぐ横にあったベンチが焼き切れ、勢いを殺さずイーサンの身体へと向かっている。

 足が動かない。否、動くはずが無い。人間の反射神経で稲妻を避ける事なんて不可能だ。形もあやふやで、どう避ければ良いのかも分からない代物。

 ここが終着点。そう思って、目を瞑ろうとした時だった。


 「ボスッ!」


 視界の端から、爆発に巻き込まれ、ボロボロになった男が突っ込んで来る。

 その直後、爆発と大量の稲妻が広場を包み込んでいた。





 「……ぁ」


 男が覚醒した。

 ぼやけた視界が、瞬きを繰り返す度に少しずつ鮮明になっていく。

 目から白い光が差し込み、耳からは波を突き進むエンジンの音が入って来る。頭の下には柔らかい感触があり、身体の上には真っ白な布が被さっていた。

 一定の感覚でピッピッという電子音が鳴っていて、左腕には違和感があった。ゆっくりと首を動かして見てみると、数本のチューブがテープで腕に留められていた。

 静脈に流れていく透明な点滴を眺め、自身の状況を理解し始める。

 薄青色のカーテンで仕切られた、四角い空間。聞こえて来る、スタッフ達の話し声。戦闘機の発艦していく音。

 イーサンは、モビィ・ディックの医務室で寝ていた。

 効いてきた鼻に潮の匂いが入り、乾いた喉と口を意味無く動かす。

 その時だった。


 「ボス!」

 「……ハー、リング」


 ハーリングが、別室でイーサンの状態を確認していた医療スタッフと共に、カーテンの中へと突入してきた。

 医療スタッフに聞かれた質問をボーッとした頭で適当に返答していく。やがて点滴が外され、ハーリングに身体を支えて貰いながら、車椅子に乗せられた。


 「まだ寝ていたいかもしれないが、時間が無い。とにかく会議室に向かうぞ。そこに全員集まってる」

 「ああ、了解した」


 ハーリングに車椅子を押してもらい、通路を足早に移動していく。

 医療室から会議室までは近く、直ぐに到着した。重い鉄の扉が開かれ、会議室の中へと進んでいった。


 「イーサン!たったいま医療スタッフから連絡を受けた所だ。目が覚めて本当に良かった」


 部屋に入って最初に話しかけて来たのは、クーパーだった。

 扉が開き、そこにイーサンが居るのを見て直ぐ、明るい顔になり近づいて来た。


 「目が、覚めて……?俺は、どれだけ寝てたんだ?」


 ハーリングの言葉が引っかかり、質問する。


 「イーサン、君は、巨人が現れたあの日から七日間眠っていた」

 「……七日間」


 クーパーの答えに衝撃を受け、驚くが、事態はそんな事を話している暇は無いのだと感じ取れた。


 「それで、今の状況……」


 現状を聞こうとした時、会議室の外から慌ただしい足音が響いてきた。高速で走って来る音はどんどん近く、大きくなり、会議室の扉が巨大な物音と共に勢いよく開かれた。


 「イーサン、大丈夫ですか!?」


 外から大慌てで突撃してきたのは、頭や腕に包帯を巻く、シナノだった。


 「シナノ、お前こそ大丈夫だった?あの後……そうだエマ、エヴァはどうしたんだ!?」


 トンネルでシナノとエヴァと別れて以降、事態は急展開を迎えた。

 核が撃たれた、という事はつまり、核を破壊しに行ったシナノとエヴァに何かがあったという事だ。

 シナノの生存を喜びつつ、あの銀髪になっていたエヴァについて問う。

 エヴァ、という単語が現れた瞬間、シナノの形のいい眉が寄り、不満げな態度を露わにしていた。

 「む、今はあのクソ女よりも私と、イーサン自身の心配をしてください。……大丈夫なんですか、お身体は」

 前半の不満たっぷりな反応とは違い、後半はイーサンの身体を本気で心配している様子だった。

 だが、イーサン自身としては、そこまで酷い怪我を負ったような感覚は無かった。


 「こうして普通に立つことも出来るし、身体は何とも無さそうだ。そうだ、ハーリングこそ無事だったか?あの爆発に巻き込まれてたのに」


 自身の大丈夫さをアピールする為に、車椅子から左手を使って立ち上がる。


 「いや、俺はまぁ、頑丈だし、何とかなったんだが」


 ハーリングはバツが悪そうに目を逸らす。


 「……イーサン、落ち着いて自分の身体を見てくれ」


 クーパーが真剣な顔をしてイーサンの目を見た。その瞬間、鼓動が急速に早くなっていくのを感じた。

 息が乱れ、汗が吹き出る。きっと、周りから見た時の顔色は死人と同じくらい酷いものだっただろう。

 足はある。今こうして立っているし、しっかりと全ての指の先まで感覚がある。腰や胴体にもこれといった問題は無い。左腕も健在で車椅子から立つためにも使用した。

 それなら、


 「は……、あ」


 右腕に視線をズラしていく。

 感覚は、ある。肩も、肘も、手首も、指先もしっかりと動かせるはずだ。そこにあるのだから。

 目がゆっくりと動き、右腕が視界に入る。

 青くヒラヒラとした布の患者服。その先。外に出ている肘から先の腕。

 それが目に入り、情報を脳が処理した。


 「ぁ、は、あぁ」


 そこにあるのは、黄金の腕だった。患者服の下に少しだけ肌色の自分の腕があり、その先には血が通ってなかった。

 そっと触ってみるが、人間の肌の感触なんて微塵もしない。冷たく、硬い。機械の硬さがあるだけで、人間の柔らかい腕は消えていた。

 自分の腕が無いのに、自分の腕がそこにある。

 自分の腕が切れた。いつ切れた。どこまでは着いていた。あの広場。アーカムも一緒に居た広場。そうだ。この腕はアーカムの腕だ。分からない。どうしてアーカムの腕が、自分の腕のある場所に着いているのか。どうやってくっついている。どうやって動かしている。どうして感覚がある。断面はどうなっている。どうやって切れた。切れた俺の腕はどこにいった。俺の腕は、どうなっているんだ。


 「大丈夫か、ボス。一旦座れ」


 いつの間にか、息をすることを忘れていた。ハーリングに肩を掴まれ、車椅子に座らせられる。

 深く呼吸を繰り返し、脳味噌に酸素を回す。自身の心臓に意識を移し、鼓動を確認する。大丈夫だ。心臓は動いている。イーサンは、まだ生きている。

 それなら、自分にはまだ、やる事があるはずだ。


 「俺の、戦闘服を。……今の状況は?」





  「なぁ、なんでこの机壊れてるんだ?……いや、それよりもなんで壁にでっかい穴が二つ空いているんだ?これ、どこまで続いてる?」


 黒を基調とした戦闘スーツに着替え、落ち着いて、再び作戦室を眺めると、最後に見た時とは違った場所がいくつかあった。

 机に埋め込まれている液晶パネルには、巨大なヒビ入り、起動しなくなっている。

 硬い鉄の壁にも関わらず、一メートル以上の穴が部屋の壁に二つ作られていた。その穴の直線上に立つと、遥か先の方まで一本道が作られていた。


 「あー……。私が敵を外に出す際に通った所ですね」

 「……そうか。大変だったな」


 手を挙げ、申し訳なさそうにするシナノを見て、色々と察し、これ以上は追求しな事にした。


 「では、現在の状況を説明する。我々は現在、太平洋を進行中だ」


 いつもは暗くされ、液晶パネルに様々な情報が表示されるのだが、今回は部屋は明るく、クリップで留められた紙の束を渡されて説明が始まった。


 「太平洋?」


 説明を始めたクーパーの第一声。その時点で衝撃的だった。

  太平洋という単語を久しぶりに聞いた。ここ数年漂っていた海は、太平洋とは繋がっていない、別の世界の海だったからだ。


 「ああ、そうだ。エヴァと巨人はセーラムを火の海にした後、鍵を使用してこちらの世界に侵入。アメリカ合衆国、マサチューセッツ州に扉を開き上陸した。そこから南下したが、ニューヨークやワシントンなどの都市は無視。ノーフォーク海軍基地を消滅させ、次にフォートブラッグ基地が壊滅。当然、我が国も巨人を止めようと攻撃したが、未だ傷一つ付けれていない。そのまま軍事基地を破壊し、アメリカを横断した」


