第六話 別れ
俺たちは、無言のまま歩いていた。
なんとなく、何かを話せる気分ではなかった。
さっき優子が口にした、『殺す』という単語。
冗談ならともかく、本気で言うことなんて日常的にはまずあり得ない。
それはつまり、優子の身に起こっていることが、非日常的であることを意味する。
俺に、何かができるだろうか。
解決してやることができるのだろうか。
……いや、絶対してやるんだ。
どんなことがあっても。
俺は、優子のことを、愛しているから……
誰もいない公園は、静か過ぎるくらいだった。
二人並んで、ベンチに腰掛ける。
ザァーーーーッ
少し強めの風が吹き抜けていき、木々がざわめく。
その様子は、見る者に言い知れない恐怖を呼び起こす。
「ちょうど、一年くらい前かなぁ……」
優子が唐突に切り出す。
「私ね、あのキツネに会ったの。ふふっ……死神、なんだって。信じられる?」
「……は?」
シニガミ?
何、それ?
「……シニガミって、あの死神か?」
「うん、たぶんその死神」
そして、優子は語り出した。
一年前の出来事を――
「じゃあまたねー、アッキー」
そう言って、私はアッキーと別れた。
今日は久しぶりにアッキーを買い物に連れ回した。
買い物といっても、ウインドウショッピングだけで、しかも何も買ってないけど。
でも、いいんだ。
アッキーと一緒にいられるだけで楽しいんだもん。
「アッキー……」
不意に、胸が切なくなる。
会いたい。
さっき別れたばっかりなのに、もう会いたくなってる。
「……まったく、ニブいんだから」
普通、こんなに積極的にアプローチしたら、気付きそうなものじゃない。
それとも、アッキーにとってはただの幼なじみなのかな……
こういうとき、『仲のいい幼なじみ』という関係は、足枷にしかならない。
「やっぱり、ストレートに言うしかないのかな……」
好きです、って。
…………。
「ひゃああぁぁぁっ、無理無理無理っ、恥ずかしくて死ねるっ」
「君が、エトウアキヒコさんかい?」
「えっ?」
突然聞こえてきた、涼やかな声。
振り返るとそこには……
誰もいなかった。
「あ……あれ?」
幻聴?
「幻聴などではないよ。僕はここだ。足元をごらんよ」
足元には、銀色のキツネ。
夕闇に浮かび上がるその姿は、幻想的を通り越して神々しくさえあった。
……なんとなく、嫌な予感がした。
喋る銀色の不思議生物に目を付けられるなんて、ただごとじゃない。
「……何か用なの?」
「エトウアキヒコさんなのかい?」
「……そうよ」
話が進みそうにないので、嘘を吐いておいた。
「そうか……残念だけど、君には今日を限りにこの世を去ってもらうよ」
「……え?」
な、何言って……
その途端、キツネの目が光を帯び始めた。
全身から力が抜けていく……
「あ、ちょ、ちょっと……何……?」
「すまないね。これも仕事なんだ」
意識が段々薄れていく。
私、このまま……死ぬのかな……
ピーッ、ピーッ、ピーッ、……
聞きなれない電子音が聞こえてきた。
「あれ?どうなってるんだ?」
キツネの戸惑ったような声。
と同時に、ビデオの巻き戻しをするように意識が戻ってくる。
「……君は、エトウアキヒコさんじゃないね?」
首から下げたペンダントのようなものを見ていたキツネは、顔を上げ、私をじろりと睨んだ。
「……そんなの、名前聞けばわかるじゃない。なんで女の私が、男の名前持ってるのよ」
「人間の名前なんて知らないよ。僕は仕事をしているだけだからね」
キツネは呆れたようにため息を吐いた。
「なぜ、エトウアキヒコさんのふりをしたんだい?」
「話が進みそうになかったからよ」
「君がエトウアキヒコさんじゃないのなら、関係のないことだ。話を進める意味がないじゃないか」
その通りだった。
キツネの立場から見れば、全くもってその通り。
だけど……
「……嫌な、予感がしたのよ。現にアンタ、アッキーを殺そうとしてたんじゃない」
「ほう……」
キツネは興味深そうに目を見開いた。
「アッキー、か。君はずいぶんと彼女と親しいんだね」
「彼女?……誰?」
「誰って……エトウアキヒコさんに決まってるだろう」
「だから、それは男の名前だって言ってるでしょっ」
「ああ、男の人なのか。……それで、君は彼と親しいんだね」
