公爵令嬢と元婚約者2
「よく来てくれたね、ティナ」
衣擦れの音とともに声の主がこちらにやってくる。察するに殿下だろう。
迷わず挨拶をする。
「大変ご無沙汰しております、王太子殿下。この度は多大なご迷惑をおかけしましたことを、深くお詫び申し上げます。誠に申し訳ありませんでした」
「いや、こちらもあなたに謝りたかった。も……」
「いけません、殿下」
殿下の行動を先回りして制止の言葉を紡ぐと、殿下が口を閉ざした。よって続けて話をする。
「このような人の多い場所で頭を下げてはなりません」
「ふ。あなたは変わらないな。どうか頭を上げてもらいたい。顔も見られないのでは円滑な話し合いもできない」
そう言われたら頭を上げないわけにはいかない。リディと二人、姿勢を戻して頭を上げる。
そこには予想通り殿下がいた。数日前と変わらない姿だ。と言っても、殿下の目は前回と違って目一杯見開かれていたけれど。
「……ティナ?」
「家名でお呼びください、殿下」
「! すまない。その、あなたは……あなたがレーネ嬢?」
その問いににこやかな笑みを浮かべる。
リディが隣にいてくれるおかげか、思いのほか冷静だ。
「はい。マルティナ・レラ・レーネにございます。婚約の白紙撤回に伴いまして本来の姿で参じました。ご不快であれば即刻退出いたします」
「? 不快ではないが、本来の姿とは? 何故今まであの姿で?」
今度はこちらが目を見張る。
やはり殿下はあの出来事を覚えていないのか。
言いようのない悲しみが私を襲う。
あの出来事――殿下と顔合わせをした時のことはよく覚えている。殿下が不快にならないよう努めてきた発端でもあるから。
だというのに、言った本人が覚えていないなんて……。
気付いてはいたけれど、本人の口から言われるとこちらとしてもくるものがある。
あんなに悩んで内に溜め込んで頑張ってきたのに。当時の私が報われない。
きつく両手を握りしめ、叫び出したい衝動を必死に堪える。
すると私の心の機微を察したのか、リディが私の手に己の手を重ねてきた。驚きとともに行き場を失った気持ちが霧散していく。
そこを見計らったかのように、彼が私の指と指の間に自分の指を挿し入れてきた。
更に驚いたがすぐに気持ちを立て直し、彼の温もりを堪能してから手を離す。それから真っ直ぐ殿下を見た。
「殿下、お忘れでございますか? 顔合わせの折に、殿下がおっしゃったのですよ。『あなたの顔はきつくて嫌だ』と。ですから殿下のお言葉に従い、あの顔で過ごしてまいったのです」
「!? 私があなたにそのようなことを?」
「はい。何度か殿下に申し上げようと思いましたが、わたくしが我慢すれば丸く収まると考え直し、口を噤んだ次第でございます」
「そう、か……私はあなたに無理をさせてきたのだな。そのことに気付かず、あまつさえ裏切ったと……。それでも、あなたは私に謝罪の場を設けさせてはくれないと?」
演技ではなく、本当に苦しそうな表情で殿下が俯く。良心の呵責に苛まれているのだろう。
けれど。王族がそう簡単に頭を下げてはならないし、私もそう易々と許す気はない。たとえそれが、もう終わったことだと私が割り切ろうとしているとしてもだ。
「申し訳ございません」
「謝らないでほしい。全て私が悪いのだから。……言葉だけの謝罪しかできないのはつらいものがあるな」
はは、と力なく笑う殿下。
その後方では、殿下の侍従が静かに控えている。口を挟む気はないようだ。
「そうか。先日、あの場にあなたはいたのだな。確かにクルネールの血は流れている、か。ああ、立たせたままですまない。そちらのソファに……」
続け様に言った殿下は、されど途中で言い淀んだ。その視線はリディに向けられている。
「……エリオット? いや、副団長は、レーネ嬢の護衛で?」
「ご挨拶が遅れてしまい申し訳ございません。彼女の心が落ち着くようにと陛下のご厚情を賜り、彼女の付添いとしてまいりました」
「あなたが?」
……あれ? 陛下の方から話がいっているんじゃないの?
殿下の反応にぱちぱちと目を瞬かせる。
リディも疑問に思っているのか、不思議そうに尋ねる。
「はい。陛下よりお声をかけていただきましたので。殿下は何も聞いておられないのでしょうか?」
「先程陛下に告げられたことを口にしているのだとしたら、私から言えるのはただ一つ。『レーネ嬢を諦めろ』ということだけ。しかし、それで納得できるはずもない。レーネ嬢程完璧な令嬢はこの国にいないからね。
レーネ嬢、私を信じてくれなくてもいい。だが、どうかこの国を治めるために、今一度私の手を取ってはもらえないだろうか?」
言うが早いか殿下がこちらに手を差し出してきた。その表情はとても真剣なもので、冗談を言っているようには見えない。でも――
「申し訳ございません。わたくしには荷が重すぎます。それにわたくしには既に婚約者がおりますゆえ、殿下のお手を取ることはかないません」
以前の私だったら、殿下に信を置けなくても国のために迷わず殿下の手を取っていただろう。
けれど、今の私にはリディがいる。
私のことを想ってくれる彼の手を離したくない。
だから我儘とわかっていても、どうしても目の前の手を取ることはできなかった。
「婚約者? では、彼が?」
殿下が目を見開いたかと思えば、手を戻しながらリディに顔を向けた。
「はい。先日彼と……イストゥール侯爵家のエリオット様と婚約いたしました」
これには殿下の侍従も驚いたようで、殿下と同じように目を見開いていた。ただすぐに見られなくなったけれど。
「そ、そう、か。彼が新しい婚約者……。いや、しかし私は聖騎士団に指示をしていたと思うのだが?」
険しい表情を浮かべ、殿下がリディを見る。射殺さんばかりの鋭い視線だ。
恐らく殿下は、私を捜せと命じたのに、聖騎士団の副団長であるリディが報告をせずに私を匿っていたと憤っているのだろう。
一方リディは殿下の視線を浴びてもなお、目を逸らすことなく真剣な表情で殿下を見ていた。
殿下の怒りを受け止めるつもりだろうか?
