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悲願シリーズ

降車悲願

作者: 吟野慶隆
掲載日:2020/01/14

「次は、町立図書館前です」

 そんなアナウンスが路線バスの車内に流れた。おれは茶色い革の手帳を閉じ、ビジネスバッグにしまった。ボールペンを背広の胸ポケットに挿し込み、顔を上げる。

 おれは今、最後部にある横長シートの中央に腰かけていた。旧型の車両で、外観や内装、各種の設備は古めかしかったが、完全自動運転ができるように改造されていた。運転席には悪戯防止用の人形が座らされているだけだ。

 左手でネクタイの結び目をいじりつつ、右手を近くの手すりに伸ばした。降車ボタンを押そうとする。

「ねえママ、次で降りるんだよね?」

 甲高い声が左斜め前から聞こえてきた。そちらに視線を遣る。

 二人掛けの席に親子が座っていた。若い主婦と幼い男児だ。

「えっと……」主婦はスマートホンを取り出し、ディスプレイをタップしだした。「そうだったと思うけれど……合っていたかしら……」

「早く、早くっ」男児はそわそわし始めた。「早くしないと、ボタン、先に押されちゃうよお」

 おれの人差し指はボタンの表面に触れたところで止まった。二秒ほど迷った後、手を引っ込める。男児に押させてやろう、と決めたのだ。おれってば優しいやつだな、と少し誇らしくなった。

「ごめんちょっと待ってね、うーんと……」

「急いでよっ、急がないと通り過ぎちゃうよお」

 おれは片方の眉を上げた。いくらなんでもそれは困る。まあそんなリスクを負ってまで譲ってやる義理もないか。右手をボタンに遣った。

「うん、合っているわ合っているわ」主婦は頷きながら言った。「次で降りるわよ、押してちょうだい」

「はーい」

 男児はボタンに手を伸ばした。おれはまたしても腕を下ろした。

「あっちょっと待ってちょっと待って、駄目よ駄目よ」主婦は首を横に振りつつ言った。「勘違いしていたわ、ここじゃ降りないから」

「なーんだ」男児は手を引っ込めた。

 けっきょく押さないのかよ。おれはずっこけそうになった。

 気を取り直し、ボタンに右手を伸ばした。しかし触れる前にアナウンスが流れた。「次は、第四団地です」

 まったく、親子のせいで目的の停留所を通り過ぎてしまった。溜め息が漏れた。さすがに直接文句を言ってやるほどではないが、もう男児に押させてやろうとするのはやめよう。ボタンを押した。

「それにしても、早めに職場を出発して正解だったな……」

 ぼそりと呟いた。取引先との約束の時刻まで、まだ余裕がある。この停留所で下車し、徒歩で相手の会社に向かっても、じゅうぶん間に合うのだ。

 数分後、停留所に着いた。腰を上げ、通路を歩きだす。主婦と男児はすでに席を立っていて、おれが中扉の前に差しかかったころにはもう、前扉から降りていた。

 なんとはなしに運転席の人形が目に留まった。このバスは完全自動運転だが、事業者の職員は始発から終発までまったく関わらない、というわけではない。終点の停留所に着いてから始点の停留所を出るまでの間、毎回職員が乗り込み、簡単な点検や自動運転の設定確認などを済ませる手順になっていた。

 ふと鼻にむず痒さを感じ、堪えきれずにくしゃみをした。その拍子に体のバランスを失い、右に向かって倒れ込みそうになる。慌てて右手を伸ばし、その辺りにある席の背もたれの左上に付いている取っ手を掴もうとした。

 実際に触れたのは柔らかい布地だった。それは取っ手ではなく、シートに腰かけていた年配の婦人の左肩だった。婦人はついさきほどまで普通に座っていたが、どうやら途中でここが目的の停留所だと気づいたらしく、立ち上がろうとしているところだった。

