夏島002
「お……美味そうな匂い」
着替えをすませて顔を洗い、リビングに向かうと食欲をそそる味噌汁のいい匂いがした。
思わず鼻をひくつかせてしまう。
空腹で匂いを吸ったからか、ぐぅと腹の虫が鳴いた。
そのことで更に空腹感を悪化させてしまう。
そんな悪循環を繰り返さないためにも早く朝食に有りつくに限る。
「おっ、来たねー、真くん。朝ごはんの準備は出来てるよ」
手を拭きながら台所から出てくる悠。
朝食の準備で使った調理器具を洗っていたんだろう。
拭き終わるとエプロンを外して近くの椅子に掛けた。
テーブルにはご飯、味噌汁、鯵の塩焼き、漬物、大根おろしが並んでいた。
まさに日本の朝食、といった感じである。
相変わらず家事スキルは高いようだ。
炊事掃除洗濯、何をさせてもオールオッケーなのにこれで中身が残念なんだから世の中分からない。
「どしたの? そんなところに突っ立ってたら冷めちゃうよ?」
「おっと、そうだな」
悠に促されて席に着いて手を合わせる。
「いただきまーす」
「召し上がれー」
箸を取って鯵を崩す。
身を解した瞬間にふわっと白い湯気が上がり焼きたてのいい匂いが広がった。
箸で掴んで一口目を食べる。
「美味いっ」
焼き加減も塩加減も好みにぴったりで、まったくもって文句のつけようもない。
大根おろしと一緒にまた一口。これも美味い
続いて味噌汁を一口啜る。
味噌の味が濃すぎず薄すぎない絶妙な味付け。
聞いた話によれば味噌汁の味は紅家に長年伝わる秘伝の味付けらしく、その作り方は先祖より親子三代に渡って受け継がれているらしい。
それにしてもここまで好みに合わせて作れるものだろうか。
作り方一つでも人にはどうしても変えられない部分があるだろう。
俺の口に合うからといって悠の口に合うとは限らない。
当然のことながら逆もまた然りだ。
それなのに、悠の作る料理は毎度俺の味覚を当然のように満足させてくれる。
これをどうしてと聞こうものなら悠は迷うことなく愛の力だよと返してくるだろう。
「わくわく」
本人が物凄く聞いて欲しそうな視線でこっちを見ている。
わくわくとか口で言ってる奴はじめて見たよ。
爛々に目を輝かせて凝視してきている。
無視を決め込んでもう一口味噌汁を啜った。
落胆の溜め息は聞こえなかったことにしよう。
漬物をご飯に乗せて食べる。
よく漬けられて味の染み込んだ漬物がアツアツのご飯と絡んで食欲を促進してくる。
一口噛むたびに味が際立つのに、しつこくなくまたすぐにでも食べたくなった。
我が家では漬物は漬けていないので、これは恐らく悠の家で漬けられているものだろう。
視線を感じて再び悠に目を向ける。
聞かれることは諦めたのか爛々だった目は元に戻っているがにこにこと笑顔でこっちを見つめていた。
そこで今更ながらに悠の前に朝食が置かれていないことに気付く。
いつも悠も一緒に食べていたんだが、もう食べたんだろうか?
