公爵令嬢は眠れない
夜も遅く。
宛がわれた客室のベッドに入った私は、なかなか寝付けずに何度も寝返りを打っていた。
もうかれこれ、一時間近くは格闘していると思う。
それにもかかわらず、睡魔は一向に襲ってきてはくれない。
連日の移動で体も疲れているはずなのに。
まあ確かに、今日あったことで思うところは多い。
でも、眠れない程の悩みではない。
興奮するような戦闘があったわけでもないし……。
考えれば考える程、目が冴えていく。
「……ああもう、だめだわ。全然眠れない。何か温かい飲み物でもいただいてきましょう」
無理矢理眠ることを諦めて、ベッドから起き上がる。
今の私は元の姿だ。
妙齢の女性が、深夜に寝間着姿でうろうろと邸を歩き回るのはいただけない。使用人が用意してくれたカーディガンを羽織る。
少し厚めで、膝近くまである長いカーディガンだ。これで多少は体裁が繕えたはず。
内履きを履き、手燭を持つと客室を出る。
夜も遅い時間なので、廊下には誰の姿もない。
部屋から漏れる明かりもないので、皆ぐっすり眠っているのだと思う。なんて羨ましい。
じゃっかん恨めしく思いながら、すたすたと廊下を歩く。
クルネール邸は何度も訪れているため、迷うことなく厨房に着いた。
厨房には朝の仕込みのためか、副料理長がいた。
彼に理由を説明し、睡眠効果のあるハーブティーを淹れてもらう。
それを十分くらいで飲み干して、部屋に戻った。
これで漸く眠れる。そう安堵したのも束の間。
歩いたことで更に目が冴えてしまった。
気晴らしに風にでも当たろうと、手燭を近くの台に置いてバルコニーに出る。
外の空気は澄んでいた。
少しひんやりとしているが、それがまた心地よい。
天を仰げば、深い濃紺色の空に、薄黄色に輝く月が浮かんでいた。
この間見た時は満月の一歩手前だった月は、今はもう満月を過ぎて半月近くになっている。
月から離れたところでは無数の星が瞬いていた。
「綺麗……」
手すりに掴まり、星空に片手を伸ばす。
星に手が届くはずもないけれど、気持ち的には触れている気分だ。
「それ以上身を乗り出したら落ちるぞ」
もう少し、もう少しと手を伸ばしていると、不意に声をかけられた。
驚いて手を戻し、声のした方を見る。
「リディ? ごめんなさい、起こしてしまったかしら?」
リディの近くに行き、彼と近い距離で顔を見合わせる。
目が合うだけで胸がいっそうときめくのだから、恋とは不思議なものだ。
でも、私だけがドキドキするのは面白くない。
リディも少しはドキドキしてほしい。
珍しく乙女チックなことを考えながら、リディの様子を窺う。
リディはドキドキの『ド』の字もないような、素の顔をしていた。……だと思った。
「いや、考え事をしていた。気分転換に外に出たらお前がいた。眠れないのか?」
「ええ。気がかりなことは何もないのに、どうしても眠れなくて」
「そうか。……そっちに行ってもいいか?」
「それは構わないけれど、大丈夫?」
バルコニーは一部屋ずつ手すりで区切られている。
隙間も空いているので、おいそれと隣の部屋には移れない。
まあ、それは普通ならばの話だが。
「これぐらいの距離を飛び越えられないんじゃ、騎士なんてそうそう務まらないさ。よっ、と」
隙間などものともせずに、リディがこちらに飛び移ってきた。
少し後ろに下がって、リディの場所を作る。すかさずリディがその場所に立った。
先程よりもリディとの距離が縮まる。
リディは、普段は軽く流している髪を下ろしていた。
彼の長い前髪が所々目元を覆い、そこはかとなく色気を醸し出している。
いけない。こちらに来ていいと許可したのは間違いだったかも。
ぴたりと動きを止めた私に、リディが苦笑する。
「そんなに硬くならなくてもいいぞ。今はまだ何もしない」
そう言ったリディの黄色い瞳を、横から射す月の光が照らしている。
前髪の隙間から瞳が覗いているため、途轍もない色気だ。