「ちょっとおっ!」婦人は大声を出しつつ勢いよく立ち上がり、おれの手を払い除けた。「あなた、いい度胸をしているわね! こんな堂々と痴漢をしてくるだなんて!」

「えっいやっ、ごっ、誤解です!」おれは跳び上がりそうになって叫んだ。「痴漢じゃありません! こけそうになって、席の取っ手に掴まろうと――」

「嘘よ!」婦人はおれの顔に右手の人差し指を突きつけた。手には大きな鉱石の付いた金属の指輪がいくつもはめられていて、ごてごてとしていた。「嘘に決まっているわ! 顔を見ればわかるのよ! そんな、変態みたいな顔をして!」

「へ、変態みたいだなんて……」

「だいいちあなた、さっきから一度も謝っていないじゃない! 本当にわざとじゃないんなら、真っ先に詫びを入れるはずよ!」

「いやその、す、すみませ――」

 慌てて頭を下げようとした。しかしそれよりも先に、婦人の勢いよく振りかぶった右手が左の頬にぶち当たった。

 ばあんっ、という大きな音が車内に響き渡った。おれの顔はぐいっと右を向き、首には鈍い痛みが走った。指輪や鉱石が鼻や顎、頬肉越しの歯などに激突した。

 おれはふらふらと後退し、通路左側の空席にふくらはぎをぶつけた。その衝撃により力が抜け、すとっと腰を下ろした。鼻の穴から血がぼたぼたと落ち、スーツや床を汚した。口の中に苦味と異物を感じ、掌にぺっと吐いたところ、血の混じった唾液と歯の欠けた部分が出てきた。

「ふんっ! わたしの器の大きさにせいぜい感謝しなさいな! 警察を呼んだってよかったのよ!」

 婦人はぺっと唾を吐いた。それはおれの額にべちゃっと付着した。

 その後、婦人は運賃の支払いを済ませ、前扉から降りていった。おれは呆然としていて、続いて下車する気力もなかった。我に返ったのは、「発車します」のアナウンスが流れたのを聞いた時だった。

「次は、ふれあい公園北口です」

 おれは泣き出してしまいたくなりながらも席に座りなおし、降車ボタンを押した。近くに落ちていたバッグを拾う。他の客は全員がさきほどの停留所で降りていて、車内はおれ一人だけになっていた。

 バッグのファスナーを開け、手を入れる。手帳やカッターナイフをどかし、ポケットティッシュを取り出した。鼻の穴に詰め込んで血を止めたり、服や床などを拭いたりした。

 ネクタイも緩めたくなったが、結び目が動かせなかった。驚いたが、すぐに原因に思い当たった。職場を出発する前、ちょっとしたハプニングに見舞われ、ネクタイの結び目に接着剤が付着するということがあったのだ。そのせいに違いない。

「まあしょせんは安物の品で、思い入れもない。今日家に帰ったら鋏で切って、そのまま捨ててしまえばいいか」

 おれはなんとはなしに呟いた。布地の濃い色や少し独特な柄のおかげで、接着剤がまったく目立っておらず、わざわざ言わなければ見つからない状態なのは幸いだった。今日は予備は持ってきていないからな。

 数分も経つと各所の出血は治まった。鼻の穴に詰め込んでいたティッシュをごみ袋に入れたところで、停留所に到着した。前扉が開く。

「ふう、やっと降りられる……」

 ぼやきつつ立ち上がり、通路を歩き始めた。その途中、ネクタイの先端が背広の外にだらりと垂れ下がっていることに気がついた。婦人にビンタされた弾みで飛び出したのだろう。細い部分の先端も、太い部分の裏側に付いている穴から抜けてしまっていた。今は直す気力もなんとなく湧かない、まあ外に出てからでいいだろう。