「……うん」
そういえば、私は何でこのキツネと話をしてるんだろう。
アッキーを殺そうとしてるヤツなんかほっとけばいいのに。
「……なるほど。さっき別れた彼、か」
「……っ!?」
大した洞察力を持っているみたいだった。
「ま、待って!お願いっ、彼を殺さないで……」
私はキツネにすがりついた。
目からは何かしょっぱいものが溢れてくる。
「そういうわけにはいかないよ。仕事だからね」
キツネは淡々と返す。
「お願い……お願いだから……アッキーが死ぬなんて…………嫌だよ……」
「…………」
キツネはじっとこっちを見ていた。
何もかも見透かすような、青玉の眸で。
「……なるほど。彼は君にとって、とても大事な人なんだね」
その声は同情の色を含んでいた。
「だけど、僕にはそれを決める権限はない。……仕事だから、ね」
「仕事って、一体なんなのよ……?人を殺す仕事なんて……」
「死神、だよ」
「え……?」
「死神。人間だけではなく、すべての生き物たちに、死を与える仕事だ」
「…………」
心の中がからっぽだった。
死神とか何とか、そんなことはどうでもいいとして。
このキツネの仕事は、アッキーを殺すこと。
このキツネに、決定権がないこと。
この二つのことを考えると……アッキーが死ぬことは確定的だった。
「……君に、わずかばかり、時間を与えよう」
「……どういうこと?」
「君には、僕の部下として死神になってもらう。そうすれば、僕の仕事を手伝ってもらうことができるからね」
「……私に、アッキーを殺せって言うの……?」
「そうだ。でも、その時期は……君が決めることができる」
意味がよくわからない。
「仕事をサボる死神もいるからね。ただ……サボればサボるほど、罰は重くなる」
「つまり……?」
「君に、彼を殺す仕事を任せる。それを遂行するか、サボるか……それは君次第だ」
「あ……!」
私が『仕事』をサボれば、アッキーが死ななくて済む……!
「あ、ありがとう……」
「ただし、忘れちゃいけないよ」
キツネが釘を刺す。
「仕事をサボればサボるほど……彼を庇えば庇うほど、君自身の受ける罰は重いものになる」
「……わかりやすく言えば、私が罰を受ける代わりに、アッキーが生き延びられる、ってことね?」
「そういうことだ。それから……あまり長く延ばさないように。一年も延ばせば、確実に死刑だ」
そんなの、怖くもなんともない。
アッキーがいなくなってしまうことに比べたら。
「死神の処刑は、『炮烙』という惨い方法だ。甘く考えないことだよ」
「……炮烙?」
「人間界でも昔使われたらしいね。猛火の上に、油をたっぷり塗った銅製の丸太を渡して、その上を渡らせるんだ。みんな、火だるまになって……思い出すだけで吐き気がするような方法さ」
「そんな……」
……聞くだけでも吐き気がする。
「早いうちにお別れを済ませて、殺すこと。いいね?」
「……うん」
頷いたはいいものの、どうすればいいかなんてまるでわからなかった。
「――それから、一年が経ったわ」
そこまで一気に話した優子は、そこで言葉を切った。
俺には、まだ信じられなかった。
優子が死神だということ。
俺を殺さなければいけなかったこと。
そうしなかった優子は……
……惨い方法で処刑されること。
「……私はね、ずっとアッキーのこと、好きだった」
優子の言葉はまるで……
「アッキーが私のそばからいなくなるのなんて、耐えられないよ」
最期の瞬間を楽しむかのようで……
「これは、私のわがままなんだ」
ずっと健気に燃え続けていた、命の炎は……
「だから……ね、そんな顔しないで」
もう、燃え尽きる寸前だった。
「……ふ……ざける、な…………」
精一杯の言葉は、嗚咽で震えていた。
「俺の、こと……本気で……好き、なら……さあ……」
震えを止めるように、拳を握り締める。
「俺の隣からいなくなるなっ!俺のために命なんて懸けるなよっ!」
「アッキー」
優子がそっと手を握った。
「アッキーのためだから、私、命だって懸けられるんだよ。アッキーのこと、愛してるから」
優子の優しい掌の中で、爪が食い込むのも構わずに更に強く拳を握り締める。
「そんなの……そんなの、本当の愛じゃないだろ」
俺は、優子にそんなこと望んでいない。