そんな姿で言われても、安心なんてちっともできない。
ただまあ、ほんのちょっぴり期待もしているけれど。
「ルティナ?」
私が無言だったからか。リディが不思議そうに首を傾げた。
その仕草に、胸が高鳴る。
悔しい。私一人だけが、リディにドキドキさせられている。
きっと今の私は顔が真っ赤になっているだろう。
でも暗いから、リディには気付かれていないはずだ。
すぐに満面に優しげな笑みを浮かべて、ごまかす。
「ごめんなさい、なんでもないわ」
私だけが一喜一憂するのは業腹だ。
この胸の高鳴りは、絶対リディに教えてあげない。
ひそかに決意していると、リディがムッとした顔つきになった。
「……なんか、よそ行きの笑みだな。気に食わない」
「あら、気に食わなかったらどうするの?」
優しげな笑みから一変。
何もしないと口にしたばかりのリディに、いったい何ができるのかしら? と、挑発的に笑って見せる。
……今の私、悪女みたいだわ。ちょっと楽しい。
悪女的な笑い方を何故だか無性に気に入って、そのまま演技を続ける。
さて、リディはどう出るかしらね。
ちらっとリディを見る。
リディは、片手で顔を覆っていた。
わずかだが、彼の体が震えている気がする。
どうしたのかしらと様子を窺っていると、リディがぽつりと呟いた。
「可愛い……」
「えっ!?」
なんか、変な単語が聞こえてきた気がするのだけれど??
聞き間違いかと思い、演技もそこそこにリディの顔をじっと見る。
するとリディが、再び変な言葉を口にした。
「ほんと可愛いな。顔が真っ赤なのも可愛かったが、それをごまかして、挑発的に笑っている姿も可愛い」
「なっ!? あなた、気付いて……」
「目はいい方だからな。その狼狽えた顔も可愛い」
「かっ、からかうのも大概にして!」
居たたまれず、両手でリディの胸元をぐいっと押す。もっと離れて、という無言の抗議だ。
でもリディは私の抗議などお構いなしに、私の手を取って自分の方に引き寄せた。
「っ!?」
リディの手に導かれて、彼の胸に飛び込む。
すかさずリディが私を受け止めてくれた。と思ったら、今度は私を抱きとめる腕に力を込めてくる。
驚いた、なんてものではない。鼓動が全力で暴れまわる。
「ちょっと、リディ!?」
「悪い。そう怒らないでくれ。本当に可愛かったんだ。からかわないと手を出すくらいにはな」
「またからかって」
「本当のことだ。だからそんな可愛らしい顔で俺を見るな。離せなくなる」
いや、『そんな可愛らしい』と言われても困る。
私はただ、顔を上げてリディを睨みつけているだけだから。
リディの言葉に戸惑いつつも、負けじと言葉を返す。
「なら、手が届かない位置に居続ければよかったのではないかしら?」
我ながら可愛げがない返しだ。
幻滅してしまったかしら?
不安になって、リディの様子を窺う。
リディは、幻滅とは程遠い顔をしていた。
「そう言うな。心配したんだ。ま、杞憂だったようだがな」
「!」
眠れない理由は何もない。そう最初にリディに告げていた。
それなのにリディは私を心配してくれたの?
疑問を口にすれば、リディは「は? 当然だろ?」と返してきた。
途端に胸が温かくなる。
嬉しくて、でも少し恥ずかしくて、俯きながらリディにお礼を言う。
「……リディ。ありがとう」
「あ、ああ。じゃあ俺、戻るわ。明日は帝国に向かうんだ。早く寝ろよ?」
頭上から声が降ってきたかと思えば、額にふにっと柔らかいものが触れた。
これって……。
「よし! おやすみ、ルティナ」
リディはそう言うと、隣のバルコニーに飛び移り、部屋に戻っていった。
残された私は暫し茫然としたあと、ぽつんと呟いた。
「…………嘘つき。やっぱりなんかしたじゃない」
リディが触れた部分は、やけどしそうなくらい熱かった。
副料理長「まずい! いつもの癖でハーブティーにブランデーを入れてしまった!!(滝汗)」