 クーパーの発言の内容は、祖国の崩壊だ。渡された紙の資料に載っている写真は、本当に今のアメリカの物なのだろうか。

 瓦礫の山に死んだ人々。過去の戦争の資料、歴史の教科書に載っている写真と大差の無いものばかりだった。

 現実味が無かったのだろう。クーパーの発言も、この写真も実感が湧かない。そのため、対して取り乱すことも無かった。

 冷静に、淡々と情報を処理していく。


 「横断した?アメリカを七日でか?」


 アメリカは大きい国だ。いくら巨体であろうと、徒歩で横断なんて出来ないだろう。


 「いいや、アメリカを横断するのに掛かったのは一日と少しだ。こちらの世界に来てすぐ、巨人の背部から謎の光が放出され、巨人が飛翔した。航空機よりも早い速度で飛び、上空から熱線。恐ろしい速さで世界が滅ぼされていった。その後、太平洋上空を通過しアラスカを破壊。ロシアへと進行した。ロシア内部の情報は詳しくは分からないが、衛星写真などで確認出来た内容からしてアメリカ同様、軍事施設が破壊されたと思われる。その後、ロシアを横断し、ドイツなどの上空を通過。イギリス、フランスも壊滅。イスラエル、パキスタン、インド、中国、北朝鮮と進行した」

 「狙いは核保有国か。それで、今は何処にいるんだ」


 イーサンの問いに答えるように、一台のノートパソコンが目の前に置かれた。

 そこに映っていたのは、あの巨人だ。地面にうつ伏せで倒れている巨人。

 背中に、銀髪と真っ黒な衣服を風になびかせる少女が座っているのが確認出来た。

 巨人の奥に民家や信号機。大量の電線をぶら下げ、一定の感覚で並ぶ電信柱が映っている。

 ただ、巨人の周辺には建物などは無く、芝生と一本の道、滑走路があるだけだった。


 「現在、日本の厚木基地で停止しているのを確認されている。艦もそこを狙えるポイントへ運航中だ」

 「ここから海までどれぐらいだ?弾は届くのか?」

 「問題無い。射程は最大で五十キロメートル。ここは、実践で使える四十キロメートル圏内に入っている」


 資料に載っている日本の地図。神奈川県の一箇所に赤い点が記されていた。


 「非核三原則を語る、唯一の被爆国……。エヴァは、ここで何をしているんだ」

 「さあな、我々には分からない。各国の大学や研究チーム曰く、車のガソリンの様にエネルギーが切れたのでは、という見方が多いが……」

 「それは違うだろうな。鍵のエネルギーは無限大だ。あの巨人を何百年、何千年動かしたって無くなりはしない」


 クーパーの言葉の続きは、部屋の入口から聞こえてきた。更に、その声には聞き覚えがある。

 銃やナイフを装備していないので、拳を握り、後ろを振り返った。


 「ッ、アーカム!」


 そこに立っていたのは、黒いレインコートの男だ。

 ガスマスクはそのままだが、いつも被っていたフードを被っておらず、短い黒髪や、青い目が顕になっていた。


 「おっと、怖い顔はそこまでだ。今の俺は、義手を失い、力を失った、ただの人間だ。そして、イーサン、お前の味方でもある」


 大きくジェスチャーを取り、明るく喋るアーカム。左手で指差すのは、右腕があった場所だ。

 黄金の義手は無くなっていて、どこか寂しい開けた空間が出来ていた。


 「味方?」

 「はい、本当です。あのクソ女を止める為にアーカムとは現在、協力関係にあります。義手や鍵の情報、無くなったイーサンの腕の変わりとして、その義手も差し出してくれました」


 エヴァの事を自然にクソ女呼ばわりするシナノが、いつもと変わらない笑顔で説明をする。

 だが、いきなり殺しあっていた敵と協力関係と言われても、信じる事は出来なかった。


 「なんで心変わりしたんだ。エヴァはお前の仲間じゃないのか?」

 「……エヴァ様は俺の主だ。平和を願い、祈りを捧げる優しいお姫様だった。……イーサン、その鍵は人の記憶を繋げる。説明するよりも早い。取り出して、握ってみろ」


 アーカムが指差すのは、黄金の義手。その中にある銀色の鍵だ。


 「取り出すってどうやるんだ。そもそもこれ、どうやって繋がってるんだ?サイズはどうなってる」


 アーカムが鍵を取り出すのを何回も見てきたが、見てきたからといって出来る訳では無い。

 義手がどんな構造をしているのかが分からなければ、この義手を本当にしていていいのかも分からないのだから。

 いつの間にか自分の腕に義手が取り付けられているが、どうやって付けたのかも不明だ。


 「ああ、接続部にナノテクを使用することで、少し強引にだが腕と義手をくっつけて……」

 「ジジイは黙っていろ。良いか、集中しろ。じゃないと鍵の力でお前が死ぬ事になる。自分の腕が割かれていくイメージをしろ。皮が切れ、肉が絶たれ、内側の骨が露出するイメージだ」


 義手の説明をしようとしたクーパーを黙らせ、アーカムが物騒なイメージを要求する。


 「あ、ああ。了解した」


 アーカムに言われたイメージ。普通なら分からないし、想像もしたくないのだが、実の所、イーサンは少し分かっていた。

 何をどう考え、どうすれば鍵を取り出せるのか。何をすれば鍵の何の力を引き出せるのか。鍵の使い方が、自動で脳内に書き足されていく。その書き足された情報通りに腕に力を込め、腕が開かれていくイメージをした。それと共に、金属音が鳴っていく。


