第一章
その光景に、透江楪葉はぴくんと肩を震わせた。
小さな子供がこちらを見ている。いや、見ていると言うよりは、ぼんやりと視線を彷徨わせているという方が正しいだろう。黒く陥没した瞳の奥は、深い闇しか存在せず、そこから濁った血が流れ出ていた。それがまるで、子供が涙を流しているようで痛ましい。血の涙なんて。
微かに眉を潜める。
右腕が付け根の辺りから半分取れ掛かっていた。ぶらぶらと振り子のように左右に揺れているのだ。白いシャツは真紅の血で染まり、今だ暖かそうな色合いを帯びていた。
死者。
「ねえ、二週間前そこで子供がひき逃げにあったんですってぇ。」
横断歩道で信号待ちをしている女子高生の一人が、ふと思い出したように友人に話しかける。
「あ、ホントだ、花が置いてある。」
つられたように楪葉も視線を動かす。ちょうど手押し信号の袂に、黄色い菊の花とお菓子がひっそりと添えられていた。風で、花が首を傾げるようにして揺れている。
「犯人まだ捕まってないんだって。」
「かわいそうー。子供死んじゃったの?」
「みたいだよ。まだ小さかったんだって。死体、随分酷い状態だったらしいよ。なんでもね、20メートル近く引きづられちゃったんだって。」
「ひき逃げじゃない。サイテー。」
「父一人子一人の家らしくってさぁ~。もう、お父さん泣き叫んで凄かったらしいって話だよ。」
「なんで、知ってんの?」
「彼氏の家が近くなんだ」
キャーと甲高い嬌声が少女の唇から上がる。
子供は少女達の大きな声に、微かに反応したように首を傾ける。一瞬、楪葉は子供が彼女たちの言葉を理解したのかと思ったが、しかし、その瞳が何かを映すことはなかったし、少女達の瞳に子供の姿が映ることはなかった。
信号が青に変わる。楪葉は少女達と同じように歩き出した。
子供は死んでいて。そして自分は生きている。
その間に広がる、溝だとか山だとか海だとかは、広くて深くて高い。だから、子供は決してもう二度と、触れ合うこと言葉を掛け合うこと、微笑み合うことはできない。こちら側へは戻れないのだ。
楪葉は小さく息を吸い込んで、胸の痛みを堪えた。
かわいそうだなとは思うが、どうもしてやれない。
何かをしてやれるだけの力が、楪葉にはないのだ。
自分に出来ることは、視るだけ。哀しみだけ。憐れむだけ。
でも、そのどれもに対した意味なんて存在しない。重みも深みもない。
子供は自分が死んだことに気づかず、現状を把握できずにいつまでもそこにたたずみ続けている。かわいそうにと、憐れに思う。だけれど、手を差しのばしてやりたいと思うが、差しのばすために必要なものが、楪葉にはない。
楪葉は溜息を落とした。
自分の目が、人よりも遙かに良いのは自覚している。それは決して視力が良いという範疇の物ではなく、全てをそのまま透かし視てしまう、一種の超能力とさえ呼んでいい代物だった。楪葉には、壁も過去も闇も関係ない。視ようと意識する必要もない。当たり前のように目に映るものなのだ。こうやって、日常の闇に埋もれた死者を瞳に映すぐらい、ごく当たり前の出来事だった。ただ、どんなにそれが当たり前でも、慣れる、慣れないは別である。哀れな死者や、無惨な遺体を視てしまえば、どうしたって気分は沈む。そういう意味では、楪葉にとってこの能力は厄介なものでしかなかった。
(ああやって、いつまでもそこで立ち続けて…・かわいそに…)
助けてやりたちと思うが、助けるために差しのばしてやる手が、楪葉にはない。
自分が持つ能力は、視る事しか出来ないのだ。ここで下手に同情して助けてやろうとしても、結局死者の哀しみに引きずられて楪葉まで暗い穴に落ちかねない。それは、今までの経験で重々承知していた事だから、憐れに思いながらもどうもしてやれなかった。
それだそれだけの力が、楪葉には本当にないのだ。
『助ける力もないくせに、同情だけでどうにかしようなんていうのは、傲りと同じだよ。』
楪葉に向けて、育ての親が言った言葉だ。
それはどうしようもない事実と、楪葉の弱さを指摘した。すぐに死者に感情移入してしまう、それが自分の悪い癖だとわかっているのだ。
零れそうになるため息を飲み込みながら、視界の端に映る子供の姿を消すために前方を向いた、と同時に肩を叩かれた。
「よっ、ユヅ。おはよさん。」
振り返れば、猫っ毛のふわふわした髪に、人なつっこい微笑を浮かべた少年が微笑んでいた。
「おはよう、言雪 (ことゆき)。」
「どうした?元気ないな。顔色悪いぞ。」
友人の、七伏言雪だった。彼は楪葉の顔を覗き込むと、笑顔を引っ込めて怪訝そうな表情になる。そして、何かをさっしたのか身を寄せるように肩をぶつけてきた。
「もしかして、またアレか?」
楪葉は上目使いに、友人の顔を見た。小さく頷く。彼は顔を険しくしてきょろきょろと辺りを見回す。
「ここにいるのか?」
「ううん。もう、通り過ぎたよ。」
「そっか。」
ほっと胸をなで下ろす仕草を見せて、言雪は笑った。
「なら、大丈夫だな。」
そんな彼の屈託ない笑顔に、楪葉もつられたように微笑んでしまった。先ほどまでの陰鬱とした哀しみが、少しづつ晴れてゆく。
「それにしても、珍しいな。ユヅが霊を視るなんて?」
「あ、うん。」と頷いて、楪葉は自分が視た物の説明しようとして、止めた。この自分を気遣う友人が、実はたいそう恐がりだと言うことを思いだしたからだ。楪葉に不思議な者を視透す力があると知った上で、疑わず嫌悪せず付き合ってくれている数少ない友人だからこそ、下手に怖がらせたくなかった。
「ううん、ただ、油断しただけだ。」
「ふーん、でも、『封じ』はちゃんとしてるんだろ?」
言雪が滑らせた視線を、無意識に楪葉もたどる。学校規定の鞄を提げる右手首を、無意識に左手がきつく握りしめている。我に返れば、それは痛いほどの強さだった。左手を放せば、そこには細身のプラチナのブレスレットが嵌ってある。しゃらしゃらと涼やかな音を立てて揺れるブレスレットの中央には、カーマインレッドを思わせる丸い石が繋がっていた。
「うん…。でもこれは一応の予備みたいな物だから…・。本当に力のある奴とか、全然視たくないって思うなら、これじゃあ駄目なんだ。」
育ての親が、あまりに楪葉の能力の強さを心配して作ってくれた『封じ』。肌身離さず持つように言われてはいるが、それでも限度があった。本当の『封じ』は、別にあるからだ。しかし、それは持ち歩くにはあまりに目立ちすぎる。これはいわば、本物の『封じ』のレプリカのようなものだった。
「そっか。おまえも難儀だなぁ。でもさ、そんな事早く忘れちまいなよ。今日は夜一緒に遊びに行く約束だろ?ちゃんと覚えてるか?」
「それは大丈夫。」
とたん破顔して答えてしまうのは、やはり自分もは健全お元気男子高校生だからだろう。あっという間に先ほどの事を忘れてしまえるのも、一種の特技ともいえたが、それぐらいの図太さがなければあの能力を持って生きてはいけないのだ。