今日、泊っていいかな second
僕はあの日、あいつが死んだ日から他人を好きになることはできなくなってしまっていた。それでも僕が今結婚して家族がいるのは、僕の妻も少し周りの人とは違うからだ。妻はレズビアンだった。
僕の妻は大学の同級生だった。彼女もまた、大切な人を亡くしていた。お互いを知れば知っていくほど、その傷を慰め合うかのようにいつも一緒にいるようになった。自分のことを理解してくれる人がいる。それだけで重たかった気持ちが軽くなった。一緒にいると気持ちが軽くなる、ただそれだけの理由で僕たちは生涯を共にすることにしたのだ。おかしな話だ。しかし、そうすることが僕たちにとっての最も幸せに近いものであった。
いつまで経っても、僕も妻も好きな人を作ろうとはしなかった。作れなかった。亡き想い人を忘れることなど到底できなかったのだ。結婚しているとはいえ、そこに愛は無く、ただ亡き想い人を想い焦がれる寂しき男女が一つ屋根の下、暮らしているだけであった。双方の両親から孫の顔が見たいと言われていたため、何度か体を重ねた。しかし、そこには虚しくも愛はなかった。しばらくすると妻は子どもができたと言った。女の子だと言われた。十月程して娘は産まれ、今では小学生だ。はやいものだ。娘に愛情らしきものは芽生えど、妻に愛情が芽生えることはなかった。
ある日、自室に娘がやってきた。
「パパ、もうすぐママのお誕生日でしょ? だからプレゼントを買いたいの」
娘はニコニコ笑ってそう言った。すっかり忘れていた。もうそんな時期か。
「じゃあ明日、一緒に買いに行こうか。ママには内緒だぞ」
唇に人差し指を当てながら優しく娘に言った。やったあ、と娘は大げさに喜びをあらわにした。
次の日、僕は娘と公園で遊んでくると妻に言い、娘と買い物に行った。
「ママ、何が欲しいかな」
僕は娘に問いかける。
「指輪は?」
娘が目を輝かせて答えた。
「パパもママも指輪持ってるけど、違うやつだった! だからお揃いの指輪!」
「指輪、か……」
僕は内心、頭を抱えた。結婚当時、妻はすでに想い人とのお揃いの指輪を持っていたのだ。指輪なんて種類が違くても、はめていればそれらしく見えるだろう、と僕は適当なものを買ってはめていたのだ。しかし、あれは妻にとって大切なもの。僕と娘から新しい指輪をあげたなら、そちらをはめなくてはいけなくなるだろう。それは妻にとって辛いことだ。
「ネックレスなんてどうだ? ママは指輪はしていてもネックレスはしてないだろ?」
適当なことを言ってみる。
「確かに! じゃあネックレスにしよう!」
娘は案外すぐに受け入れた。
それから娘が選んだネックレスをひとつ買い、美味しそうな菓子を数個買った。歩き疲れたのか、娘は少々機嫌が悪くなっていた。僕は少し休んでいこうか、とこぢんまりとしたカフェを指さした。娘は不貞腐れた顔をしながらも小さく頷いた。
店に入ると甘いような、苦いような匂いがした。ママには内緒だぞ、と言ってショートケーキとオレンジジュース、コーヒーを注文した。娘はケーキがくると、すぐに機嫌を直し、幸せそうに食べた。僕はそんな娘を見ながら小さくコーヒーをすすった。
「あっ」
娘は小さく声を出した。同時にフォークが音を立てて床に落ちた。意外に大きく響いた音に驚いたのか、その拍子にジュースまでこぼしてしまった。
「大丈夫ですか?」
店員さんが雑巾と新しいフォークを持ってきてくれた。
「ありがとうございます」
苦笑しながら店員さんの顔を見る。一瞬、息が止まった。
「ゆうや……?」
僕は思わず声に出した。そこにはあいつがいた。死んだはずのあいつが。
「はい、確かに僕はゆうやですが……」
店員さんは驚いたように僕を見た。僕は店員さんのネームプレートを見た。あいつ、ではなかった。あいつの名前は優弥。漢字が違った。
