公爵令嬢と元婚約者1
城の侍女に案内されたのは、幾分豪華な部屋だった。先程の部屋よりは狭いが、待機部屋なので問題はない。
その部屋に入り、設えられたソファに座ってリディを待つ。
彼もこちらに向かっているそうなので、然程待たずに済むだろう。
彼を待つ間、侍女が去り際に淹れてくれたお茶を飲み、一息吐く。
実のところ、私の婚約に関する話はもう少し長引くかと思っていた。
自分でも薄々気付いていたのだ。王家がそう簡単に私を手放してくれないだろうと。
だが、不本意な方法だったとは言え、お父様のおかげで思いのほかあっさりと陛下と王妃様が手を引いてくれた。いや、引かざるを得なかったと言った方が正しいか。
とにかく、お父様には感謝しかない。
そう思い回しながら、視線の先にある美術品に目を向ける。
華やかな絵柄が目を引く、一枚の磁器の皿だ。
別にそれが気になったというわけではない。なんとなく目にしただけ。だが――
「あ……」
視点を変えたことによって、今まで考えていたことが頭の片隅に追いやられ、代わりに全く意識していなかった事柄が呼び起こされた。どうでもいいことならまだしも、看過できない事柄だ。
途端に目が宙を泳ぎ出す。
……ど、どうしよう。謁見のことで頭がいっぱいですっかり忘れてたわ……。
本当は全てを謁見の場で終わらせるつもりだった。
当然リディに会うための心の準備なんて微塵もできていない。
けれど、こういう時に限って神様は無情だ。
死の宣告をするかのように、部屋の扉が叩かれた。
なんの対策も講じられていないまま時を迎えてしまい、思考を放り投げて慌ててソファの裏に身を隠す。入り口からは見えないところだ。
そうして身を隠したことで多少心に余裕ができ、そこでようやく返事をする。
すると、部屋の扉が開く音がした。
「レーネ公爵令嬢……あれ? まだ来ていない? でも今返事が……」
若い男性の声がする。恐らくリディを呼びに行った人のものだろう。
しかしそれを確認することはできない。私がここにいるとばれてしまうから。
それに、今はもっと大事なことがある。どんな顔でリディに会えばいいのかを考えなくては。
……まったく。それもこれも、全てリディの所為よ。リディが私にあんなことをするから……。って、思い出しちゃった!
先日の彼の言動を思い出してしまい、さっと両頬に手を添える。
鼓動が速くなり、顔が熱くなる。今にも火を噴きそうだ。
「ああ、大丈夫。少し待っていてくれ」
不意にリディの声がし、彼のものと思われる足音が近づいてきた。
……ああ、来ないで!
そんな祈りむなしく、後方から声をかけられる。
「……見つけた。ルティナ」
彼はそれ以上何も言わなかった。無言でその場に立っているようだ。
このままだと私が振り向くまでそこに居続けるだろう。
仕方ない。両手を頬に添えたままゆっくりと振り返る。ほんのわずかに恨めしさも込めて。
「……リディ」
ぽつりと彼の愛称を口にすれば、彼が優しげに微笑んだ。
「ドレスが汚れる。ひとまずソファに座ろう」
「……ええ」
彼の言葉に従い、差し出された手を取って立ち上がる。
そのままソファの正面に回り腰を下ろすと、斜め前に立つリディがすっと床に片膝をつき、こちらの顔を覗き込んできた。
「落ち着いたか?」
こくり。居心地の悪さを覚えつつも静かに首を縦に振って、彼の顔を見る。
今の私はどんな顔をしているのだろう。リディが苦笑している。
「……なあ、ルティナ。そんなに嫌だったか?」
彼の言葉の意味を理解し、ゆるゆると首を左右に振って違うと答える。嫌じゃないから余計に困るのだ。
「……初めてだったの。どうしていいかわからなくて」
聞きかじった恋愛話なら知っている。恋愛小説もたくさん読んだ。
けれど実際に頬に口づけをされたらそんなもの全然役に立たなくて、ただただ困惑し通しだった。何が正解かもわからない。
「簡単だ。どうもしなくていい。お前の好きなように振舞え」
「好きなようにってずるいわ。きゃっ!?」
リディが私の頭に手を乗せたかと思えば、軽くぽんぽんと叩いてきた。途端に苛立ちを覚える。
「ちょっと、髪型が崩れるでしょ!? 子供扱いするなって何度言ったら……ん? 子供扱いじゃ、ない?」
ルディではないのだから子供扱いにはならない。それなら今のはどういった意味合いだろうか? 首を傾げて考える。
するとリディが「ぷっ」と吹き出した。
「その反応がお前らしくていいんじゃないか? 俺は好きだ」
「!! ……もう! もうっ!」
言い返す言葉が見つからず、じろっと彼を睨みつければ、瞬時に彼の口角が上がった。
「気が紛れたようだな。さ、行こう。そこで人が待っている」
「……わかったわ。エスコートをお願いするわね、婚約者様」
「愛しい婚約者殿の頼みとあらば喜んで」
「まあ。相変わらずね」
漸く気持ちが落ち着き、いつもの私になったところでリディが再び手を差し伸べてきた。
その手を取ってすくっと立つ。私も大概現金だ。
彼のエスコートで部屋の外に出ると、そこには城の侍従がいた。先程とは別の侍従だ。
