異世界へ転移するのじゃ ~桜とアメリカンドッグ~
「失敗じゃ……。なんということじゃ……」
王立魔法研究所所長、ワーフ・グリアバレイはがっくりと石畳に膝をついた。
彼は今、70年の生涯を費やした異世界転移の研究が失敗に終わったことを悟ったのだ。
悲観に暮れる所長に、実験室の後ろで様子を見ていた研究所員達が不思議に思い、声を上げる。
「所長、魔法陣は発動してるように見えますが……」
その言葉を受け、ワーフはゆらりと振り返って所員達を見廻す。そして一人の少年に目を付け、声を掛けた。
「フィナント。お主なら理解るじゃろう。此方へ来て、魔法陣を読み取ってみよ」
「は、はい」
呼びつけられた少年、フィナントは産み出された魔法陣の前まで進み出て、そこに浮かび上がった文字の解読を試みる。しかし少年の表情に理解の色が見えないことを読み取ると、ワーフは助け舟を出した。
「ノルバート法じゃ」
「は……はい!」
魔法陣の文字はたった1文字でも多くの意味を持っており、解読は困難を極める。研究所内でこの魔法陣の文字を解読出来るのは、所長であるワーフと才気溢れる年若きフィナントくらいであった。
「こ、これは……。一刻の、1000分の1……」
「そうじゃ……この転移魔法陣では、ほんのちょっとの時間しか異世界に滞在しておれん。これでどうやってあちらの世界で旨いものを食えというのじゃ……」
頭を抱え嘆くワーフ。異世界へ行くこと、それは若き頃からの彼の夢であった。
ワーフがまだフィナントと同じ少年の頃、魔法研究において事件と呼べる出来事が起きた。偶然ではあるが、異世界の書物の召喚に成功したのだ。その本は日本のグルメを特集した雑誌であった。ワーフは見習いではあったがその転移の現場に居合わせており、異世界の様々な料理がフルカラーの写真付きで掲載された雑誌を見て驚嘆し、これほどの文明を持つ世界の料理とはいかな美味なものであるのかと、夢想した。
その後、異世界への転移魔法研究が盛んに行われるようになるが大きな成果は得られず、長き歳月が過ぎてとうとう研究者はワーフ独りになった。だがワーフは異世界の料理というものがどうしても諦めきれず、独り、研究を続けてきた。
「み、短い時間だけとはいえ、これはとてつもない偉業ですよ! 次はもっと時間を長く出来るかも知れません!」
「そ、そうですよ、ワーフ所長。元気出してください!」
「我々も、今度は協力を惜しみません!」
所員達がワーフに励ましの声を掛ける。それを受け、ワーフの肩が震えた。一度、産み出せた魔法陣ならばその図を描いて魔力を注げば同じ効果が得られる。だが――。
「違う転移魔法の魔法陣を産み出すには、多くの魔石が必要じゃ。だが、それだけの数の魔石はもはや集められぬ。老いて死ぬのが先じゃろうて……」
言葉の後半が哀咽に震える。周りの皆がワーフに同情した。フィナント以外は。
「所長、この魔方陣は滞在時間の延長が可能です。所長の夢である異世界の料理を食べることもきっと叶いますよ」
「なんじゃと!?」
「この文字列を見てください。ここにリングバレイ法を当て嵌めて魔力供給コードに書き換えれば……」
「何……? お、おお、そうか! これなら一刻の3分の1程度にまで滞在時間を伸ばせる! でかした! でかしたぞ、フィナント!」
「日頃の所長のご教授の賜物です」
ワーフとフィナントは喜び合い、手を取り合って小躍りした。後ろの所員達も歓声を上げ、祝福の言葉を次々にワーフに投げ掛けた。ワーフは感激し、思わずポロリと涙が零れ、「いかんのぅ。歳のせいじゃ」と笑った。
◆◆◆
異世界へ行く転移魔法陣は、ワーフしか転移することが出来ないものだった。しかし、それでも所員達は皆、ワーフを祝福して快く魔法陣への魔力供給に次々と名乗りを上げていった。ワーフの長年の願いを皆が知っていたし、偉大な実績により彼は敬愛されていた。そして何より、ワーフしか転移出来ないとしても、異世界転移はとてつもない偉業だった。王立の魔法研究所である為、成功すれば当然報告をしなくてはならないレベルの功績だが、皆、そのつもりはなかった。暫くは異世界に美味なる料理を求める為だけに使っても、誰も文句は言わないだろう。
「では、行ってくる」
「はい、どうかご無事で」
フィナントの頭にぽんとしわがれた手を置くと愛用の銀の杖を握り、ワーフは長いコートを翻して、転移魔法陣へと飛び込んだ。真っ白に意識が飛び、気付くと――。
「…………なんという光景じゃ……」
夜桜が、眼前に広がっていた。ライトアップされた桜の木々は壮観で、息を呑む美しさだった。その花の色は川の水面にも写り込み、また、元となる花びら自体も舞い落ちて川面を流れ変わっていく彩りも趣がある。
ワーフは長い人生の中で、これほど素晴らしい光景は見たことがなかったと身震いし、しばし呆然と眺めていた。
「――ハッ!? いかん、いかん!」
時間は限られている。風光明媚で大変素晴らしいが、旨いものを求めねば。そう思い、ワーフが桜の木の下で宴会をしている人々の元へ足を向けた時。
ドッポーン!