「春馬裕也……さん……」
店員さんはきょとんとしている。
「パパ?」
娘の声で我に返る。そうだ。死んだ人が生き返るわけがない。目の前にいるのはあいつに似ている別人。あいつはもういないんだから。
「あ……だ、大丈夫ですか……?」
店員さん――春馬さんが声をかけてきた。
「え、何が……」
僕の目からは確かに涙が流れていた。あの日以来、流していなかった、流れなかった涙が。
「す、すみません! 目にゴミでも入ったんですかね」
僕は努めて笑顔で明るい声で言う。春馬さんはポケットからハンカチを取り、差し出した。何も言わずハンカチを差し出すその姿は、死んだあいつとそっくりだった。僕はそれを受け取り涙を拭いた。
「すみません。これ、洗って返します。また来てもいいですか?」
「はい、お待ちしております」
春馬さんは優しく微笑んだ。
帰宅すると、妻は留守にしているようだった。
「ママ、どこ行ったんだろうねえ」
娘は心配そうに言った。その時だった。家の奥から微かに声が聞こえてきた。それはいつもの妻の優しい声、というよりは女の理性が飛んだような声だった。
「ママ?」
娘が家の奥に行こうとした。
「今日はおじいちゃんとおばあちゃんのところに行こうか。ご飯もないみたいだし。きっとおじいちゃんとおばあちゃんも会いたがってると思うぞ」
僕は早口で娘を制した。娘も違和感を覚えたのか、すんなり言うことを聞いた。
娘を両親のもとへ預け、僕は家に戻った。妻は一度僕たちが家に戻ったのに気付いていないようだった。
「おかえりなさい。あら、あの子は?」
妻はいつもと何ら変わらない様子で僕に言った。
「家に、誰を連れ込んで何をしていた」
僕は妻の問いに答えずに言った。
「夫と娘が出かけているときにお前は昼間から誰を連れ込んで何をしてたんだと聞いている」
「何もしてないわ」
「嘘を吐くな。僕たちが一度帰ってきたことにも気付いていなかっただろう」
妻は言葉を失った。それから間をあけてこう言った。
「ごめんなさい」
謝ってほしいわけじゃなかった。ただ、裏切られた気がして悲しかった。自分と同じ気持ちだと思っていたのに、違った。妻の想い人はもう想われていなかった。他にもっと想っている人ができていた。どこかで感じはしていた。いつかはこうなると。
「相手は女か」
「そうよ」
「君とはもう一緒にはいられない。離婚してくれ」
「あの子の親権はどうするつもり。養育費は?」
「ついていきたいと言われたほうが親権を持てばいい。もし君が親権を持つなら僕は養育費を出す」
そう、と小さく呟いて妻は、否、彼女は家の奥へと消えていった。
僕たちが一緒にいる理由はもうとうになくなっていたのだ。娘の存在だけが僕たちを離婚に至らせなかっただけなのだ。いつのまにか一緒にいて心が軽くなることもなくなっていた。彼女の行動で今まで目を背けていたことに向き合い、踏ん切りがついたというところだろう。
「僕たちの間には愛も優しさも無かったんだ。これで、いいんだよ」
僕は真っ暗な玄関にそう言い残し、そこに戻ることは二度となかった。
幼い娘に事情を話すのは大変だった。だが、娘も幼いなりに一生懸命理解してくれた。結局、娘は僕が引き取ることになった。身体的なこともあるだろうから、てっきり彼女のほうに引き取られていくのかと思ったら、娘はパパと一緒がいいと言ってくれた。
「ネックレス、無駄になっちゃったね」
娘が寂しそうに言った。僕は高級そうな厚い紙袋からネックレスを取り出し、娘につけてやった。
「どこから見てもお姫様だな」
娘は周りに花が咲いたように明るく嬉しそうに笑った。
数日後、娘と一緒にまたあのこぢんまりとしたカフェに行った。