 「……開いた」


 みんなが静かに見守る中、腕が開いた。

 義手の装甲がいつの間にかズレ、内側の銀の鍵が出現していた。

 その鍵に恐る恐る手を近づけていく。ゆっくりと指先が触れ、少しずつ銀の鍵が引っ張り出される。

 左手の中で存在感を示す、銀の鍵。ここからどうすれば過去の人物の記憶を見ることが出来るのかも分かっていた。

 その手順通りに脳を動かした。




  「お姉ちゃん?」


 長く伸ばした銀色の美しい髪が揺れる。黒を基調とした、走りづらいヒラヒラとした服に身を包むお姫様。

 自分とそっくりだが全く違う姉の姿を探す。広く大きい赤い絨毯の上を走り抜け、背伸びをして食堂の扉を開ける。

 中には、夕飯の支度をするメイドが数人居て、皿を並べながら、飛び込んで来た私に挨拶をした。


 「エマ様なら先程、図書室に入っていく所をお見かけしましたよ」

 「本当!ありがと!」


 笑顔でメイドに手を振り、食堂の扉を乱暴に閉め、再び走り出す。

 大きな城は、大きな遊び場だ。どれだけ走っても怒られず、どれだけ探検しても、知らない事が沢山あった。退屈なんてせず、毎日が楽しく、毎日が幸せだった。

 その大きな理由が、姉の存在だった。

 双子の姉妹で、姉のエマと妹のエヴァ。

 必ずいつも一緒、という訳では無いが非常に仲が良く、楽しそうに二人で遊んでいるところをメイド達もいつも見かけていた。


 「お姉ちゃん、居る?」


 図書室の重い木の扉を小さい身体で押し開け、中に滑り込む。

 何処までも続くような本棚の列。ぎっしりと分厚い本が詰め込まれていて、カビっぽい匂いがしていた。

 並べられた列の横には、木製の椅子と机があり、その上には本が積み重ねられて、塔のようになっていた。

 その塔の横で、椅子に座り、ページをめくる少女が居た。

 黄金の長い髪を持ち、翠色の瞳を持った可憐な幼女。白を基調とした高そうな服に身を包み、読書に熱中していた。


 「エマお姉ちゃん!」

 「ん、エヴァ。今日の練習はもう終わったの?」

 「終わったよ!だからあそぼ!本なんてつまらないよ」

 「読書はいいのに。自分の中に他人の人生を取り込めて、擬似的な体験をさせてくれる。それに、私はこの国の国語が好きなの」

 「んー、そんなのいいから行くよ!」


 姉の手を掴んで、中庭に走り出す五歳の頃のエヴァ。

 この頃の私は、幸せだった。毎日の練習も辛くなく、知らない事が多かったからだ。

 毎日が楽しく、人生とは面白いものだと思っていた。いつまでも良いことがほとんどで、辛いことはほんの少しだけだと思っていた。


 「よし、今日はここまでだ。明日までに今日の復習と魔術の基礎を完璧にしておけ」

 「え、そ、そんなにいっぱい?」

 「当たり前だ。お前は、その為にいるのだから。遊ぶ時間なんて無いんだ」


 私には、嫌いな人が居た。

 父と教師だ。

 父は、姉には優しいのに私にだけ家族では無い程に冷たかった。だから、嫌いだ。

 教師は、私に厳しくなっていった。今思えば、私が魔術を使えるようになるのが遅かったから、父から何か言われていたのだろう。毎日勉強させられ、痛い思いをして腕に魔術を組み込まれ、薬を飲まされた。そして、姉と遊ぶ時間が少なくなっていった。だから、嫌いだ。


 「でね、お父様は私にだけ何故か冷たいの。アーカムはなんでだか知ってる?」

 「いえ、私には存じかねます」

 「エマは?」

 「私にも分からないよ。なんでだろうね」

 「もー、なんでなの!?お姉ちゃんには毎日の練習も無いし!なんで私だけ!」


 私には、好きな人が居た。

 エマとアーカムだ。

 エマは、優しくていつも一緒に遊ぶ姉だ。共に生活し、共に学んでいる。だから、好きだ。

 アーカムは、私の側近だ。私の言う事を聞いてくれるし、手伝ってくれる。私にとっての良い人。だから、好きだ。


 「世界の為だ、分かってくれるな」


 十歳になった頃、教師が銀色の鍵を持って現れた。

 厳重に管理され、絶対に素手では触らないようにされている銀の鍵。

 私の手足は、拘束されていた。

 逃げる事は出来ない。ただ、叫び声を上げ、必死に許しを乞うことしか出来なかった。

 銀の鍵が、私のみぞおちに触れた。そのまま皮膚と一体化し、血液と共に身体の中を流れ、内蔵になり、エヴァの身体となった。

 その瞬間、脳味噌に負荷がかかった。莫大な情報が流し込まれ、映像が映し出される。

 遠い昔の出来事だ。

 歴史を学んだ所で、資材や金は手に入らない。人が死ぬとしても、戦争は無くならない。愚かだ、馬鹿だと言われながらも戦争は始まった。

 片付けられないままの死体が道路に溢れ、大人の事情と子供の鳴き声が木霊する。

 その争いは、次第に世界へと広がっていった。世界中が戦火に呑まれ、老人の指示で若者が死んでいった。

 そして、一度に大量に人を殺す魔術が研究され、実戦で使用された。何十万人という数が死に、戦争は終わった。

 その後、あの魔術は人が作り出した最大の罪だと叫ばれた。

 これから先、そういった類いの物が産まれないよう、人々は、自動で判断してくれる神を創り出した。

 人間の知恵は、本物の神さえを越す。異界の神の所有物である銀の鍵を知恵で制御し、異界の神すら制御した。

 神を作る上で問題だったエネルギーを、鍵の力に頼り、神を完成させた。

 世界各国が協力し、出来上がった人造の神。

 戦争を起こしたり、大量に人を殺す兵器を作ったりしたら自動で動き出す。この神に殺されないように生きていこうと世界は動き出した。

 だが、結局は人間だ。上に立っている人物が何回か変われば、全体の考えも大きく変わる。神を殺せ。神の存在が邪魔になるのは直ぐだった。神を分解し、敵国を滅ぼす。そういった考えが蔓延したのが、起動した理由だったのだろう。

 世論が世界を殺すと判断した神が世界を燃やし尽くすのに、そんなに時間はかからなかった。

 それから、何年経ったか分からない。停止した神は土に埋もれ、地上には新たな人間が活動していた。

 その中には、小国ながらも発達した技術を持つセーラムという国もあった。

 大国が近くにあり、その後ろであまり目立たない国だったが、ある日力を手に入れた。

 それは、大国が崩壊した日だ。大国が隣にある国と戦争を起こした。その際作り出された破壊魔術が、土の中で眠る神を呼び覚ましたのだろう。

 大国を滅ぼし、破壊魔術に関連するものを消し炭にしていく。そして、セーラムの近くで神は停止した。

 セーラムは、当然、神を研究した。構造や使用されている技術、エネルギー源。その結果、神の中から銀の鍵が取り出された。

 銀の鍵は大いに注目され、研究された。その結果、一つの結論が導き出された。

 幼い頃から鍵に触れ、身体を同調させれば鍵の力を最大限引き出せると。

 それを知った王は、自身の子供に鍵の力を持たせようと考えた。だが、王妃はそれに酷く反対した。

 そんな中、一つの提案があった。

 神は、人に造られた。それならば、神を研究すれば、人を作り出せるはずだ。

 その提案は上手くいき、人間のコピー品なら作り出せるようになった。

 王妃の腹の中にいる胎児から取り出した情報で、人造人間は産み出された。

 その二人を双子の姉妹として育て、時が来たら鍵を埋め込む。絶対に間違えないようにする為に、人造人間に手を加えた。髪色を自然では有り得ない、光り輝く銀色にしてこの世に産み落とした。


 「あ、あああ、ああああぁぁッッ!!」


 自分の産まれを知ったエヴァは、発狂していた。否、恐らく鍵を埋め込んだ影響もかなりあったのだろう。

 脳に書き加えられた鍵の使い方で、人を殺す方法を探し出し、実践した。

 背中から触手が飛び出し、目の前にいた教師を捻り潰した。

 次に王の部屋へ向かい、胴体を引き裂いた。その次は王妃だ。

 自分の産まれを知る者を殺しきった。当然騒ぎになったが、誰も幼い子供であるエヴァが犯人だなんて考えなかった。

 姉は大いに悲しみ、泣いていたがエヴァの目からは涙は出ない。

 鍵の使い方を自身で模索し、自分の出自を悩む生活が始まった。

 幼い頃から練習として身体に魔術を刻まれ、怪しげな薬を飲まされた。その結果が今の自分なら、多少は許してやってもいいかもしれない。

 鍵の力は強大だった。触手や異界の神を操る。鍵の力を身体に流し込み、人間の限界値を突破する。異界の神の力で好きな場所へ門を開いたり、相手を発狂させる、手駒にする。更に、過去の様々な知識を吸収する事が出来た。

 だが、どんなに鍵が強くてもエヴァ本人はそのままだ。自身の銀髪が嫌いになり、姉の金髪を羨ましく思うようになった。更に、この鍵の力を自分だけが持っている事に恐怖を覚え、あの神を狙って他の国が攻めてくる可能性もある。