川に何かが落ちた大きな音がした。高さ3メートル程のコンクリートの堤防から幼い女の子が転落したようで、水の中で藻掻いている。父親だろうか、藻掻く女の子を助けようと慌てて川縁に駆け寄って行くが、酩酊し足元が覚束ず、周りの者に止められている。代わりに何人かが川に飛び込んだが、思ったより流れが速いのか、女の子が流れるスピードに追い付けない。
「こりゃいかん!」
ワーフはローブから二対の蒼い魔石を取り出し、片方を女の子が流れて行くと予想される地点に放り投げた。チャポン、と音がして川底へ魔石が沈んでいく。それからもう片方の魔石を桜の絨毯が敷き詰められた足元の地面へと転がすと、銀の杖を掲げて魔力を込め、心の中でこれから起こす物事の具象化を念じた。そして放り投げた魔石の地点に丁度、女の子が流れて来たタイミングで一層高く杖を掲げ、叫んだ。
「転移せよ、人の子よ!」
銀の杖と魔石が眩く輝いて、周囲を明るく照らした。輝きが収まるとワーフの傍らで、ずぶ濡れの少女が藻掻いていた。
「ごぼっ、げほっ、ごほっごほっ……。な、なんで?」
地面の上にいることに気付き、藻掻くのをやめた女の子の元に、その父と母とが駆け寄った。わぁっと小さな歓声が周囲から上がる。
周囲の人々は桜の木の照明で誰かが川を照らそうとしたのか、眩しくてよく見えなかったが、あの立派な白い髭の老人が釣り竿か何かで助けたようだと考えた。
少女を助けた魔法は、ワーフの異世界転移魔法研究の副産物で、ワーフはそうして出来た様々な転移魔法によって、気付けば所長に任命される程の偉大な功績を上げていた。副産物の中には、理解出来ない言語を理解出来る言語に転移する魔法や、相手が理解出来る言語に転移して発声する魔法もあり、ワーフは予めそれらの魔法を自身に掛けている。
「あの、ありがとうございました!」
「本当に、なんとお礼を言ったらいいか…」
「おじーちゃん、たすけてくれてありがとう!」
「よい。子は宝じゃ。それより、宴会をしておったのなら何か旨いものを分けてくれんか? 礼はする」
「えっ……えっと、私達はもう終わって撤収しようとしていたところでして……パパ、何か食べ物残ってたっけ?」
「あ~いや、もうロクなものが残ってなかった気がするな……。あの、何か買って来ましょうか? 勿論、お金は結構です。娘を助けて頂いた、せめてものお礼に……」
「いやぁ、そこまでせんでよいよ」
食べ物を買って来たのでは時間が掛かってしまい、帰る時間に間に合わないだろうと、ワーフは断った。
「ですが……」
「ねぇ、わたしのアメリカンドッグは?」
女の子が母親が手首に掛けている小さなビニール袋を指差し問い掛ける。
「え? でも……」
「なんじゃ? その、あめりかんどっぐというのは」
「ええっと、これなのですけど……。お口に合うかな……」
女親が差し出すガサガサと音を立てる薄い白い袋を不思議に思いつつ、ワーフはそれを受け取って中を覗き込む。鼻を寄せると甘い薫りがして、胸が高なった。遂に念願の異世界の料理を喰うことが出来るのだ……! ビニール袋の中には、更に何かが詰まった細長い白い紙袋が入っていて、ワーフはそれを取り出して紙の袋を開けると、木の棒の付いた揚げ物が見える。
「これが、あめりかんどっぐなる料理か……」
木の棒を摘んで紙袋から取り出すと、綺麗な楕円の形をした衣を付けた料理が姿を表した。
「これを、貰ってもよいのか?」
「うんっ! さっき買ったから、まだあったかいと思う!」
「そうか。では早速、冷めぬ内に戴くとしよう」
「あっ」