そんな疑問を浮かべてゾッと嫌な予感がした。
待て、さすがにコイツがどれだけ変態でもそこまではしないだろう。
いや、しかし……否定しきれない。
日ごろまったく相手にされない鬱憤からつい出来心で、なんて理由で人間は犯罪を犯すような生き物だ。
変態でも例外じゃないだろう。
変態だからこそ例外じゃないというべきか。
まさか……。
まさかまさかまさか……。
いやいや、落ち着け。
とりあえず、落ち着くんだ俺。
平静を装いながら味噌汁に手を伸ばした。
口をつけて啜る。
あぁ……美味い。
「しーん、くんっ」
「ん?」
「愛してるよん」
「ぶっ!」
飲みかけた味噌汁を吹き出した。
「わぁあっ、もう、汚いなぁ……」
手近にあった布巾ですぐに処理を始める悠。
器官に入ったのか咳が止まらない。
コイツはいきなり何を言い出すんだ。
「っ――…ごほっ、げほっ。お、おま、お前が急に変なこと言うからだろうが!」
「え? 変なことかな? いつも言ってると思うけど」
あっけらかんとした表情で答える。
「それはそうだけど、タイミングを考えろっての……けほっ」
コイツ、味噌汁飲むタイミング見計らってたんじゃないだろうな。
「ごめんね。でもだって、美味しそうに食べてくれてる姿見たら嬉しくってつい言っちゃったんだもん。他意はないもん」
謝りながらも少しだけ拗ねて真意を伝えてくる。
言われてみれば確かにそうだ。
気持ちは伝えてくるけど悪意を感じたことはない。
だからきっと今のもタイミングが悪かっただけで狙っていたわけじゃないんだろう。
それなのに俺は勘違いをして、善意を、好意を疑っている。
まったく、自分が嫌になってくる。
方法は多少、いやかなり間違っているにしろ、こんなに素直に思いをぶつけてくる奴なのに。
俺は持ち上げていたお椀を置いた。
悠が少し、心配そうな表情で見つめてくる。
「どうしたの? もしかして、おいしくなかった?」
「いや、美味かった。ごめん」
そのまま頭を下げる。
悠は少し慌てた声を出して立ち上がった。
よほど慌てていたのかその勢いで座っていた椅子が倒れた音が聞こえた。
「ど、どうしたのっ? 急に変だよっ? あ、頭下げられても困るよっ」
「疑ったんだ、お前のこと」
「え?」
「お前さ……その、ちょっと……変わってるだろ?」
この場において状況が状況なだけにストレートに表現するのは流石に躊躇われた。
いつもなら当然のように口から出る言葉が今は出てこない。
「え? あー、うん」
自覚があるのかよ。
という突っ込みはとりあえず置いておく。
「だから、その……なんていうか。なんでいつもみたいにお前の食器がないんだろうって考えてさ」
「へ?」
頭上で悠の間の抜けた声が聞こえる。
頭を下げているので表情までは見えないが、相当呆れているか或いは意味を掴みかねているのか。
どっちにしても伝えなきゃダメだ。
これは疑ってしまった自分自身への罰と、悠への謝罪なんだから。
「率直に言う。俺はお前の使った食器を使ってるんじゃないかと思った。ごめん!」
下げている頭を机に付ける。
無言になる悠。
流石に怒っているんだろう。
呆れかえって言葉をなくしているのかもしれない。
これは一発でも殴られる覚悟をしておくべきか。
いや、こんな疑いを掛けたんだ。
一発といわず気の済むまで殴られるべきだろう。
そう考えて顔を上げる。
悠が、じっとこっちを見ている。
……いや、目が泳いでいた。
滝のような汗が流れている。
おいちょっと待て、なんだその反応は。
……あ、深呼吸を始めた。
さっきの布巾で汗拭いてるぞ。
おっ、味噌汁を拭いたことを思い出したらしい、げんなりしてるなー。
「ベ、ベツニ、そんなことキニシナイヨー」
なんで片言なんだよ。
「疑った」
「うっ!」
「食器」
「おっ!!」
「お前の」
「に゛っ!!!」
「ごめん」
「キ、キニシナイヨー……」
「俺が気にするわ! なんだその反応は!!」
立ち上がってその辺にあったハリセンを構える。
悠撃退用武器その2だ。
「――って待てコラ逃げるな!」
逃げ回っていた悠を廊下の先でついに追い詰める。
「さて……念仏は唱えたか?」