 様々な可能性を考慮した結果、


 「……なるほど。確かにエヴァ様の言う通りの様ですね」


 教師と勉強をしていた理科室のような部屋は、いつからかアーカムとエヴァの拠点になっていた。


 「なによ、信じてなかったの?」


 エヴァの話を聞きながら、巨人や鍵に関する資料を読み漁っていたアーカム。


 「いえ、そういう訳では無いのですが。あまりにも突然と言いますか、遠い昔の旧人類の話にまで行くとは。それで、私にお願いしたいことがあると聞いていたのですが、どういったご要件でしょう?」

 「これよ」


 ガシャンという金属音と共に、机の上に腕が置かれた。黄金に輝く、右腕。

 困惑するアーカムを他所に、エヴァは自身の胸に手を当てる。そして、銀の鍵が取り出された。


 「毎日自分の脳を引っ掻き回していたら見つけたの。鍵を二つにする方法と、他人の現実に干渉する力」

 「鍵を、二つに?現実に干渉」

 「そう。悪魔で劣化版、だけどね。これを貴方に託したいの」


 そう言って、二本目の銀の鍵を机の上に置く。


 「……私に」

 「えぇ、そう。貴方によ。もう一つの他人の現実に干渉する力っていうのは、簡単に言えば世界を書き直すの。私はその力で、この鍵と、地下で眠るあの巨人の事を世界から忘れさせるわ。その後に、この義手と鍵を使えば貴方の記憶は蘇る」

 「分かりました……」

 「良い?」


 それはつまり、右腕を切り落としても良いか?という質問だった。

 の側近としてアーカムがついてから、もうかなりの年数が立っている。それこそ、エヴエヴァが赤子の頃から知っているのだ。

 エヴァは実質的な子供のような存在であり、そんな存在からの相談だ。答えは、初めから決まっていた。


 「はい。良いですよ」


 エヴァの大紫色の瞳を見て、アーカムが頷く。「ありがとう」と小さく呟き、エヴァが立ち上がった。

 自身の胸の前で手を組み、世界に祈る。エヴァを中心に風が吹き荒れ、銀色の髪が大きく乱れた。

 本や書類が暴れる中、紫色の光がエヴァの腕から解き放たれた。


 「え、エヴァ様!?今のは……?」


 鍵の存在を忘れたアーカムが、目の前で起きた現象に目を丸くする。

 その困惑する姿を見て、世界の書き換えの成功を実感した。


 「よーし、おそらく成功ね」


 そう言って、アーカムの腕を切断しようとした時、鼻に違和感があった。人差し指と中指で軽く触ると、熱く、サラサラとしたものに触れた。


 「鼻血?」


 それに気づいた瞬間、目や耳、口からも血が溢れ、エヴァの身体がその場に崩れ落ちた。

 世界の書き換え。それにどれだけの鍵の力を使ったのか分からないが、その力を使った反動により、エヴァの身体へ大きなダメージが帰ってきていた。

 きっと次に使った時、エヴァの身体は限界を迎え、内側から崩壊する。そう、理解した。

 それから数日が経ち、改めてアーカムの右腕を触手が断ち切った。


 「ねぇ、アーカム。どうして戦争って無くならないんだろ?」


 アーカムの右腕が落ちてから一年が過ぎた。

 神の存在を忘れた世界では、再び戦争が起きていた。殺し合い、奪い合う。

 もう、見飽きた。

 机に寝そべるエヴァが退屈そうに零す。


 「圧倒的に強い一があれば、無くなると思わない?」

 「それは、有り得るかもしれません」

 「鍵の力で開く門って、何か、違う世界にも開きそうなんだけど。やっていいと思う?」

 「私としては何とも。どっちにしても、エヴァ様のご判断を尊重します」

 「ふーん。なら、開いちゃお」

 「な、そんな簡単に……ッ」

 「もう、開いちゃった」


 エヴァの適当な判断により、アメリカとセーラムが繋がれた。

 セーラムの街の外にある森。その中に、岩で出来た巨大な門が出現した。高さ数メートルの両開き、奇妙な彫刻が掘られた不気味な門。

 その門の先から、有名な探査機から名前を取ったボイジャー部隊が突入して来た。


 「アーカム、アメリカの人が言っていた核が撃てば戦争は無くなると思う?」

 「可能性は大いにあります。映像を見せて貰いましたが、あの破壊力は他にはありません。きっと、この世界を平和に出来ます!」

 「あら、今日は随分と食いつくわね」

 「あ、すみません。私とした事が」

 「いいえ、別に構わないわ。誰だって平和を求めるもの。一緒に、頑張りましょう」

 「はい!」


 それから、エヴァとアーカムは核を撃ち、絶対的な抑止力とする目標へ向けて進んでいた。

  だが、


 「触手ももっと使えるようにならなきゃダメね。まずは見た目から好きになる?いや、多分む、り……」


 いつものように寂れた部屋で触手の可能性を探っていたエヴァ。

 廊下の端にあるこの部屋には、誰も立ち入らないし、絶好の練習場所だった。

 背中や腕から触手を出し、自身の身体の一部として上手く扱う。それを繰り返していた時、部屋の扉が開かれていたことに気付いた。


 「あ、ごめんねエヴァ。居るって知らなくて……。それ、手品か何か?久しぶりに会ったと思ったら、そんな芸を身につけていたなんて。びっくりしちゃった」


 重く、暗い色の扉の横に立つエマ。その顔は引きつっていた。

 頑張って笑おうとしているが、困惑と恐怖で上手く出来ていない。

 エヴァは、自分の銀髪の理由を知ってから、エマに会わないように過ごしていた。あの眩しい髪色を見た時、自分が何をするか分からなかったからだ。

 自分が模造品だなんて知りたくなかった。

 自分があの巨人を動かし、触手を操るためだけに産み出された生命だなんて知りたくなかった。

 自分が我慢して勉強などをしていた理由があんなのだったなんて知りたくなかった。

 自分が好きだった銀色が汚されたくなかった。

 自分が好きな姉に対して、こんな気持ちを抱くなんて知りたくなかった。

 エヴァから見て、エマは完全に上位互換の存在だった。

 本当の母親から産まれ、親に愛情を注がれ、自由な時間が多くあり、こんな触手の化け物にならずに済んでいる。

 ずるい。恨めしい、羨ましい。

 嫉妬だった。銀が金を見る時の嫉妬の目。


 「……ッ!」


 背中から出ていた触手がエヴァの本心に従い、高速でエマの腕や足、胴体や首に絡みつく。強引に部屋の中へ引っ張りこみ、触手がドアを勢いよく閉じていた。


 「エ、エヴァ!なに、これ……苦しい!離して!」


 触手がエマの首を締め始める。涙目で苦しみながら触手を引き剥がそうとしても、強く何重にも巻かれている触手はビクともしなかった。


 「は、離してくれないの!なんで、どうなってるの!?」


 エヴァが必死に離すように脳内で命令しても、触手達は一向にその力を緩めようとしなかった。

 足が地面から離れ、苦しみ藻掻くエマ。その姿を見て、エヴァの目にも大粒の涙が浮かぶ。


 「エ、ヴァ……」


 妹の名を呼んだ時、エマの生命が消えた。

 胴体は押し潰され、内蔵が全て合わさり一つの肉になっている。首を締め上げられ、艶のある唇には泡が溜まっていた。腕や脚もキツく締め上げられていた様で、真っ赤な跡がつき所々骨も折れている様子だった。

