夏島003
「遅いな……何やってるんだ?」
朝食を食べ終わり家を出て、着替えるからと悠の家に来て40分が経とうとしていた。
暇つぶしに境内を見回すと、掃除が行き届いているのかごみの一つはおろか、落ち葉の一つも見当たらない。
たいしたもんだな。
感心しながら更に見回していると、視界の隅に何かが横切った。
「なんだ、今の……?」
一瞬だったので見間違いかとも思ったが、植木の陰にボゥと何かが光っているのが視える。
あの大きさは、動物霊か何かだろうか。
何かが移動するのは分かるが茂みの方からは音がまったく聞こえてこない。
恐らく幽霊の類で間違いないだろう。
まぁ、あとで悠に報告すればいいか。
そう考えて、視線を外しかけた瞬間にその光が茂みを飛び出して急速にこっちに迫ってきた。
突然のことに驚愕するのも束の間、それが俺に目掛けて飛び掛ってくる。
「うおっ!?」
間一髪でそれを避けてもう一度視線を向けるとそいつの姿は反対側の茂みへと消えていった。
境内はまるで何事もなかったかのような静寂に包まれる。
あっぶねぇ……まさかいきなり襲ってくるとは思わなかった。
そういえば悠が動物霊は比較的攻撃的であることが多いって言っていたっけ。
しかし好都合なのは、この境内には視界を隔てるものが何もないということだ。
これなら余程不意を付かれない限りまず見落とすことはないだろう。
さて……どこから来る?
緊張と暑さでタラリと背中を嫌な汗が伝った。
額からもジワリと滲み出てくる。
今日の最高気温は33度だったか。
だとすると今の気温はまだ28度くらいだろう。
両足を広げて前屈みになり膝に手を当てる。
いつでも来い……俺は、堂々と逃げてやるぞ。
「やほー、お待たせー、って、真くん何してるの?」
緊張感を崩すような声に思わずカクンと頭を落とした。
そのまま顔を悠の方に向ける。
そして俺が目にしたのは、悠の背後より急速に迫ってくるあの白い光だった。
地面を滑るように移動する光は音も立てず悠の背後より迫る。
最悪なことに悠がその存在に気付いた様子がない。
「っ――悠! 危ねぇっ!!」
叫ぶと同時に悠に向かって走る。
「え?」
俺の言葉にキョトンとした表情を見せる悠。
背後の霊はもうすぐ近くまで迫っている。
人間の俺の足が動物より速いわけがない。
霊だから尚更にというべきか。
「危ないって――……」
悠の言葉と同時に跳躍する光。
もうダメだと思った次の瞬間に俺が目にしたのは。
自然な動作で体を捻り、後方から前方に抜けていく光を空中でガシリと掴んだ悠の姿だった。
「もしかして、コイツのこと?」
そして、そのまま光を失った獣を俺の方に見せてくる。
その姿は猫だ。
猫だけど尻尾が2本生えている。
「どしたの? そんな呆けた顔しちゃって」
悠の声に我に返って開きっぱなしになっていた口を閉じた。
俺も吃驚したが猫も相当吃驚したのか口を開いたままピクリとも動かない。
掴まれた背中の皮がだらしなく伸びて手足がプラプラと揺れている。
「お前、気付いてたのか?」
「うん。あっ、もしかして心配してくれたの? 嬉しいな~」
本当に嬉しそうに笑う悠に再度カクリと頭を落とす。
そしてそのまま未だに動こうとしない猫に目を向けた。
「猫で尻尾が2本ってことはコイツ、猫又か」
「ご明察ー。最近この辺りの食べ物を荒らしてたのはお前だなー」
悠が猫を自分の方に向けて話しかける。
「に……にゃー」
猫と思えないほど不自然な鳴き声を漏らした。
「もしかしてコイツ、喋れるのか?」
「うん、猫又は霊の中でも物覚えはいい方でね。言葉くらいならすぐに覚えちゃうんだよ」
「そ、そんなことないにゃー」