「……まさかまた何か邪魔が入るんじゃないだろうな……」

 被害妄想じみた不安に襲われ、思わずそんな独り言を漏らしたが、何事もなく運賃箱の前に辿り着いた。料金の投入口は長方形の穴で、天板の左上隅に設けられていた。その内部、穴から少し下がった所には、水平なローラーが二本、平行に備えつけられていた。この穴に硬貨や整理券を落とすと、回転するローラーに挟み込まれ、下に送り込まれる仕組みになっている。投入口は高さ十センチメートルほどのプラスチックの壁で囲まれていて、「↑運賃」というステッカーが貼られていた。

「――うっ……」

 小さな唸り声を漏らした。突然のめまいに見舞われたせいだ。婦人にビンタされて血を流したことが原因に違いなかった。右斜め前、運賃箱に向かって倒れ込みそうになる。

 急いで両手を突き出し、運賃箱の天板、奥のほうを掴んで上半身を支えた。同時に素早く左足を差し出し、下半身を支える。なんとか衝突を免れた。

「ふう……――っ!?」

 安堵の溜め息は途中で引っ込んだ。首が床めがけて強い力で引っ張られたからだ。

「何だ……!?」

 顔を下に向けた。ネクタイの細い部分の先端が運賃投入口のローラーに巻き込まれていた。布地が厚いおかげでローラーの回転はとても鈍かったが、それでも着実に引き込んでいっていた。

「ちょっ、ちょっと……!」

 おれはネクタイの細い部分を掴み、渾身の力を込めて引っ張った。だがきつく食い込んでいるようで、抜ける気配はなかった。ローラーは引き続き回転し、おれの頭をゆっくりと引き寄せていた。

 このままではいずれ、首が投入口の囲いに張りつけられてしまう。だがネクタイは下に向かって引っ張られ続ける。

「首が絞まる、窒息死してしまう……!」

 一刻も早くネクタイを外さなければならない。おれは結び目を掴み、動かして緩めようとした。しかしびくともしなかった。

「なっ、なんで――そうだ、接着剤が付着しているんだった……! ならば――」

 急いでバッグのファスナーを開けた。手を突っ込み、がさごそと探る。さいわい数秒も経たないうちにカッターナイフを取り出すことに成功した。

「うぐぐ……!」

 すでに首と投入口の囲いとの距離は十センチメートルを下回っていた。おれはローラーの回転を少しでも鈍らせるため、頸部を可能な限り後ろに引っ張りつつ、カッターナイフの刃を一気に出した。ネクタイの細い部分の裏側に当て、左右に動かす。

 数秒後、ぶちっという音が鳴り、ネクタイが切断された。下に引っ張られる力を唐突に失った頭部が勢いよく後ろに振られた。

 があんっ、という音が辺りに轟いた。後頭部が前扉の横の手すりに激突したのだ。脳味噌中に衝撃と鈍痛が響き渡った。

「――」

 おれは呻き声を上げることすらできなかった。下半身から力が抜け、床にどさっと尻餅をつき、そのまま呆然とした。手からカッターナイフが滑り落ち、腰の横に転がった。ネクタイの切り離した部分は引き続きローラーに巻き込まれていき、最後には全体が下に送り込まれ、見えなくなった。

「発車します」

 アナウンスを聞き、我に返った。扉が閉まり、バスが走り始めた。

「次は、産業センター駅前、終点です」

 おれはよろよろと立ち上がった。なんとか近くの席に座る。駅前のロータリーからではもう、取引先との約束の時刻に間に合わないことは確実だったが、どうでもいい気分になっていた。今はただただ、バスから下車したかった。

「……まさか、このまま一生降りられないんじゃないだろうな……」

 一瞬、馬鹿げた恐怖が脳裏をよぎり、そんな独り言を漏らした。頭を激しく左右に振り、追い払う。

 数分後には到着し、前扉が開いた。おれはおそるおそる立ち上がるとバッグを拾い、運賃箱の投入口に整理券と現金を突っ込んだ。

 思わずやや駆け足になって機械の横を通り、ステップを下った。その途中でつまずきそうになり、慌てて片方の足を突き出した。ロータリーの歩道のブロックを踏む。体勢を崩し、どちゃっと前に倒れ込んだ。スーツに大量の砂粒が付着した。