 触手の力が急激に弱まり、エマの死体が床に転がる。


 「……えま?」


 殺した。殺してしまった。自分の姉を。自分の家族を。自分の手で殺めてしまった。

 その場に力なく座り込む。

 エマの顔は、苦しい最期の時のまま固まっている。

 美しい黄金の髪は埃と唾液に塗れて汚れ、宝石のように輝いていた翠色の瞳は力無く、曇りきっていた。

 エマの亡骸を前にして、エヴァの心は壊れた。否、最初から壊れていたのかもしれない。鍵を取り込んだあの時から、エヴァの何かが壊れていた。

 立ち上がったエヴァの髪は、黄金になっていた。大紫色の瞳は翠色に変わり、服の色も黒から白へと移り変わっていく。


 「じゃあね、エヴァ」


 エヴァの死体を残し、部屋を後にするエマ。向かう先は、アーカムの居場所だった。

  鍵は互いの位置を把握させる。そこへ歩いていく最中に出会うメイドや軍人、全員の目を見る。翠色の瞳が相手を狂気に陥れ、再び正気に戻す。

 これで、その人物を意のままに操れるようにしていた。

 そして、アーカムの居る部屋へ到着した。


 「おや、珍しい。如何されました?エマ様」


 突然部屋に入ってきたエマに驚きながらも、対応する。だが、


 「私よ、アーカム。」


 エマは胸元に手を当て、銀色の鍵を取り出した。更に髪色や服の色も一瞬だけ、銀と黒に変色する。

 それを見て、アーカムが更に困惑するが、直ぐに元の調子を取り戻した。


 「エヴァ様……。そのお姿は、どういう事、ですか?」

 「別に、こっちの姿の方が便利なだけよ。エヴァを外には連れて行って無いけど、エマは沢山外に出ていた。そっちの方がやりやすいの」

 「やりやすい……?」

 「これ、貴方に渡しておくわ。この通りに事をこなしなさい」


 エマからアーカムへ、一枚の紙が手渡された。

 そこに書かれていたのは、今後の予定だった。銃のばら撒き、オーマの設立、核ミサイルの持ち込みや、ウラン濃縮工場。


 「これは?」

 「私達のこれからよ。貴方は何も考えなくていい。これの通りにして、ね」





 「……ッ、なんだ今の」


 イーサンの意識が戻ってきた。

 エマやアーカムの人生、それよりももっと前の世界の追体験。それが、今の一瞬で行われていた。

 イーサンに取っては、それなりに長い時間、脳内の映像を見ていた気がするが周りのハーリングやシナノが、今か今かと見持っているところを見るに、一瞬だったのだろう。


 「見えたか。それが事の顛末だ」

 「あぁ、大体は分かった。後で資料として全員に共有させる。それで、どうやってあの怪物を倒す。アイツ、過去に世界を滅ぼしているような奴だぞ。それに、アメリカ軍の攻撃も効かなかったんだろ?」

 「アメリカ軍だけじゃない。ロシア、フランス、イギリスなど襲撃された全ての国が攻撃している。更に、既に奴は核攻撃を五回受け、無傷で生還している」

 「核攻撃を四回……。それでも生きているとは恐れ入った」


 既に人類の叡智は落とされていた。太平洋上空や、ロシア内部。フランス、イギリスの同時攻撃や中国の攻撃。

 その爆発の中から、顔色ひとつ変えずに出てくるのには、世界中が衝撃を受けていた。


 「毒を以て毒を制す。この鍵には、その鍵と同じ世界の攻撃しか通じない膜の様なものがある。それがあの巨人を覆っているから、攻撃が通らないんだ。いま、この世界で膜を剥せるのは、イーサン。お前の腕についているそれだけだ」

 「な、ならお前はなんで俺やハーリングの攻撃を受けたんだ?」

 「俺が怖くて、鍵の力を最大まで引き出さなかったからだ。イーサン、お前にその腕を渡したのもそれが理由だ。その鍵を使った時どうなるのか、俺は怖い。だから、勝手ながらお前に託した。……すまない」

