プロローグ~裏切り
「君が好きだ。ずっと側にいてほしい」
「嬉しい……私もお慕いしております」
若い二人が手を取り合って愛を語らいでいるその後ろ姿を、私はたまたま通りがかり見てしまった。
学院にある庭園の端、人目を避けるかのような場所にひっそりと置かれたベンチに座って、今もなお、私には気付かずに二人だけの世界を作り出している。
なんてお熱いことでしょうか。燃え上がるような二人の恋は、きっと誰もが祝福してくれることだろうと思います。
男性のお相手が隣の女性ではなく、婚約者である私であったならばのおはなしですが。
まぁ、ぶっちゃけて言うと、私はなんとも思っておりません。だって彼との婚約は政略的な要素しかありませんもの。だから目の前の光景を見ても、側妃になさるおつもりなのね、としか思いませんでした。
冷めてますね、私。
とはいえ、こんな場面に出くわすのもそう滅多にないことだし、面白いのでこのままこっそり覗いておりましょうか。
あ、自己紹介がまだでしたね。
わたくしの名は、マルティナ・レラ・レーネ。
このグレンディア国の貴族、レーネ公爵家の令嬢です。王都ヴェルテにあるヴェンテルガルド学院の三年生で、明日には卒業して、一か月後に目の前で私以外の女性と愛を囁きあっている婚約者と結婚する予定です、多分……一応……。
わたくしの婚約者は、クリストフォルフ・ヴェンデル・グレンディア王太子殿下。
輝くような金髪に宝石のように透き通る碧眼、眉目秀麗、文武両道、下々を思いやるお心をお持ちで、次代の王として皆に期待され、欠点なんてないのではないかと思うような完璧なお方ですわ。
殿下とわたくしは六歳の時に婚約して、それから十一年間のお付き合いになります。その間私は血の滲むような王妃教育を受け、未来の国母となるべく精進してまいりました。殿下もそんな私を認めて下さり、将来は支えあって頑張ろうと互いに励ましあってここまでやってきたのです。
なのですが、何やら雲行きが怪しくなってまいりました。
「私、クリス様がお仕事の時もずっとお側にいたいです」
クリストフォルフ殿下の腕に自分のそれを絡めて、しな垂れかかりながら口を開くのは、ユリアーナ・ハインミュラー子爵令嬢。
ふわふわと風に揺れるのは軽く波打つハニーブロンド。腰のあたりまで伸びるその髪をすとんと下ろして、サイドを小さなお花を模ったピンでとめていらっしゃいます。その瞳は桃色がかった茶色の瞳で色白の笑顔がとても可愛らしい女性です。この発言からして頭の方はちょっと……ごめんなさい。フォローできないです。
「ユリアーナ……。すまない、それだけはできない」
「クリス様、どうして……」
「私の仕事はただ執務室で行なうだけではない。他国の王族や外交、国の慰問等人目のある仕事もそれなりにある。そういった仕事はこれから先も正妃となるマルティナとともに行なうつもりだ」
おや? 殿下は色事に夢中というわけでもなさそうですね。周りが見えなくなっているかと思いきや、一応この国の王太子という自覚はあるようです。
やはり殿下はハインミュラー子爵令嬢を側妃になさるおつもりなのかしら。それならそれでこの国は王族が側妃を持つことは認められているし、手順さえ間違わなければ私も容認しておりますのでこの件は問題なく進むことでしょう。あくまでも手順を間違わなければ、の話ですが。今現在少々怪しいところまできてしまっておりますので、早々に軌道修正なさることを殿下に申し上げておきたいところですわ。
けれど、それは甘い考えだったようです。
婚約には今はまだ響かないと判断し、私がこの場から立ち去ろうとした瞬間、突然彼女から発せられた言葉に我が耳を疑いました。
「ならば私を正妃にしてください。大丈夫です。私頑張ります! 他のみんなだって私が正妃になるべきだって言ってくれてるもの。クリス様は私のこと愛してくださっているのでしょう? もしマルティナ様の事が心配でしたら私に策があります」
「ユリアーナ? 一体何を……」