「いらっしゃいませー」
春馬さんはこちらに気付いたようで軽く会釈をしてくれた。
「先日はありがとうございました」
深々とお辞儀をし、丁寧にアイロンがけされたハンカチを渡す。
「いえいえ。こんなに綺麗にしてくれたんですか!申し訳ないです。ありがとうございます」
春馬さんはそう言った後、娘の前でしゃがみ続けて言った。
「お嬢さん、今日は綺麗なネックレスをしてますね。似合ってますよ」
娘は照れながらありがとう、ととても小さな声で言った。
「今日もショートケーキとオレンジジュースを頂けますか?」
僕はそう言い、空いている席に適当に座った。
しばらくすると春馬さんがショートケーキとオレンジジュース、それとコーヒーを持ってきた。
「コーヒーは頼んでないはずですが……」
「僕、今日でこのお店最後なんです。だから、サービスです」
春馬さんは苦笑して僕の前にコーヒーを置いた。
「そうなんですか」
「経営状況が悪いそうで。クビになっちゃいました。また新しいバイト探さないとですね」
お客さんにこんな話しちゃってすみません、と春馬さんは謝った。
「お兄さん、うちに来たら?」
娘が言った。
「パパがね、お手伝いさん欲しいなーって言ってたの。だから、お兄さん、うちに来たら?」
僕と春馬さんは目を丸くしていた。確かに娘と僕の二人で暮らすことになるわけだから家事なんかは大変になる。仕事で遅くなってしまうときもあるだろう。そんなときにお手伝いさんがいたら娘も少しは負担が少なくなるだろうと、そう思っていたのだ。
「た、確かにそう言ったが、春馬さんにも都合が……」
「いいんですか?」
春馬さんは予想外の言葉を口にした。
「お兄さん、うちに来てくれるの?」
「ぜひ! 何でもやります!」
とんとん拍子に娘と春馬さんの二人だけで話が進んで、春馬さんは僕たちの家に来ることになった。しかし、よく話を聞いてみると、春馬さんは家賃も滞納していて生きることでやっとなのだとか。大学生のようで、学費は両親が払ってくれているそうなのだが、生活費は自分で稼げと言われているようだ。そんな事情を聞かされてしまっては僕とて見捨てられない。結局春馬さんには住み込みで働いてもらうことになった。家事は一通りできるようで、料理もかなり上手いらしい。これなら娘が家に一人でいる時間もほとんどなくなるだろうし、一安心だ。とはいえ、これを許したのは春馬さんがあいつに似ているというのも理由の一つに入っているのかもしれない。何年経っても、やはり僕はあいつのことが忘れられないし、好きみたいだ。
「ここが今日から職場兼帰るところ」
春馬さんに我が家の場所を案内する。
「わかりました! じゃあ来週からよろしくお願いします!」
春馬さんは元気よく挨拶をした。しかしそれと同時に娘は声をあげた。
「お兄さん、今日泊まらないの!」
どうやら娘は今日から一緒に住むと思っていたようだ。
「春馬さんにも用事がいろいろあるんだ。だから来週から、な?」
「えー! 今日だけでもいいから、明日は言わないから、今日泊っていって!」
こうなると娘は止まらない。昔から頑固な性格なのだ。
「そっか……じゃあ、今日、泊っていいかな?」
娘の小さな手を握ってそう尋ねる春馬さんは、あいつにしか見えなかった。
「うん! もちろん!」
あいつによく似た春馬さんと娘は手を繋いで玄関に向かう。
きっとこれも何かの縁。あいつと全く同じことを言った、あいつによく似た、あいつの生まれ変わりみたいな春馬裕也。そしてあいつを二十年近く忘れられずにいる僕とその娘。新しい三人の新しい生き方がここから始まる。
「パパはやくー!」
「今行くよ、ちょっと待って!」
『今日、泊っていいかな?明日も、明後日も、この先も』