 「……いや、大丈夫だ。倒せるならそれでいい」


 自身の右腕をコンコンと叩き、当てにする。


 「作戦内容は、最初にイーサンが鍵の力を使用した一撃を入れる。その後はアメリカ軍、自衛隊、オーマでの総力戦だ。簡単だろ?」

 「総力戦って、そんなに協力してくれるのか?」

 「大統領にアメリカ特殊作戦軍、ボイジャー部隊として連絡をしたところ、兵をかき集めてくれた。アメリカとしても、奴を倒して早期の幕引きをしたいんだろう」

 「了解した。……ところで、この騒音はなんなんだ」

 イーサン達が会議室で話し合っていた時、ずっと上から工事現場のような音が鳴っていた。

 「ああ、いま甲板を急いで工事してるんだ。身体を動かして、義手に慣れるついでに見てきたらいい。驚くぞ」

 「別にそんなに驚かないさ。ま、ちょっと見てくるよ」

 「すげぇ!なんだこれッ!!」


 甲板に出ると、美しい海が目に飛び込んで来た。夕陽が波に反射し、煌めく。

 その煌めきによって、甲板上の物体が照らされていた。

 そこにあったのは、一本の巨大な砲身だ。戦艦に積まれている砲身よりも遥かに大きく、百メートルは軽くある、細長い筒。それが空母の甲板上に固定されていた。


 「巨人が登ってきた城の地下を探索したところ出て来たらしいです。遠い昔に滅んだ大国が持っていた大砲だとか」


 イーサンの後ろを着いてきたシナノが改札を挟む。

  灰色をベースとした特大の大砲。遠くまで続く砲身からは、巨大なケーブルが幾つも伸びていた。


 「この空母の原子力と私の刀から溢れ出る殺意を撃ちだします。きっと、めちゃくちゃに強いですよ!」

 「ま、期待しておくよ。赤鬼さん」

 「はい!クソ女にぶっぱなしてやりますよ!」





 「砲身内エネルギー安定。重力計算完了。発射角度、誤差修正完了」

 「原子炉接続完了。数値問題なし」

 「アメリカ軍、自衛隊の車両展開確認。非戦闘員の退避終了。第一種戦闘配置完了しました」

 「F35、厚木市上空に到着」

 「了解」


 応急修理が終了した戦闘指揮所内にスタッフ達の声が飛び交う。

 秒針が時を刻む。あと一分。そうして緊張していた時間は、一瞬で過ぎ去っていた。

 日本時間を表示している時計の、長針と短針の両方が十二を指し示す。

 空高くに昇る太陽の下、Jアラートが鳴り響く日が昇る国で作戦開始時刻となった。

 「この地に降り立ってまだ間もない神を殺す、アメノオハバリ作戦を決行。総員、攻撃準備」

 シナノの無線が全車両、全艦に届く。

 日本時間八月二十日正午、作戦が開始された。


 「やっと動き出したか。遅かったじゃない」


 軍事基地を取り囲む戦車に動きがあり、巨人の背中で寝ていたエヴァが立ち上がる。

 それと同時、巨人もうつ伏せの上体からゆっくりと立ち上がり始めた。背中から肩に移動し、立ち上がった巨人から周囲を見渡す。


 「随分と多いわね。それで、イーサンは何処に?」


 厚木基地周辺に扇状に展開した戦車部隊。そこへ、ヘリコプター部隊も来たことにより、攻撃開始を悟る。

 巨人の背中に寝っ転がっていたエヴァ。足を上げ、頭の横に置いた両手に力を入れて、自身の身体を飛ばす。「ほ」という掛け声と共に、立ち上がった。

 それと同時、巨人もうつ伏せの上体からゆっくりと立ち上がり始めた。


 「随分と多いわね。でも、鍵を感じない……」


 イーサンの姿を探しながら、巨人の中へと溶けていく。それと同時に青緑色の光が、巨人の身体から放出され始めた。

 日米の戦車とヘリコプターが大量に並んでいた。

 自衛隊の10式戦車やコブラ、アパッチ。アメリカ軍のM1エイブラムスや攻撃型オスプレイ。

 緑や黒の迷彩の自衛隊と、砂をイメージした茶色のアメリカ。

 その中から銀の鍵の存在は、感じ取れなかった。

 巨人の目を通してイーサンを探すエヴァ。一機の戦闘機が、その遥か上空を通過していく。

 巨人が目視できるギリギリの辺りで一気に急上昇し、バレずに頭上まで飛んでいった機体。二本の翼の先から雲を引き、青すぎる夏の空に線を描いていく。


 「グッドラック、イーサン」

 「ああ、行ってくる」


 全身にエンジンの振動と台風以上の強風を浴びていた。

 耳には、至近距離で聞こえてくる爆発音のようなエンジン音と機体が超高速で風を切る音が飛び込んで来る。

 通常では考えられない作戦を実行出来ているのも、この義手のおかげなのだろう。

 空へと昇っていく戦闘機を掴んでいた右腕。その手を離し、イーサンの身体が後ろに流れる。二つの尾翼の間を通り、ジェットエンジンのすぐ横を通過する。

 高度三千メートルからの生身での自由落下。全身に風を受け、地面に向かって高速で降下していく。

 下には、小さく、模型のような街が広がっていた。遠くには富士山や海が見えるが、今は見ている暇なんて無い。

 真下にある滑走路。そこだけを見て、空と地の狭間を突き進んでいく。

 広げていた両手両足に力を入れ、落下していく空中で姿勢を整える。

 次第に街の形が鮮明に見え始めた。豆粒のようだった戦車やヘリコプター、目標である暗緑色の巨人が輪郭を持ち始める。

 左手に持っていた大型の銃を右手に持ち直し、引き金に金属の指をかける。

 非常に長く、丸みを帯びた、黒く光る太い砲身。グリップやサイトなどは非常に大きく、携帯式防空ミサイル、スティンガーなどを連想させた。

 空母に取り付けていた砲の小型版と呼べるものだ。

 その特殊な銃には、義手と大量のケーブルが繋がっており、銀の鍵のエネルギーが銃へと送られていた。

 左手で銃を支え、サイト越しの右目が巨人の首を捉える。腹に大きく空気抵抗を受けながら、狙いを定めた。


 「……イーサン」


 銀の鍵がエネルギーを大量に送り込んだ。それを察知し、巨人が夏の空を見上げる。

 雲ひとつ無い、晴れ渡った青空のど真ん中。

 上空二百メートル。巨人の頭上百メートル。太陽の輝かしい白い光が、黄金の義手を煌めかせた。


 「エヴァッ!!」


 真下に向けられた銃口が十字型の強烈な光を放つ。

 巨人と同じ、世界を破壊する銃声を轟かした。赤、青、紫の稲妻と共に、純白の熱線が世界を切り裂く。

 震える空気の中、熱線は一瞬で巨人の左肩を貫通し、地面に着弾していた。

 背中の突起物が数本折れ、地面に突き刺さる。滑走路は跡形もなく吹き飛び、大量の土埃が周囲を覆っていた。

 巨人の熱線よりも規模は小さいが、それでも目を見張る脅威的な力だった。


 「発掘兵器……。ちゃんと壊しておくべきだった、な!」

 「……ッ!」


 巨大な腕で土煙を払い除け、巨人が空へと口を開いた。

 無数の牙の隙間には、既に稲妻が存在し、口の奥に白色の光が見えていた。

 次の瞬間には、落ちて来ている途中のイーサンに向けて熱線が放たれる。銃を真横に撃ち、熱線の反動で身体を巨人の頭上から外すが、避けきれるかは分からなかった。

  だが、


 「ッ、この炎……!あの鬼か」


 巨人の側面が燃え上がる。

 至極色の炎。否、それはもはや光線となっていた。

 シナノの殺意の炎。それが、二十キロ離れた海からエヴァを殺そうと飛んで来ていた。

 圧縮され、高密度になった光線が暗緑色の肌にぶつかり、巨大な爆発を起こした。その衝撃で巨人の身体が横に傾く。

 熱線はイーサンに当たることなく、斜めになっていった。大爆発でバランスを崩し、巨人が転倒する。その間もずっと熱線が出ており、空へ向けた熱線が地上に叩きつけられた。

 白い熱線が住宅や鉄塔を溶かしながら、街の遠くまで突き進んでいく。巨人の口元から遥か遠くまで一本の赤い線が作られていた。


 「主砲、目標に命中。転倒を確認。効果あり!」


 江ノ島の奥、相模湾からの曲射は成功した。

 砲身から出る煙が潮風に流される。空母が揺れ、近隣の窓ガラスが全て割れる程の衝撃があった。核攻撃から無傷で出て来た巨人が、今の攻撃で転倒。それは即ち、イーサンの攻撃が巨人の銀の鍵の膜を破った事を意味していた。


