ふえるわかめ
「ねぇ、お母さん……」
若子は、震えていた。
「どうしたの若子? そんな暗い顔して。今日はあなたの大好きな、わかめのおみそ汁の日だというのに」
わかめのおみそ汁の日――――。
それはわかめを愛してやまない若子のためだけに設けられた、月に一度の祭典。天井から壁に至るまで、あちらこちらに吊るされた生わかめ。食卓に敷かれた生わかめ。今どき珍しい、わかめの服にわかめのスカート。当然、若子のわかめのように艶めく長い髪をまとめ上げるシュシュも、わかめである。
この家に存在するものの、その全てがわかめづくし。まさに、わかめの祭典なのだ。
「あなた、体調でも悪いの?」
「ううん……違うのお母さん」
「まさか、わかめが嫌いになったわけじゃ――」
「そんなこと、あるはずがないでしょ!!」
ドンッ!!
「ひっ!?」
普段は温厚で人当りも良く、孝行者の若子。
「この私がッ!! 何より誰よりわかめを愛してやまないこの私がッ!! わかめを嫌いになるだなんて、そんなことあっていいはずがないでしょうッ!!!」
「ご、ごめんなさい……」
そんな彼女が初めて見せた剣幕に、わかめテーブルに叩きつけられた若子の拳、その強い苛立ちに、母は驚きを隠せないでいた。
ブッ!!
あと我慢していたおならも出してしまった。
「それで若子、一体どうしたというの?」
「……ちがうの」
「ちがうって、どういうこと?」
「ちがう……の……」
どうにも歯切れが悪い若子。まるで質の悪い茹ですぎたわかめのような歯切れの悪さ。全くもって、いつものはつらつとした若子らしくないことである。
そんな若子は真っ直ぐにわかめテーブルの一点を見つめ、ただただ震えるばかりだった。
「若子、黙っていてはわからないわ? お母さんちゃんと聞いてあげるから、ね?」
優しい声。苛立つ若子を刺激しないようにとの、母の配慮。
ところで刺激といえばわかめに含まれる不溶性食物繊維、これがなかなかの働き者なのだ。不溶性食物繊維は腸の中で便を柔らかくし、また腸壁を刺激することで排便を促進、便秘を防ぐ効果が期待できるのである。
「………………」
しかしそれでも尚、まるで荒波に流されまいと岩に根を張るわかめのごとく、堅く堅く口を閉ざす若子。
スッ……。
そんな彼女の前へ柔らかに差し出された、温かなもの。
「お母さん……?」
それは慈愛に満ち溢れた母の人差し指。
「ほら、怖くない」
そう、ナウシカのやつである。
「ね? 若子?」
「うん…………うんっ!!」
ガブリッ!!
「ッ!!」
怒り狂い、尋常ならざる震えを露わにしていた若子の陰に潜む“ 怯え ”に、母は気づいていた。だからこそ母はそっと彼女の前に己が身を差し出し、そして見事にそれを受け止めたのだ。
しかし母の指からは結構な量の血が流れ始めていた。それもそのはず、日ごろから収穫したての生わかめの太い茎をかじりつづけてきた若子の顎の力は、今やワニのようなもの。大体1トンくらいあるのだ。なんなら多分、骨も折れたんじゃないかと思う。
「………おかあさん……ごめん、ごめんね」
「ふふ。大丈夫、大丈夫だからね」
母の咄嗟の機転により、若子はなんとか事なきを得たのである。美しい、なにものにも穢される事のない、親子の深い愛がそこに在った――――。
「それじゃあ、改めて聞かせてちょうだい? 一体何があったのかしら?」
「うん……」
申し訳なさがあるのだろう。上目遣いに母をちらりと見やり、次いで若子の視線はわかめのおみそ汁へと向けられた。
「わかめのおみそ汁が、どうかしたの?」
母もまたその視線を追い、わかめのおみそ汁が入ったわかめ模様のお椀を見つめる。
「お母さん、このわかめのおみそ汁のわかめって、生わかめじゃあないよね?」
「そうよ。これはいつも使っている乾燥わかめの『たっぷり! 増えるわかめさん』よ。あなた、よく気づいたわね」
「当然よ。だって私は若子なのよ?」
「ふふ、そうだったわね」
「もうお母さんったら! えへへへへ」
わかめを愛し、わかめに愛され続けてきた若子にとって、わかめのおみそ汁に入っているわかめが生わかめなのか乾燥わかめなのかを見分けることなど、造作もないのだ。
ちなみに若子はこの若さにしてわかめソムリエの資格を有している。世界に数えるほどしかいない、あの輝かしいわかめソムリエの称号を。そして彼女こそが世界中のわかめマニアの羨望を一身に集め、筆頭わかめソムリエの名を欲しいままにする伝説の“ わかめマスター ”なのだ!!
「――――それで、どうかしたの? 生わかめの方が良かったかしら?」
「ううん、私は乾燥わかめも大好きだから、それは構わないの」
ところで乾燥わかめがダイエットに良いなどという話があるが、要注意されたし。乾燥わかめは胃の中で水分を吸収し、およそ元の12倍にも膨らんでしまうのだ。食べ過ぎてしまえば胃を圧迫し、最悪の場合破裂してしまう恐れさえある。
さて前置きはこのくらいにしておいて、ここからが本題だ。実は乾燥わかめにはもう一つの落とし穴がある……乾燥わかめのパリパリ感である。この食感の良さは食欲を非常に強く刺激してしまうため、思った以上にパリパリと食べてしまうのだ。みんな、本当に気を付けてほしい。
そして一見なんの変哲もない、乾燥わかめが入ったわかめのおみそ汁。彼女はそれそのものに不満を抱いているわけではなさそうだ。
「お母さん、よく見てほしいの。そのわかめ、何かがおかしいの!」
「おかしい? どういうことかしら……」
共に顔を並べ、わかめテーブルの上に置かれた乾燥わかめ入りわかめのおみそ汁に、二人がそっと近づいた…………
その時ッ!!!!
「なっ!? こ、これはアァァァァァッ!!?」
母、驚嘆!!
「あっ……あぁぁあぁっ!! アアアァァアアアァァアァァ!!」
若子、絶叫!!
「わ、わかめが……」
ブルブルブルブルブルブル!!
「まさかッ!!」
若子、咄嗟に乾燥わかめの袋を手に取るッ!! その素早さはまさに固形のわかめスープの素を作る際に用いられるフリーズドライ製法、その冷凍過程における急速冷凍がごとき速さッ!!
「若子ッ!? どうしたというの!!」
共に覗き込む乾燥わかめの袋ッ!! 二人の愛の共同作業ッ!!
「や、やはりこれはァ!!」
そして気づくッ!! そこに記された驚愕の事実ッ!!
「「ふるえるわかめッ!!!!」」
おわり。
わけわかめ