彼は私を見て軽く目を見開いたが、すぐに「失礼いたしました」と頭を下げ、自身の職務をこなし始めた。
そのまま侍従に連れられて見知った廊下を歩く。
当初の予定では、パーティー会場で殿下と対面するはずだった。しかしいろいろと予定が狂い、先日既に殿下に会っている。
だからなのか、先日よりはいくらか気分が落ち着いていた。リディが一緒にいてくれるのも一因かもしれない。
とは言っても、やはり緊張はする。
リディの顔を見ながら、彼の腕に添えた手に軽く力を込める。彼がそれに気付いたようで、こちらに顔を向けた。
「大丈夫だ。簡単にだが話は聞いている。向こうの思い通りにはさせないから安心しろ」
「……ええ、ありがとう」
殿下を前にして彼にできることなど高が知れる。
それでも、彼の言葉はこれから殿下と向かい合う私に、わずかながらも勇気を与えてくれた。
それだけで嬉しさが増す。彼が側にいてくれることのなんと心強いものか。
そんな思いを抱きながら、執務室に行くための最後の角を曲がり、真っ直ぐ進む。
すると、殿下の執務室の辺りに人の姿が見えた。殿下の護衛騎士だ。
更に騎士に近づき、騎士の顔を見る。そして「あ」と声を漏らした。
「あなたは……」
「?」
「お久しぶりでございます、シェーラー様。あの時あなたがわたくしを逃がしてくださらなければ、わたくしはこの場におりませんでした。本当に、ありがとうございます」
お礼を述べつつ不躾にならない程度に騎士の顔を見る。
彼の顔には困惑と思しき色が浮かんでいた。
無理もない。私にとっては重要な出来事だったけれど、彼にとっては些細な事だっただろうから。
「ああ、ルティナはシェーラー近衛第二部隊長を知っていて当然か。殿下の護衛だもんな。だが、逃がしたってどういうことだ?」
「ハインミュラー元子爵令嬢が私を嵌めるために殿下に嘘を吐いたのは知っているわよね? 実は私、その場に居たの。でも、彼女の話に動揺しちゃって逃げることもできなくて……。そんな時に私にいち早く気付いて『逃げろ』って身振り手振りで伝えてくれたのがこの方よ。それであの場から逃げることができたの」
「そういうことか。なら俺も彼に礼を述べなくてはならないな。ありがとう、シェーラー殿」
「いえ、私は何も……。あの、ご不快な質問で大変申し訳ないのですが、レーネ公爵令嬢、でしょうか?」
あれ? そう言えば名乗っていなかったかも。
彼が困惑していたのは『出来事を覚えていなかった』からではなくて、『私が誰か気付いていなかった』から?
「まあ……。大変失礼いたしました。マルティナでございます。先程、陛下より言付かりまして、彼とともに殿下のお許に参じました」
「連絡は受けております。ご令嬢ともう一人と伺っておりましたが、副団長でしたか……」
そこまで言うとシェーラーは、不思議そうな表情で私とリディを交互に見てきた。
何か疑問に思うことなどあっただろうか? 内心で首を傾げる。
直後、エスコートをするために固定されていたリディの腕がすっと動いた。そのまま流れるように彼の手が私の腰に回される。
それにより足のバランスが崩れ、気付けば行き場を失った私の手はリディの体にぴったりと触れていた。いや、手だけでなく体も先程より近くにある。その状況に気付き、一人慌てた。
人前でこんな姿勢になるとはなんたる失態。恥ずかしすぎて身を隠してしまいたい。
そう切に思いながら、シェーラーの疑問に答えるべく体勢を立て直していると、リディが先に答えた。
「陛下がお心を配ってくださったんだ。俺が彼女の婚約者だから」
「……っ!」
リディの言葉を聞いた途端、シェーラーが軽く目を見開いた。そしてすぐに驚きとも苦しみとも少し違う、なんとも表現し難い顔になる。
だがその間にも彼の表情は変化し続け、しまいには目が閉じられてしまった。
……苦悶? 遺憾? 何かしら。よくわからないわ。
シェーラーが何故そのような顔をするのかわからない。
自分では答えが出ないと早々に判断し、リディの顔を仰ぎ見る。すぐに彼がこちらを向いた。
「リディ……」
「触れない方がいいこともある。双方ともにな」
ああ、聞いてはだめなことか。瞬時に理解し小さく頷く。
それから正面に顔を戻せば、機を窺っていたらしいシェーラーが表情を一変させ、真面目な顔で私に話しかけてきた。
「レーネ嬢は今、幸せですか?」
「ええ、とても」
「……それはよかったです。ご婚約、おめでとうございます。ただいま殿下にお取り次ぎいたしますので、少々お待ちください」
飛びきりの笑顔で答えると、シェーラーが優しく微笑んできた。
彼はさっと向きを変え、自身が守っていた扉をノックすると、中に向かい「レーネ公爵令嬢がお見えです」と声をかけた。
すぐに中から応えがあり、扉が開く。
姿を現したのは殿下の侍従。彼は私と目が合うなり驚いたような表情を浮かべたが、すぐに真顔に戻り私たちを中へと案内した。
「失礼いたします」
視線を下に向け、殿下の顔を見ないように中に入ると即座に淑女の礼を取る。
次いで入ってきたリディも、私の隣に並ぶなり私の動作に合わせて頭を下げた。