 「ハーリング!」


 背中や腰、ふくらはぎ、足の裏などの様々な場所に液体金属が現れる。そして、一瞬で作り出されたブースターが青色の炎を吐き、イーサンの落下速度を落としていった。

 着地する瞬間に一度強く炎が出され、降りていた身体が逆に上に少しだけ跳ね上がる。


 「ボス、乗れ!」


 巨人の近くに降り立ったイーサンにハーリングが深い緑色のバイクで接近する。

 ハーリングの後ろに飛び乗るのと同時、バイクが急加速し、巨人から一気に距離を離した。


 「主砲、第二射を装填。巨人の衣は剥がれました。総員射撃開始!」


 シナノの命令が自衛隊やアメリカ軍の隊長機へと伝達される。


 「防衛出動を確認。総理の武器無制限使用許可を確認。射撃開始。繰り返す、射撃開始」

 「了解。こちら、アルファワン。目標、正面敵生命体、頭部。各自、射撃開始。……撃てッ!」

 「誘導弾発射用意。距離二百。発射ッ!」


 戦後初の防衛出動。

 隊長機の命令により、戦車とヘリコプターから同時に多種の弾が撃ち出された。

 立ち並ぶ戦車大隊の砲身から炎が吹き出し、その中心を金色の砲弾が突き進む。百両程の戦車から放たれた轟音と衝撃は、地響きのように辺り一体を埋めつくした。

 ヘリコプターからも誘導ミサイルや三十ミリ機関砲が次々に撃ち込まれ、巨人の周囲を黒煙が取り囲む。


 「全弾命中。目視による損傷を確認」


 最初にイーサンの一撃が当たっていた左肩。そこが大きく崩壊し、巨人の左腕が地面に落ちた。大量の血が地面を汚し、燃えた肉片が周囲に散らばる。

 その部位に更に砲弾が当たり、白い骨が吹き飛んだ。だが、巨人もやられ続ける訳では無かった。

 黒煙の中で巨人が立ち上がりながら、白い光を放つ。巨人の狙いは、戦車大隊だった。

 戦車が並ぶ場所を横一列に熱線が通過する。その一瞬で大量の車体が融解し、砲弾が爆発を起こしている。だが、それでも攻撃の手は緩まなかった。


 「弾着十秒!八、七、六、五、四、三……弾着、今ッ!」

 「フォックスツー」


 立ち上がった巨人の頭部に迫撃砲や自走榴弾砲が同時に叩き込まれた。

 更に、上空をF2やF35が通過していき、巨人の胴体に赤外線誘導ミサイルが命中していた。

 だが、旋回し再びミサイルを撃ち込もうとした戦闘機に向けて熱線が放たれた。白い線を回避したとしても、その周囲を走る赤、青、紫の稲妻がかすっただけで撃墜された。

 翼を焼かれ、エンジンを爆破され、空中で爆散や民家へと突っ込んでいくなどしていた。


 「第二射、発射準備完了しました!」

 「了解、このままクソ女を押し潰します。撃てッ!」


 遠く離れた目標に当たるよう、重力や出力の計算が終了した。

 艦の向きに対して直角を向けているため、砲身が大きく外に飛び出していた。

 灰色の砲身。その先端から、至極色の炎が生み出された。身体に重く響く音、脳味噌を揺らすほどの衝撃波が艦や砂浜を襲う。

 振動で波が壊れ、衝撃で砂浜に特徴的な模様が描かれていた。

 発射された炎は、斜め上に上がっていき、滑らかなカーブを付けて下がり始める。複数の街や公園の上を通り、再び巨人を正面に捉えていた。

  だが、


 「二回も食らう訳無いでしょ。鬼ババア」


 至極色の炎が巨人の顔面に当たる直前、口から熱線が放たれた。

 距離を飛んできている分、炎の方が当然消費したエネルギーは多かった。

 熱線が炎の中心を喰い破り、かき消す。そして、二回攻撃受けて完全に把握した艦の場所へ、熱線が飛んで行った。


 「主砲、敵の攻撃により消滅!報復、来ます!」

 「ッ、回避行動!総員、衝撃に備えて!」

 「ダメです、間に合いません!」


 飛んで来た熱線が、甲板を消滅させる。

  主砲のある場所を的確に狙い、破壊した。熱線は主砲に直撃、空母の縁を抉りながら海へと突っ込んだ。

  主砲は、砲身や甲板に接続している部分全てが一瞬にして蒸発し、中で準備されていたエネルギーが内側から爆発した。

  甲板だった場所が溶け落ちて海へと落下し、白い蒸気が吹き出す。

  爆発はエレベーターなどを通り、艦内カタパルトにまで到達していた。そして、艦内カタパルトにあった戦闘機が誘爆。

  艦に巨大な穴が開き、浸水が始まる。

  モビィ・ディックは一撃で炎上、大破へと追い込まれ、艦左前方から沈み始めていた。


  「総員退避!繰り返す、総員退避!」

  「主砲をやられ、艦の通信システムも壊されました。こちらからやれることは、もうありません!あとは頼みます!」


  怪我人に肩を貸しながら、耳に手を当ててオーマの通信機使う。

  既に傾いている艦にやれることは、残っていなかった。


  「了解した、何とかする」


  シナノの無線に、何とかすると応えるが、状況は悪くなる一方だった。

  戦車大隊は全てが蒸発し、戦闘機もクーパー以外は落とされていた。地面から生えてきた触手や巨人の尾によって、ヘリコプターが目の前で次々と破壊されていく。

  その上、モビィ・ディックも大破。この場で戦えるメンバーは、残り三人だけになっていた。


  「……ハーリング、クーパー、俺達で何とかして時間を稼ぐぞ。シナノ、モビィから全員退艦したら教えてくれ!策がある」


  「了解!」


  三人の声を聞き、イーサンがバイクを走らせた。その横をハーリングが走り、その上をクーパーのF35が通過する。

  F35からミサイルが放たれ、巨人の顔面や胴体に直撃、黒煙が立ち昇る。

 空を飛ぶクーパーのF35を狙い、巨人が熱線を撃とうと、青緑色の光を集める。

 だが、その口元目掛けてイーサンが引き金を引いていた。

 十字の光が現れ、熱線が巨人の口に侵入した。口内で巨大な爆発が起きるが、巨人はそれを無視。

 狙いをクーパーから、バイクで走り回るイーサンへ変え、再び光を口内に集め始めた。そして、バイク目掛けて熱線が放たれる。

 熱線は、バイクに命中していた。一瞬で溶け、地面に赤くドロドロとした液体が散らばる。だが、イーサンはそれに巻き込まれていなかった。


 「結構、気持ち悪いな」


 イーサンの義手が展開され、内側から紫色の光を出し、放熱していた。

 魔術の残り香が生まれていた。義手に刻まれている転移魔術。それを駆使し、バイクを狙った熱線を避けていた。


 「小賢しい!」


 転移魔術を使用し、様々な角度や場所から熱線を繰り出す。

 巨人は胴体や腕、脚など様々な場所に熱線が当たり、爆発を起こしていた。更に、その爆発の中から、赤色の槍が姿を現す。


 「はあァッ!!」


 頭などへは届かないが、脚や腰の辺りに無数の切り傷を付けていく。更に、脚から蹴り出された槍は、巨人の胴体を貫通し、大きなダメージとなっていた。

 そうして、三人が様々な方向から攻撃を与え続けていた時、シナノから無線が届いた。


 「イーサン、全員退艦しました!何をするのか分かりませんが、どうぞ!」

 「了解、ハーリング下がれ!」


 シナノの言葉を聞いて、接近戦をしていたハーリングを下がらせる。そして、自身の右腕に集中した。紫の光が強くなり、鍵の力が引き出される。

 義手の開いている場所から暴風が現れ、世界を揺らす。


 「一体何を……ッ!?」


 そのイーサンの行動に困惑していたエヴァが、突如逃げようと走り出す。だが、遅かった。

 空に開いた巨大な門。下を向き、入口が開いている石の門。それは、この世界と異世界を繋いだ銀の鍵の異界の門だった。

 ただ、違うのはその大きさだった。エヴァが開いたのは十メートル程の物だった。だが、空に開いた門は違う。百メートルは優にある、異常な大きさをしていた。


 「来いッ!」


 その門の中から、空母が姿を現す。開かれた艦内カタパルトの入口が地上を見ている。その次の瞬間、縦向きの空母が、空の門から巨人目掛けて落下してきた。鉄の大地。超巨大な鉛の弾が巨人を押し潰す。空母が大地に衝突し、巨大な地震のようになっていた。

 今までに無い最大の衝撃波が身体を襲い、暴風がイーサンやハーリングの身体を吹き飛ばした。

 土煙に紛れ、鉄の破片や巨人の肉片が空高く舞い上がる。空母が倒れ、基地の外。住宅街を大きく押し潰した。

 視界が無くなった。空母から出てくる黒煙や周囲を取り囲んだ土煙。


 「ハーリング!無事か?何処にいる?」


 地面の上を転がっても武器だけはしっかりと持っていた。

 ハーリングを呼びながら、歩き回る。

 邪魔な土煙は、空に向けて引き金を引き、その風圧で払い飛ばしていく。

 その方法は、相手も考えていた。


 「ーーーーーッッ!!」


 巨人が叫び声を上げ、熱線を吐き続ける。土煙も黒煙も吹き飛び、全容が顕になった。胸の辺りから下は全て潰され、頭部と右腕だけになった巨人。赤い血を吹田し、筋肉がビクビクと震えている

 「まだ生きてたか……。次はスカイツリーでも落とすか?」

 日本で一番大きな弾丸を落とそうか悩み、巨人の行動に警戒していたが、その必要はなさそうだった。

 熱線は縮れていき、咆哮も消えていく。身体にあった青緑色の光も無くなり、巨人の目からも光が失われた。


 「いったいわね。死ぬところだったじゃない」

 「……エヴァ」


 倒れている巨人の首から、エヴァが姿を現す。

 黒いドレスに銀色の髪。その姿を見て、イーサンの表情が強ばった。ゆっくりと銃口を向け、歩み寄る。


 「もう終わりよ……。最後にお話でもする?と、言っても味方を大勢殺してるような人とは、話したくないか。サトゥルニアもポケットに仕舞おうとしてグチャグチャにしちゃったし」


 溜息をつきながら、巨人に寄りかかるエヴァ。その姿を見て、銃口が下を向いた。

 敵意が無くなる銃を見て、エヴァの眉間に少しのシワが寄った。


 「エヴァ、ここに居たらお前は殺される。その前に、向こうの世界に帰れ」

 「……正気?貴方の目の前にいるのは、味方をいっぱい殺して世界を焼いた怖い魔女よ。仇を打つべきだし、貴方になら殺されても良いと思って出てきたんだけど」


 首を傾げ、不服そうな顔をする。


 「お前の記憶を見たんだ。人間に造られ、人間に運命を決められた存在。これからは自由に生きろ。お前は、世界を焼いた悪魔であり、核をこの世から大量に減らした救世主でもある。そこに免じて見逃してやる」