少女が何か言いかけたが、ワーフは大きな口を開けて、アメリカンドッグに歯を立てた。表面の固い衣がパリパリと心地良い音を鳴らしていく。齧り取って咀嚼すると、サクサクとした表面の衣と、中のふわふわの衣の両方の食感がして、口の中に優しい甘みと何かの旨味が感じられた。手に持つアメリカンドッグの断面を見ると、真ん中に肉のようなものがある。何かの旨味の正体はこれであろう。厚い衣は小麦粉などを使っているようだ。単純な料理のように見える。だが、おそらく衣には砂糖が使われている。ワーフの国では甘味料は殆どが蜂蜜で、それも主に貴族が消費する贅沢品だった。殆ど砂糖はなく、ワーフは砂糖の甘みを初めて体感した。しかしなにより、美味だった。
「うむ、うむ。旨いではないか」
「そのままでもおいしい? おじいちゃん、ソースもあるよ。かける?」
「そうなのか。うむ、かけたいぞい」
少女はワーフの持つビニール袋から、ディスペンパックと呼ばれる容器を取り出した。アメリカンドッグの入った紙袋の下に隠れていて、ワーフが気付かなかったそれをパキッと折ると、別々の容器に入っているトマトソースとマスタードの容器が密着してお互いを絞り合い、にゅるにゅると出てきたそれらをアメリカンドッグの上にかけてゆく。
「ほおおお……」
「はい! めしあがれっ。……へっくちん!」
「風邪を引くぞ。火に当たってくるがよい」
「佳菜ちゃん、行きましょう。あの、本当にありがとうございました!」
「ありがとうございました!」
「ありがとー、おじーちゃん!」
深々と礼をする父親と母親、それに習って礼をする少女に、ワーフは気もそぞろに手を翳して応える。去っていく少女たちを横目に、再びアメリカンドッグに齧り付いた。サクサクとした表面の衣の食感が楽しい。今度は2種類のソースの味が加わり、味わいが複雑になった。
「旨いのぅ。それに、これはいい。元の世界でも似たようなものが作れそうじゃわい」
さあああ……っと風が吹いて、多くの花びらが舞い散った。視界一面に映る桜は下から照明を当てられ、何処か恐怖を掻き立てる程の幻想的な美しさを咲かせている。
「なんと夢見心地でしあわせなことか……」
やがて、アメリカンドッグの最後の一口を食べ終わると、ワーフは満足した気持ちを乗せた息をついた。
「む……」
残された木の棒を眺めると、衣が付いていた部分の下側に、まだ衣が残っている。ワーフはそれをカリカリと齧った。
「ふふ、これも旨いの」
「おおーい、そこの外国の爺さん! こっちに来て、一杯どうだい?」
桜の下で会社の同僚達と宴会をしている中年男性から、ワーフに声が掛けられる。
「おお、有り難い!」
駆け足で彼らの元に向かうワーフに「元気な爺さんだ」と笑う彼ら。防水の青いシートに腰掛けるワーフに「立派なお髭にケチャップが付いてますよ」とスーツ姿の若い女性が、ティッシュで口元を拭った。
「すまんのぅ。そうじゃ、もう時間がないから、急に消えても驚かんようにな」
「え……はい」
若い女性は、何処かに行く用事があるのかな? と小首を傾げながらワーフに猪口を差し出し、そこに日本酒を注ぎ入れる。すると、そこに桜が一枚舞い落ちた。
「あ。どうしよう。取り替えましょうか」
「よい……実によい」
ワーフはそのまま猪口の酒を煽った。暫く目を瞑って酒を味わった後、見つめる若い女性に桜の花びらの乗った舌を出して見せる。お茶目な人だな、と若い女性は笑顔になった。
「甘露じゃ」
ワーフが頬に皺を刻んで笑顔を見せた丁度その時、少し強めの風が吹いて、ざあああ……と桜の木々が葉擦れの音を鳴らしていった。その風と桜吹雪に攫われるように、ワーフの姿は消えていった。