僕は闇夜と会話する
午前一時。父、母、祖父母が寝静まった時刻、眠っているふりをしていた僕は布団から抜け出し、忍び足で二階にある自室から一階へと降りる。玄関のドアをそっと開けて外に出た。虫の声が聞こえる。家を囲むように生えた樹木たちからは緑の匂いがする。
スニーカーの紐を結び直して、僕は歩き出す。常夜灯もなく、車通りも殆どなくなった道を僕は歩く。目的地は家から約一キロ先にある酒店の自動販売機だ。二十分ほど歩いただろうか、舗装されていない道の前方に、二十四時間年中無休で働く自動販売機の明かりがかすかに見える。
酒店の軒先に設置された真新しい煙草の自動販売機に五百円玉を投入し、煙草を買う。百円玉が二枚と五十円玉一枚の釣り銭を財布の小銭入れに戻し、僕は元来た道を戻る。
舗装されていないでこぼこの道。僕は躓いて、幾度か転びそうになる。T字路に立った僕は、自宅のある左に曲がらず、右方向へと歩みを進める。アスファルトで舗装されたばかりの、やや勾配のある坂道を登ると"第二の目的地"へと辿り着く。
"地域住民の憩いと健康の推進"という目的で造られた真新しい河川敷公園。幼い頃、両親に連れられて川遊びに来たここもすっかり拓けてしまって、今では遊泳禁止と書かれた看板が地面に刺さっている。僕は真新しい木材の香りのするベンチに腰かけて、買ってきたばかりの煙草の封を切る。煙が立ち昇り、苦い味が口の中に広がる。まるで美味しいとも思えない煙草。
夜風が吹いていた。毛先の傷んだ僕の金色の髪と、立ち昇る煙草の煙が揺れる。
僕は似合いもしない煙草を吸い、似合いもしない色の髪をなびかせながら夜道を歩き、闇夜に溶け込もうとする。
柄じゃない。そんなのはわかっている。けれど──。僕は自分を偽りで装飾し、人を遠ざけている。こうしなければ、僕は、彼らに殺されてしまうから。三階建ての灰色の建物とそこに集う者たちを思うと、全身に寒気が走る。僕はまだ、死にたくない。円になって僕を取り囲んだ彼らの顔を思い出す。体が震え出し、背筋に汗が浮いてくる。
「助けてくれ」呟いた僕の言葉が、暗闇に吸い込まれていく。涙が流れてくる。
独り、闇夜に語りかけ、ひとしきり涙を流した僕は、立ち上がり、家へと足を向ける。家を出たとき同様に、音を出さぬようそっと玄関のドアを開け、施錠する。鍵の回る音で、家族の誰かが目を覚まさないか、不安を覚える。足音を忍ばせて自室に戻り、僕はクローゼットから"お守り"を取り出す。少年野球チームに所属していた小学生の頃、父が買ってくれた金属製のバット。空振りばかりで、一度もヒットを打てなかった黒い金属バットを抱いて、僕は布団に潜り込む。僕は僕の布団の中で、僕の体温を感じた。
──「これがあれば大丈夫」自分に言い聞かせ、僕は瞼を閉じた。
──浅い眠りから目が覚めた。もう十月だというのに、寝汗がスウェットの襟首を濡らしている。僕はベッドサイドに腰掛け、窓を開けて煙草に火をつける。窓から入り込んでくる冷気混じりの風。煙草の先端から立ち昇る煙が揺れている。テーブルに置かれた灰皿で煙草を揉み消す。もう一本、と箱を振ると、最後の一本だったらしい。買い置きも切れている。
自室の置時計で時刻を確認すると、もうすぐ午前一時になろうとしている。
僕は汗で濡れたスウェットを脱ぐ。新しいシャツに着替え、左胸の部分に"A電子工業"と印字されている着古されてくたびれた上着を羽織る。
父と母は眠っているだろう。僕は音をたてぬよう、そっと部屋のドアを開け、忍び足で一階へと降りる。汚れの目立ってきたスニーカーを履き、靴紐を結ぶ。玄関のドアを開け、外に出る。ドアが閉まるとき、金属の擦れる音がした。
外の冷気と、変わらない緑の匂いを胸に吸い込みながら、僕は申し訳程度に設置された常夜灯の明かりと、前方に見える自動販売機の明かりを頼りに車通りの殆どなくなった歩道を歩いている。
聞こえてくるのはアスファルトとスニーカーの底が擦れる音と、僕の息遣いだけだ。
十分ほど歩き、シャッターの降りた酒店の軒先に立った僕は、煙草のブランドロゴの入った自動販売機に5百円玉を投入し、ボタンを押す。落ちてきた煙草の箱を取り出し、百円玉一枚の釣り銭を小銭入れに戻し、僕は来た道を戻る。
帰り道、僕はいつものようにT字路を右に折れ、舗装の傷んだ坂道を登る。
闇に包まれた河川敷公園のベンチに僕は座る。軋む音が聞こえた。新しい煙草の封を切って、僕は煙草に火をつける。吐き出した煙が闇に溶け込んでいく光景を眺めながら、僕はいつもこの場所で、自分に問いかける。
──「大人になるって、どういうことだろうね?」
──「……わからないな」
──「普通って、どういうことだろう?」
──「……わからないよ」
幾度となく自問自答を続けても、未だ解答の出ないこの問題は僕がいくつになったら解けるんだろう?短くなった煙草を携帯灰皿で揉み消し、僕は立ち上がる。木製のベンチが再び軋んだ。
ふと、空を見上げた。ここから見上げる空はいつも、黒いままだ。
(了)