 エマのクローン。産まれも、生き方も、考え方も他人が選択した。

 自分で決めた事が、異世界を燃やすこと。それだけなんて悲しすぎる。

 どんなに声を上げても。どんなに祈っても無くならなかった、減らなかった核。

 正確な数は分からないが、エヴァの攻撃によって破壊、または使用不可になった核の数は膨大だろう。

 核を持っているリスク。核を持つことによって触れた、神の怒り。

 人間がこのまま核を持ち続けるのか、核を棄てるのかは分からない。だが、何かのきっかけにはなっただろう。

 だから、目を瞑る。


 「あら、本当にそれだけが理由なの?正式アメリカ製クローン人間第一号イーサンくん?」

 「……ッ」


 自分の出自を言われ、苦笑いを浮かべる。


 「貴方の目を見た時、貴方の記憶も覗いたの。アメリカ軍に造られて、異世界という危険地帯に一番初めに送られた人物。そして、自由を夢見てバイクで駆け抜けた脱走兵。自分に似ている存在だから、という理由で見逃してるの?」


 薄く開いた大紫色の瞳。余裕そうに、悪そうに微笑む魔女。

 イーサン・イングラム。アメリカ軍のクローン実験によって初めて成功した人間。

 卓越した身体能力、戦闘技術。それらを買われ、アメリカに開いた門を最初に通らされた実験体。探索者、ボイジャーと呼べば聞こえはいいが、実際のところは宇宙に打ち上げられたライカと同じだ。

 イーサンは世界を見た。深い森と、その先に見える国を見た。

 ここで生きたい。それが、イーサンの初めての選択だった。


 「……そうだよ、それが本当の理由だ」

 「嘘つき。私、貴方の記憶を見たって言ったわよね?私と初めて会った時の貴方の記憶もあるのだけど?」


 更に悪そうな笑みを浮かべ、イーサンの顔を眺める。


 「……はぁ、分かったよ。……初めて見た時に一目惚れしたから、助けたいんだ。これでいいか?」


 エヴァの笑みの理由を悟り、観念したのか、本心を話すイーサン。

 並び立てられた、それらしい言い訳。否、実際にそう思っている所もあるので、全部が全部言い訳という事でも無いが、その言い訳を捨てた。

 核を破壊してくれたから。自分と同じで自由に生きたことがないから。

 その裏に隠されていたのは、ただの好意だ。


 「惚れたから、好きになったから。ただそれだけで世界を壊した人物を逃がすなんて、なかなかねイーサン。それで、もう一度全てを捨てて、同じような産まれの女の子と自由に世界を旅する覚悟は決まっているの?」


 首を傾げ、イーサンの本心に問う。


 「……ああ、了解した。行こう」


 数年前と同じ、それまでもの全てを捨てて、自由に生きる。

 あの時の憧れは、まだ消えていない。

 差し出されたエヴァの白く細い右手を、イーサンの黄金の右手が掴んだ。


 「よっ」


 その二人の場所へ、男が手を挙げながら歩いて来ていた。

 ボロボロになったスーツに身を包み、肩に赤い槍を担いだ長身の男。


 「ハーリング、これは……ッ」

 「安心しな、別に止めねぇよ。ボスの決定に従うだけだ。ま、こんな風になるんじゃねーかなとは思っていたけどな」


 イーサンとエヴァの繋がれた右手を見て察し、爽やかに笑うハーリング。


 「……ありがとう。シナノやクーパー、アーカムにはなんか言って置いてくれ」


 シナノとクーパー。今まで一緒に生きてきた仲間と最後に会えないのは残念だが、会うまで待つことは出来ない。

 この機会を無くせば、エヴァを失い、自由に生きる道も失われるだろう。それは出来なかった。


 「ああ、ボスは名誉の戦死をしたって言っておく。向こうの世界に行くんだろ?あの世界は面白い。きっと、ボスを満足させるぜ」

 「それだと有難い」

 「またな、ボス、エヴァ」


 ハーリングがイーサンとエヴァの顔をじっくりと見て、別れの挨拶を告げた。


 「……またね、ハーリング。貴方の事は割りと好きだったわ」


 それは、エヴァの本心だろう。ハーリングに儚い笑顔を向けて、小さく手を振る。


 「そうかよ。……あ、ちょっと待て」


 その儚い笑顔にハーリングがズカズカと近寄っていく。


 「な、なによ」


 腰を屈め、エヴァと同じ目線に調整する。

 ハーリングのその行動に困惑し、警戒するエヴァ。


 「ていっ」


 銀色の前髪の下。エヴァの白いおでこをハーリングの中指が全力で弾いた。

  エヴァの頭が大きく後ろへ仰け反り、当たった場所は赤くなる。イーサンと繋いでいた右手も離れ、その場へ尻もちをつくエヴァ。


 「いった!何すんのよ!?」

 「これで許してやるんだから良いだろ。ま、全部を許すわけじゃねーがな」


 倒れたお姫様を見て、鼻で笑いながら立ち上がる。


 「さよならだ、ハーリング」


 イーサンとハーリングの目が合った。

 イーサンがアメリカ軍から、セーラムから脱走して得た、つかの間の自由。その時に出会った、唯一の友。上司や部下、仲間や敵では無い、初めての存在。


 「おう。また会おうぜ、イーサン」


 別れを告げ、かたい握手を交わした。




  「なあ、なんでエヴァは日本に居たんだ?」

 「ん?理由は色々よ。姉が好きだった日本を見てみたかった、とかそんなのよ」


 人々が復興作業をしているセーラムの街を歩いて行く。


 「私の姉は、開いた門の向こう側をとても勉強していたわ。その中でも特に、日本語が好きだったの。華やかで甘やか、厳格で柔軟なあの言葉が。今、私達が話せているのは、セーラムが英語に支配されたからよ。人は国語に生きる。エマはこの国の言葉が好きだったから。属国にはなったかもしれないけど、消えることはなかった無かった日本と、日本語に助けを求めていたのかもね」

 「……そうか」

 「あとは、あの子が行きたがっていたからね。あの子は日本も攻撃しようとしていたの。私が止めなかったらきっと、日本も他の国同様、燃えていたわ」

 「……は、あ?」


 巨人が進行した国は、核保有国だ。

 巨人が日本に向かった。それはつまり、


 「日本に核があった。……かもしれないわね」


 エヴァの言葉に様々な可能性を考える。だが、イーサンは途中で考えることを辞めた。


 「ま、もう関係ない世界の話か」


 悲しみの無い世界へ行けた訳ではないが、この世界にはアメリカも日本も核も無い。

 消し去りたい過去も記憶も残っているが、それを知っているのは、自分と横に立つ少女だけだ。

 ゼロに限りなく近い、再出発。


 「良かった、無事だ!」


 街の中を歩いて、ようやく目的の場所に到着した。

 小さな石が大量に乗っかり、土や埃で汚れているシート。そのシートを勢いよく取り外す。

 一つ目のライトに、巨大な銀色のエアスクープ。黒塗りの大型のバイクが姿を現した。


 「あら、良かったじゃない」

 「これがダメになってたら向こうの世界に帰っていたかもしれないからな。お前はこいつに感謝しろ」


 愛車に跨り、鍵を差し込む。

 コイルが高速で回転を始め、青白い稲妻がエンジンから出現した。独特なエンジン音が路地に鳴り響く。


 「貴方が感謝しなさい。私のいない世界なんて、桜の咲かない春よ」


 文句を言いながらも足をかけ、バイクの後部座席に座るエヴァ。それを確認して、路地から大通りへとバイクを進ませた。


 「さて、クローンあるあるでも言い合いながら旅するか?」

 「やらないわよ、そんなの。良いから行くわよ」

 「了解、何処に行きますか。お姫様」


 二人を乗せたバイクが門を潜り抜け、広く、自由な世界へと進み出した。

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