 おれは体を起こして捻り、座り込んだ。「ふうー……」と溜め息を吐く。その間にバスはさっさと前扉を閉めて発車し、停留所から去っていった。たまたま近くを通りがかった女子学生が一瞬、気味の悪い物を見るような視線を向けてきて、慌てて逸らした。

「……さて……」

 いつまでも放心しているわけにもいかず、おれはふらつきながらも立ち上がった。背広やスラックスの表面を手で払い、砂粒を落とす。バスはすでに始点の停留所の前にいて、事業者の職員が乗り込んだところだった。

「……そうだ、取引先に行かないと」

 おれはそう呟き、ロータリーの出口を目指して歩きだした。ネクタイのちぎれた所は細い部分だけだ、太い部分は無事だから見た目は問題ないだろう。そうだ、相手方に遅刻する旨を伝えなければ。背広の内ポケットからスマートホンを取り出した。

 移動しながらスマートホンを操作していると、なんとはなしに笑いが込み上げてきた。そしてけっきょく、ふふふふふ、と小さく笑った。なんだなんだ、やっぱり最後には下車できたじゃないか。一生降りられないんじゃないか、なんて思った自分が恥ずかしい。とんだ被害妄想だ、心が弱っていたんだな。もう大丈夫、大丈夫だ。仕事をこなさないと。先方にはどう謝罪すればいいだろうか。たまたま再び出くわしたさきほどの女子学生が、やはり気味の悪い物を見るような視線を向けてきた。

 数十秒後、ロータリーの出口の前に着いた。電話をかけるため、立ち止まる。

 突然、背後から背広とワイシャツの襟首を掴まれた。

「ぐえっ……!?」

 間髪入れずに強い力で引っ張られ、どたどたと後退した。いきなりのことで事態が把握できず、されるがままになる。スマートホンやバッグを落としたが、拾うこともできなかった。

 後ろから太い腕が伸びてきて、おれの鎖骨付近に回された。背中にはそいつの胴体が押しつけられ、頭には荒い息が吹きつけられる。右のこめかみが、ごつっ、と何か硬い物で小突かれた。一瞥したところ、それはピストルの銃口だとわかった。グリップを握る男は目出し帽を被っていた。

 視線を前に戻したところで、二人の警官がいることに気がついた。どちらも、表情といい雰囲気といい尋常ではなかった。目をみはり歯を食い縛り、リボルバーを構えて銃口を向けてきていた。

「来るなあっ!」目出し帽男が怒鳴った。耳を塞ぎたいが、できるわけもない。「近づいたらこいつの頭をぶち抜くぞ!」

「このまま逃げきれるだなんて思っているのか!」片方の警官が怒鳴り返した。「その人を解放して、大人しく投降しなさい!」

「うるさいっ!」

 銃声が轟いた。さきほどの警官の額に風穴が開いた。警官はばったりと後ろに倒れ、三秒ほど痙攣した後、微動だにしなくなった。どくどくと流れ出した血が辺りに広がっていきだした。

「ついてくんな! ついてくんなって!」

 目出し帽男はがなり立てつつ、おれを引っ張るようにして後ずさり始めた。残った警官はリボルバーを構えたまま、付かず離れずの距離を保ってついてきた。

 十数秒後、引っ張られるがまま小さな階段を上がったところで、おれは横に突き飛ばされた。どちゃっ、と尻餅をつく。そこはさきほどまで乗っていたバスの車内だった。まだ事業者の職員がいて、おれたちを見つめて唖然としていた。

 目出し帽男は職員を睨みつけ、「おい、お前!」と怒鳴った。「自動運転のセッティングを変更しろ! バスの行き先を、おれが今から言うヘリポートに設定するんだ! そこまでの三時間、みんなでドライブといこうじゃねえか!」


   〈了〉

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