「お経のほうは習ってなくて……ハハハ……」
乾いた笑い声を上げる悠。
軽く振ってみると紙で出来ている筈だが、ぶぉんっという風を切るいい音がした。
まさかコイツがここまでの変態だとは思わなかった。
これは俺の無駄な謝罪文を含めてお尻百叩きの刑に処してもまったく問題はないだろう。
「わー! 嘘ウソっ! お茶目なジョークだってば!! ハリセンはいやーっ」
「本当だろうな…」
無言で高速に頭を縦に振る悠。
その必死さに自分の感情が一気に冷めていくのが分かる。
「……はぁ……分かった。信じるよ」
「……ほんと?」
「ああ、ただ冗談にしちゃ性質が悪い。二度目はないからな」
ハリセンを投げ捨てて溜め息を吐いた。
精神的にも肉体的にも無駄に疲れたぞ。
もう二度とごめんだ。
「わーいっ、真くん大好き!」
「うおわっ! 抱きつくなー!」
「そういえば、真くん今日バイトは?」
リビングに戻ってきて食事を再開する。
さっき走って喉が渇いたのか悠の前にはオレンジジュースが置かれている。
ストローを咥えたまま質問してくる悠。
「ん? 今日はないよ」
「あっ、そうなんだー。じゃあ――」
「しない」
「まだ何も言ってないよ!?」
「言わなくてもなんとなく分かるからな」
どうせデートをしようとか言い出すだろうことは分かっている。
「確かにデートはしたいけど違うよ」
「拗ねるのは自由だがサラッと人の心を読むのはやめてくれ」
ぶくぶくとストローで息を吹き込み始める。
少し機嫌を損ねてしまったようだ。
まぁ、確かに勝手に話を終了させられれば誰だって怒るよな。
でもこれも日頃の行いがものを言っていることを自覚して欲しいもんだ。
「確かにデートはしたいけど」
「何故二度言う」
「でも違うよ。また手伝って欲しいんだよ」
「あー、なるほどな。どっちだ?」
悠が俺に頼みごとをする時は大抵神社の力仕事か或いは――……。
「視る方」
「了解」
今日の手伝いはどうやら浄化の方らしい。
俺には普通の人にはみえないものが視える。
それは人だったり動物だったり、はたまた形を成していない何かだったりと色々あるが、一括りにしてしまえば幽霊と呼ばれるものだ。
どうして視えるのか、いつから視えるようになったのか、なんてことを詳しく話すと長くなるので割愛。
別に視えることを懸念したことはないけど、それでも普通みなくていいものが視えるのはあまりいいものではない。
そして悠は神社の生まれであり、長年この島の迷い霊を成仏させてきた家系の子孫であるらしい。
その辺の詳しいことは知らないが、悠のじいさんの宗玄さんが幽霊について色々と話していたことは覚えている。
内容は忘れたけど。
子供の頃は俺もよく世話になった。
危ないときに助けてもらった事だってある。
そんな宗玄さんが亡くなったのは3年前の春だ。
普段絶対に泣かない悠が、泣きながら電話を掛けてきたことを覚えている。
悠が俺に手伝いを頼んできたのもその年からだった。
「なぁ、悠。お前まだ――……」
「……ん? まだ、なーに?」
「あー、いや…まだ朝飯食ってないのか?」
宗玄さんのことを引き摺っているのか?
そう聞こうとして言葉を呑み込む。
そんなことを聞いてどうする。
悠は3年間、俺の居ない間きっちりと仕事をこなしているじゃないか。
悠はただ、幼なじみとして俺を頼ってきているだけ。
そう、それだけのはずだ。
「え? あー…もしかしてまだ疑ってる? やだなー、今日は家で食べてきたよ」
苦笑しつつ答える悠。
俺の聞こうとしたことを悟ったのかもしれない。
それでも明るく返してくれた悠に心の中でごめんと謝る。
でもな、悠。
もし本当に辛い時は言ってくれよ。
俺は、お前の幼なじみとして、誰よりも近くで支えて居たいからさ。
「大丈夫だよ、真くん。ありがと」
「え?」
「なんでもなーい。それじゃあ、早く食べてたべてっ」
「あ、あぁ……」
パタパタと手を振って食事を催促してくる。
笑っている悠はいつも通りの笑顔で無理をしている様子もない。
この調子なら本当に大丈夫だろう。
……まったく人の心を読むなっての。
今度は俺が苦笑する番で、残りの朝食はもちろん美味しく頂いた。