「喋ってんじゃねえかよ」
「しまったにゃ! はなせにゃー!!」
なるほど、物覚えがいいからって頭がいいわけじゃないのか。
急に焦り始めたのか悠の腕を振りほどかんと暴れだす。
しかし、猫又の爪が悠に当たるどころか掠ることもなかった。
それどころか、あれだけ暴れられているにも関わらず表情一つ変えずに掴んでいる手を放さない。
「あぁもう。暴れるとそのまま消しちゃうよ? それでもいい?」
「にゃ!!!」
ピタリと動きを止めて静かになる。
「えっとね、この辺りで食糧を取るのを止めること。人間を襲わないこと。その二つが守れれば、西の森の住処には他の霊を近づけさせないようにする」
「にゃ!? ほんとかにゃ!?」
「ただし、もし約束を破ったりしたら、一族諸共滅ぼす。いい?」
「分かったにゃ。約束が守られている限り、守るにゃ」
「よし、じゃあ行っていいよ」
猫又をそっと地面に下ろす悠。
「お前良い奴だにゃ。また会えるかにゃ」
「うん、きっと」
「きっとだにゃ、またにゃ!」
そう言い残すと体が光り茂みの中へ消えていった。
「よかったのか?」
「大丈夫。あの子たちは意外と素直だから」
「いや、それもあるけどそうじゃなくて、大変になるだろ?」
神社の仕事もあるし、この島のことだってあるんだ。
それなのにさっきみたいに仕事を増やしたりなんかしたら負担も増えるだろう。
無理をして体を壊してしまったら元も子もない。
相手のことばかり考えるのは悪いことじゃないが、決していい事とは言い難いだろう。
それで自分のことを疎かにしていては出来ることも出来なくなる。
「んー? 心配してくれてるの?」
さっきとは違いにやにやと笑いながらからかうような口調だ。
「そうだ」
「へ?」
即答した俺に目を見開いて驚いていた。
そんなに意外だったんだろうか。
「えぁ……あー……うん、だいじょぶ、ありがと」
照れたように視線を反らして頬を掻く。
「でもこれは、おじいちゃんもやってたことだから」
「宗玄さんが?」
「うん。島内で縄張り争いを起こさせないのも仕事の一つだから、やらないわけにはいかない」
考えるように、何かを思い出すかのように目を閉じる。
そして開かれた悠の瞳には強い意志が宿ってみえた。
「……わかったよ。そこまで言うなら」
「何も言わない?」
「いや、言う」
「言うの?」
苦笑いの悠。
だけど、これは何を言われても言わせて貰う。
「辛かったらさ、いつでも頼ってこいよ」
「俺には霊の浄化なんて出来ないし手伝えることだって少ないけど、でもお前の力にはなりたいと思ってる」
「真くん……」
「だからさ、一人で何でもやろうとしないで辛かったら頼ってくれよ。いいな?」
「……………………」
「ん? どうした?」
じっと見つめてくる悠。
何を考えているのか分からないが、崇拝するような目で俺を見ていた。
「カッコいい……抱きついていい?」
「それはダメ」
「えー……ケチ」
「だれがケチだ」
抱きつくのを拒否しただけでなぜケチ呼ばわりされなきゃならん。
「いーじゃんいーじゃん、減るもんじゃなしー」
「ええいやめろ! 暑苦しい! 減るへる、減るんだよっ!」
腕を伸ばしてくる悠の顔面を押さえつける。
「何が減るのさー」
「あー、なんだ。体力とかその辺だ」
「大丈夫! 今日の晩御飯は、鰻とかレバニラ炒めとかマムシドリンクとか出してあげるから!」
「それの何がどう大丈夫なんだよ! 精力付けて何させる気だ!?」
「何って……ナニ?」
愚民を見るような表情を向けてみる。
「プリーズー。プリーズ・ハグ・ミー」
効果はなかった。
「何事もなかったかのように話を進めるな! それになんで急に片言の英語なんだよ!」