ただ、隣にいてほしいだけなのに。
「そんなの、愛情の押し売りじゃないかっ!相手のことなんか全然考えてないじゃないかっ!」
「アッキー……」
「相手が一番望んでないことじゃないか……それなのに、どうして……」
「…………お迎えが、来たみたい……」
春物の薄いコートの袖で乱暴に涙を拭い、顔を上げる。
そこには、キツネがいた。
「結局、『仕事』をしないまま『向こう側』へ行くんだね?」
「……うん」
キツネの目が光を帯び、すぐ側に入り口のようなものが生じる。
そこから覗く『向こう側』は、草木は枯れ、空は淀み、大地は腐っている。
辺りには動物の死骸と思しきものが、喰い散らかされたように転がっている。
まさに、地獄、そのものだった。
「待てよっ、優子っ!」
こんなことってあるか。
あんな世界に、優子を行かせてたまるか。
『向こう側』へ行こうとする優子の腕を掴む。
「行くな……!」
万感の思いを込めて言った。
なのに。
優子は、そっと俺の手に手を重ね、優しくそれを外す。
「私は、幸せだったよ。だって……大好きな人が、私の死に泣いてくれたから」
優子の手がそっと俺の涙を拭う。
溢れる涙は勢いを増して、ぽたぽたと地面に黒い斑点を作った。
「俺は……不幸だよ。だって、大好きな人が、自発的に俺の側からいなくなろうとしてるんだから」
優子は寂しそうに笑った。
「……さようなら」
優子が発したのは、別れの言葉。
いつもの、『じゃあね』とか、『またね』のように、また会うことを前提としたものとは違う。
もう、二度と会わないことを告げる、終幕の言葉。
「優子っ」
「アッキーなら大丈夫。すぐにいい女捕まえられるって。私ほどの美女を引っ掛けたんだから」
いつもみたいな、冗談混じりの口調。
でもその顔には、一筋の涙が光っていた。
「いつまでも私に操を立てたりなんて、かっこ悪いことしないでよね。必ず、誰かと幸せになること」
いつも通りの、ちょっとお姉さんぶった言い方で。
それなら、俺も、いつも通りに。
優子には、隠し事をしないで、本心を。
「……誰かと幸せになんて、絶対なってやらないからなっ!」
「アッキー……」
「優子以外の人を好きになんて、絶対にならないからなっ!」
「アッキー……っ!」
優子は顔をくしゃくしゃにして、俺の胸に飛び込んだ。
「アッキー、私だって行きたくない……行きたくないよぉ……」
「優子……」
「私以外の人と幸せになんて、なってほしくないよ!」
抱きしめた。
このまま一つになってしまえるくらい。
強く、強く。
息苦しくなるけど、それさえも心地よい。
ぶわっと一陣の風が吹き、『向こう側』への入り口が閉じた。
「逃亡者をかくまったら、僕も同罪かな?」
キツネが悪戯っぽく笑う。
「……いいのか?」
「君たちを見殺しにするような、非人道的なことはしたくないからね」
「あ、ありがとう」
「なに、礼には及ばない。これは僕のわがままだから、ね」
そう言うキツネの目は、優しい色だった。
これで、優子が死ぬこともないんだ。
死神界からは、命を狙われることになるのかもしれないけど。
でも、大丈夫。
根拠はないけど、何とかなるような気がしていた。
「えへへ、アッキー」
優子の安心しきった顔。
そんな優子を見てると、俺まで安心する。
安心したら、また涙が溢れてきた。
「わわっ、アッキー、どうしたの!?」
「な、なんでもない」
さっきの涙とは、180°意味が異なる涙。
嬉しかった、なんて、恥ずかしくて言えない。
「おやおやぁ〜、なんだか楽しそうですねぇ〜。俺も混ぜろよ」
幸せだった気持ちをぶち壊すような、下卑た声が聞こえた。
三人揃って振り向く。
そこには、破れた汚らしい黒のローブに身を包んだ、人らしきものがいた。
右手には、大きな鎌を持っている。
すっぽりと頭を覆うフードの下は、暗いためによく見えないが、骸骨であろうと思えるほどに、その姿は死神のイメージ通りだった。
「あなたは……」
キツネが硬直する。
「知り合い、なのか?」
「僕の、上司です。……エトウアキヒコさんの死を決めた人、です……」
嫌な動悸がしていた。
隣で震えている優子の手を握る。
「大丈夫、絶対何とかしてやる」
根拠はないけど、不思議とそう思えていた。