とは言え、リディも直前まで私の正体を知らなかった身だ。ここは私が説明した方がよいだろう。
「殿下、お忘れですか? わたくしは聖騎士団に在籍しておりました。勿論殿下の命も受けております。その時のわたくしの名は『ルディ』。皆わたくしを男性だと思っておりましたし、彼と親しくなったあともわたくしは素の姿でおりました。当然身分は一度たりとも明かしておりません。明かしたのは求婚を受けたあとでございます。したがいまして、彼が求婚前に報告を上げることは不可能です。性別しか知らなかったのですから」
本当は求婚を受ける直前に全てを明かしているのだけれど、まあ誤差だ。
あの時、あの場所にいたのは、私の秘密を他言しない人たちだけ。
魔法師団の師団長については、お兄様に全幅の信頼を置いているので心配すらしていない。
「私も一つよろしいでしょうか。彼女から真実を告げられたあと、その話はすぐに団長に上げております。そこから殿下のお耳に入れるまで、それ程の時間は経っていなかったかと思います」
リディが私の話に補足を入れる。
あの日私は団長に『報告は翌日にしてもらえないか』とお願いしていた。だが、団長はその日の遅くに報告したらしい。
夜遅くならば殿下であっても身動きがとれないだろうし、朝早くにこちらが動けば問題はないだろうと判断したからだとか。
リディの立場を考えると、聖騎士団としては翌朝の報告では些か都合が悪かったのだそうだ。
まあ、殿下に報告する直前に連絡を受けていたから私もリディも困ることは何もなかったけれど。
「あなた方の話はわかった。聖騎士団に問題がないことも。だが私は……。
レーネ嬢、考え直してはもらえないだろうか?」
幾分つらそうな表情を浮かべ、殿下が私に懇願してきた。
ああ、殿下は私の能力をそれ程までに欲してくれるのか。実にありがたいことだ。
しかし、それを知って喜ぶ時期は疾うに過ぎた。ふるふると首を横に振る。
「殿下は何もお聞きではないのですね?」
「? 何か問題が?」
「はい。父と陛下がわたくしたちの婚約を白紙に戻す際に『魔法の誓約書』も交わしていました。それによりますと、わたくしの婚約に対して、無理強いや策を講じることはできないとあります。つまりわたくしの婚約が調った今、もう誰も手出しはできないかと」
「なっ!?」
殿下が本日一番の驚きを見せる。
無理もない。自分たちの知らないところで、親が『魔法の誓約書』を交わしていたのだから。私だって寝耳に水だったもの。
「間違いないのか?」
「はい。この目で確認いたしました。王妃様もご覧になっています」
証人までいては、諦めるよりほかない。
殿下もわかっているのだろう。軽く目を閉じ、少ししてからゆっくりと開いた。その表情はやや悲しげだ。
「王妃陛下もご存じか。効力が発揮された『魔法の誓約書』がある限り、どうすることもできないが……いやしかし引き下がりたくない。何か手はないものか……」
どうやら殿下は完全には納得していないようで、眉間に皺を寄せていた。
だからといって、『魔法の誓約書』を前にどうすることもできないはずだけれど。
とりあえず、殿下の話は聞かなかったことにして話をする。
「殿下。これからわたくしは、彼とともに臣下として陛下や殿下の治世をお支えしたいと存じます」
「……あなたは私を見限ってもおかしくないというのに、裏切った私を支えてくれるというのか?」
「わたくしにも至らぬところがございましたので。父にもしっかりと叱られましたわ」
両肩を軽く上げて冗談めかして言えば、殿下がふわりと微笑んだ。
「今になって、あなたの意外な一面をたくさん目にすることになるとは思いもしなかった。自業自得とは言え、エリオットが羨ましい。その目であるがままの彼女を見続けてきたのだろうから」
「むしろ私は彼女のこのような姿を初めて見ました」
「なら一つ忠告しておこう。彼女には気を付けた方がいい。狸たちを遣り込める程だからね」
「それは存じ上げませんでした。ご忠告を肝に銘じたいと存じます」
二人して酷い。……まあ、狸を口だけで遣り込めたのは事実だけど。でも、たった数回よ? そんなに大袈裟に言わなくてもいいじゃない。
内心ムッとしながら二人のやり取りを見る。すると、リディが私の手の甲をぽんぽんと軽く叩いてきた。
……宥めているつもりでしょうが、騙されないわよ? あとできっちりとお小言を言ってやるんだから!
そう思いながらも表情は崩さず、会話する二人に極上の笑みを向け続けたのだった。