「Please hug me」
「発音が良くてもダメだ!」
「もう、注文が多いなぁ」
離れて少し着崩れした服を直し始める。
「いたって普通だ」
まったく、コイツは5分と真面目を続けられないのか。
「それで、これからどうするんだ?」
「んー、とりあえずいつも通りかなぁ。まずは海岸当たりから探しに行こー」
手をぶんぶん振って前を歩く悠に続く。
心なしか、いつもよりテンションが高い気がした。
「んー…………」
「いない、か?」
一通り辺りを見回してみるが幽霊の姿は視えない。
「うーん、居なさそうだけど一応見て回ろう」
「そうだな」
案外見えないところに隠れてたりするかもしれないし。
はっきり言ってどこにいるのか分からないのが幽霊だ。
当たり前のことを言っているように聞こえるかもしれないが、視えていても探さないといけないという意味だ。
俺は視えていても気配を感じたり出来るわけじゃない。
だから岩影に隠れていたりするなら探さなくちゃいけないんだ。
「じゃあ俺はあっちの方を探す」
「分かった、それじゃあ反対側を探す。何か見つかったらすぐに呼んでね」
「おう」
「ぜーったいに、一人で何とかしようとか考えないでよ?」
「考えねーよ。頼まれたってしない」
そもそも俺に幽霊をどうにか出来る力なんてないしな。
「その心意気やヨシッ。それじゃあ、またあとでね」
「さてと、どこを探すかなー」
もう一度辺りを見回すがやはり居なさそうだ。
隠れるにしても意図してそうしないと幽霊だって隠れることはない。
隠れるってことは視えていることを想定しているということだ。
例えば、さっきの猫又みたいに体を光らせているとかだと隠れるにしたって不便だろう。
だとするとやはり猫又のあれは意図的にやっていたんだ。
自分の正体を隠すために。
もしかしたらアイツは一般人にも見えてしまうのかもしれない。
そう考えれば、俺が視線を外すまで襲ってこなかった理由も頷ける。
「……ん?」
ふと視線を移した先に、女の子の姿が見えた。
テトラポッドの間に小さく身を丸めて座っている。
普通に歩いていたら見逃してしまいそうな場所だ。
あれでも一応、隠れている部類に入るんだろうか?
――って今はそんなことはどうでもいい。
幽霊……だよな?
少し遠いが、その体が少しだけ透けているのが分かる。
悠に連絡するか。
携帯を取り出して履歴から悠に通話を発信する。
ワンコールもしない内に通話が開始された。
相変わらず携帯を手に持って歩いているんじゃないかという程の速さだ。
「もしもし? 見つかったの?」
「ああ、居たよ。テトラポッドの間に隠れてた」
「テトラポッドの間、ね」
「ああ。どうかしたのか?」
「ううん、なんでもない……と、思う。こっちも居たから浄化したらすぐに行くね。くれぐれも――」
「一人で何とかしようとするなー、だろ? 分かってる」
「うん、じゃあね」
通話が終わって携帯をポケットにしまう。
「……あれ?」
そしてもう一度視線を向けた先に女の子の姿はなかった。
おかしいな……確かにあそこに……。
辺りを見回してみるがどこかに行ったのか見当たらない。
辺りを確認しながら女の子が居たであろうテトラポッドの間に近づいた。
「なに探してるの?」
「っ――!?」
突如聞こえた声に思わず身を跳ねさせた。
声にならない驚きが口から漏れる。
声のした方を向き視線を落とした先に女の子の姿があった。
あどけなさの残る顔。
年齢はおそらく小学校6年生くらいだ。
しかしその目は虚でどこを見ているのかも分からない。
顔はまっすぐにこっちに向けているが、視線は何かを探すように揺れていた。