「うふふふ。みんなが手伝ってくれるわ。クリス様もお手伝いしてくださるでしょう? だってうまくいけば私とずっといられますもの」
「……」
「クリス様には内緒にしていたんですけど実は私、マルティナ様に階段から突き落とされそうになったんです」
「なっ! そ、それは本当なのかっ!?」
「はい。宰相子息のアンゼルム様もブルノー公爵家のカミル様もご存知です。目撃した人も証言してくれるって言ってます」
「目撃した者まで……ならば明日直接問い質さねばなるまいな。階段から突き落そうとするとは度が過ぎている。場合によってはしかるべき措置も辞さない」
ヒュッと空気が入り込み喉が鳴った。それはとても小さな音だったが殿下の護衛の一人が気付きこちらを振り返る。幸い殿下たちには気付かれていないようだ。
けれど、まずい。私の頭の中で頻りに警戒音が鳴り響く。このまま捕まってしまうかもしれないからだ。呑気にお嬢様口調で二人の逢瀬を実況している場合ではない。
それに私は彼女を階段から突き落そうとしたことはない、何度も言うが断じてない。どうして彼女がそんなことを言うのか、荒唐無稽にも程がある。
もし殿下が彼女の言葉を信じてしまえば、いとも容易く婚約破棄がなされてしまう。
殿下の婚約者、未来の国母という地位に固執はしていないので、婚約の破棄くらいなんら問題はない。問題があるとすればその先だ。彼女の身を危険に曝したとして、下手すれば幽閉、若しくは修道院行き、または国外追放のどれかがオプションとしてついてくる。全く嬉しくない。
今すぐに殿下の前へ連れて行かれるかと思ったのだが、護衛の騎士は私の姿を確認するなり、目を見開いてそのまま固まってしまった。だがすぐに我に返ると、いつもは無表情の彼が悲痛な顔をして私に無言のまま『逃げろ』とジェスチャーした。彼の行動に驚きはしたが、即座に首をこくりと深く縦に振ると、人気のない庭園の茂みから音を立てないようゆっくり離れ、ある程度距離を置いたあと必死に走った。
私は恋愛小説をこよなく愛する。残念なことに恋愛をしたことはないけれど。好んでよく読んでいた話は下位貴族令嬢のサクセスストーリーだ。その中で名脇役は悪役令嬢だろう。
悪役令嬢は下の者を見下し、傲慢で横柄で我儘でプライドが山のように高い上位貴族であることが多く、ヒロインを悉く苛めぬき、犯罪まで犯してヒーローの婚約者の地位を守ろうとする人物だ。
よくある苛めはヒロインの物を隠すとか池に捨てるとか、言葉による暴力、仲間外れなどがあり、だんだんエスカレートしてくるとそれこそ階段から突き落すという下手すれば殺人となるような苛烈なものにまで発展する。
そこをヒーローが助け愛を育み、悪役令嬢を糾弾し婚約破棄をして、二人が結ばれるというのがセオリーだ。
クリストフォルフ殿下とハインミュラー子爵令嬢がここ数か月仲睦まじいことは、他の生徒たちの噂を聞いて知っていた。知ってはいたけれど、何も問題はなかったので私が動いたことは一度もない。それどころか、まるで恋愛小説みたいね、と呑気に構えていたものだ。
それと言うのも、殿下は聡明な人なので公私混同はしないと信じていたし、実際先ほどもそれを肯定するような発言もしていた。けれど、殿下の最後の言葉は彼女の言を是としていて……。
とてもショックだった。
私と殿下の間に恋愛感情はない。それは互いに確認し知っている。だが未来のこの国を背負って立つ身として、二人で国を更に良くしていこうと話し合い、認め、尊重し、なにより信頼していた。なのに裏切られた。信じてもらえなかった。それがすごく悔しい。
そして悲しいことに私が悪役令嬢のポジションに位置付けられている。
私はハインミュラー子爵令嬢に対して、何一つ行動を起こさなかったばかりか、話すらしたことがない。目撃者って何? なぜ彼女はあんな嘘を……。
だが、今はそんな感傷など必要ない。逃げおおせた後にいくらでもできるからだ。
そう、私は逃げなくてはならない。状況を打破するために。
このままだと私の否定など容易く握り潰され、圧倒的な権力の前に為すすべもなく、あっさりと断罪されてしまうだろう。だから策を練り明日の断罪を回避せねばならなかった。
おそらく殿下たちは明日の卒業パーティーで事を起こすつもりだろう。その前に私は跡形もなく消えていなくてはならないのだ。更に言えば、私の心証を限りなく白に近い状態にして逃げなければ逃げる意味がない。
必死に走り、庭園を抜け、人がそれなりにいる場所まで来てやっと安堵し歩き始めた時、校舎の角でとある人とぶつかった。迂闊だ。前を見ていたつもりで何を見ていたのか。公爵令嬢として完璧な淑女であろうとしたのに何もかもがダメダメだ。
勢いが強すぎて互いに尻もちをついてしまい「泣きっ面にハチだわ」と、泣きそうになるのを必死に堪え立ち上がると、謝罪をしつつ相手に手を差し出す。
「申し訳ありません。お怪我はありませんか?」
「大丈夫ですわ……ってティナ? 一体どうしたの、そんな青い顔をして」
そこにいたのは一人の令嬢。腰まであるブルネットの艶めくストレートの髪、濃いガーネットの瞳、白皙の美貌に長い睫毛、左の口元の黒子が妖しい色気を醸し出している。そして出るところは出て引っ込むところは引っ込んでいる完璧で魅惑的な姿態。その姿たるやまさに妖艶。
それが侯爵令嬢、エミーリエ・パウラ・ローエンシュタイン。私の幼い頃からの親友だ。
いつ会っても駄々洩れの色気に女性である私まで中てられそうである。けしからん。実にけしか…羨ましい。
いや、しかし、私だってただ黙って見ていたわけではない。それはそれは頑張った。頑張ったのよ、私。そうして努力の結果私も彼女ほどじゃないが、それなりのプロポーションは手に入れることができた。
なんの話してたんだっけ? あぁ、そうだった。彼女の色気に中てられて逸れてしまったわ。
「大変なことになったわ、エミィ」
私はエミーリエの両手をとると先程見て聞いてきたことをすべて話した。味方は多いに限る。
先程の光景を詳らかに説明し終える頃にはすっかり気持ちが落ち着いていた。それと同時に呆れと王子妃なんてやってられるか!と言う僅かな怒りの感情が湧いてくる。
「なるほどね。それであなたはこれからどうするの、ティナ」
「ここまで虚仮にされたらもうどうでもよくなったわ。元々国母も殿下も興味なかったし。でも冤罪はご免よ。とりあえず私は逃げるわ。それでエミィに協力してもらえたらなあって思っているのだけれど」
「もちろんよ。だって面白そうですもの」
「……エミィ」
「ふふふ。冗談よ。そんなに睨まないで」
睨みたくもなる。こっちは人生がかかっているのだから。
まあ、昔からエミーリエは面白いか面白くないかが判断基準なので何を言っても無駄なのだけれど。
気を取り直してエミーリエに今考えている策を話す。
「……てわけでおそらく向こうが行動を起こすのは明日の卒業パーティーだと思うの。殿下は冷静だったし、大勢の前で断罪なんて小説のような展開にはいくらなんでもならないとは思うけど……もしそうなったらその時はエミィよろしくね。あ、でもいつもの癖出しちゃダメよ?」
「ええ、もちろんわかったわ。でもティナはあちらがどんな顔をするのか見ることができなくて残念ね」
ころころと鈴を転がすように笑うエミーリエだが、その姿はとても艶然として、声が艶めかしく聞こえるのはどうしてだろう。不思議でならない。それになんか嫌な予感がするんだけど……。うん、きっと気のせいね。
とりあえず今は時間が惜しい。向こうの反応なんて知ったことではないので「興味ないわ」と素っ気なく返し、続けてエミーリエに別れの挨拶を告げて急いでその場を去った。
帰ってからいくつかしなくてはならないことがある。いろいろ頭の中で、やらなければならないことと、用意しなければならない物をピックアップし、学院の門へと向かう。
この時もし気付いていたならば、その後に起こるあんな大醜聞を阻止することが出来たであろうに、思案していた私は去って行く私の後ろ姿を見て、エミーリエが口角を上げて楽しそうに笑っていたことに全く気付かなかった。