第四話 告白、そして……
4月13日、木曜日。
ザァーーーー
雨が降り続いている。
教室の窓から見える校庭には、巨大な水溜りができている。
キーンコーンカーンコーン
「それじゃ、今日はここまでな。大事なとこだから、しっかり復習しておけよ」
「きりーつ、きをつけー、れー」
週番の間の抜けた声で礼をして、教師が教室を出て行く。
昼休みになった。
優子のほうへ視線を投げかけると、目が合って、ぷいと逸らされた。
土曜の夜にケンカしたきり、まだ謝れていない。
優子とまったく話をしない連続記録、5日目。
今までの自己ベストは3日くらいだろうか。
ぶっちぎりの過去最高記録であり、今なお更新中。
あれから謝ろうと思って優子の様子を窺っているのだが、チャンスは一向に訪れない。
「お前らまだ仲直りしてないのか?」
雰囲気を察したらしい賢人が話しかけてくる。
「まあ……」
「何が原因か知らんけど、早いとこ謝ってやれよ。優子ちゃん、待ってんだろ」
「いや、待っちゃいないだろ」
優子の様子を見る限り、目が合ってもすぐに逸らすし、まだ怒っているように思う。
「はぁ〜……。お前の目は節穴か」
賢人は呆れた顔で大げさにため息を吐いた。
「とにかく、この昼休み中に謝っちまえよ。絶対待ってんだから」
「う〜ん……」
よくはわからないが、賢人はそれなりに自信があるようだ。
第一、このままチャンスを待っていても、結局謝れないままずるずるといく気がする。
よし、謝ろう。
「ゆう……」
「優子ちゃん、いるー?」
気合を入れて、いざ話しかけようとしたところで、邪魔が入った。
「あ、徹先輩、どうしたんですか?」
優子が邪魔した人のところへいく。
仕方ない。
徹先輩の用が済むまで待とう。
やたらとイライラしながら、俺は待つことにした。
「……なんか、やけにイライラしてないか?」
「……別に」
徹先輩に対する得体の知れないイライラは、なるべく顔に出さないようにしていたのだが、やはり隠し通せないようだった。
徹先輩は特段性格の悪い人ではない。
むしろ、面倒見がよく、優しい。
長い付き合いではないが、いい先輩と言って差し支えないし、俺もそれはわかっているつもりだ。
俺は、『善人ヅラをした悪人を本能的に見極める特殊能力』なぞを備えているわけでもないし、まして、彼がそのような人物だとも思えない。
つまりは、敵意を持つ理由がないのだ。
なのに、俺は彼に対し敵意を持っている。
これは、本気で何とかしなくてはならない。
「あれ?」
教室の入り口で話していた二人は、そのままどこかへ行くようだ。
「あらら、タイミング悪かったな。……って、どうした?さっきより機嫌悪くなってるみたいだが」
「なんでもない」
平気を装うが、胸の奥深くに手を突き刺され、心臓を鷲掴みにされているかのような苦しみが襲ってきた。
「お、おい、ほんとにどうした?悩みでもあるのか?」
「……悩んでるように見えるか?」
隠し通すのは、やはり無理なようだ。
賢人なら、相談してみてもいいかもしれない。
「やっぱなんでもなくない。……かも」
「なんだよそりゃ。話す気になったのか?」
「ああ」
それから、徹先輩への敵意について話した。
徹先輩を見ると、イライラすること。
同時に、胸が苦しくなること。
その理由がわからないこと。
「それって、いつからだ?出会ったときから?」
「えっ?」
言われて気付いた。
出会ったときには、こんな感情はなかった。
……というか、出会ったときは沙耶先輩に沈められてたんだよな。
その次の日も別に感じなかった。
さらに次の日、土曜日……
そうだ。
「土曜日の昼だ……」
「何かあったのか?」
何のことはない、優子と徹先輩が話しているのを見かけただけだ。
だが、そのときは確かにこの感情を抱いていた。
それを話すと、賢人は途端にげんなりした。
「……それって、ただのヤキモチだろ」
「は?」
「だから、ヤキモチだって。お前は優子ちゃんが好きで、徹先輩に嫉妬してんの」
優子が好き?
俺が?
「……んなバカな」
そう言いつつも、頭のどこかではなるほどと納得していた。
「バカはお前だ」
賢人は呆れたように言う。
そう、バカは俺だ。
朝起きるのが辛くないのも。
興味なんてなかったはずの剣道を真面目にやっているのも。
いつも通りの帰り道が楽しいのも。
全部、優子がいたからだったんだ。
共働きの両親が忙しくなって、出社が朝早くなったとき――
『おじさんもおばさんもいないんじゃ、寝坊ばっかでアッキーがヒッキーになっちゃうでしょ?私が起こしに行ってあげるわよ』
秀明学園を受けると決めたとき――
『アッキーじゃ学力不足もいいとこよ。私が教えてあげる』
階段から転げ落ちたとき――
『大丈夫?頭打ったんでしょ?どこ?』
――いつでも隣にいて、大なり小なり、何かがあるたびに助けてくれた。
『優しい子になるようにって、優子ってつけたんだって。そのまんますぎて笑っちゃうよね』
優子は、いつだって優しかった。
素直じゃないところがあるけど、いつでも心の中では気を遣ってくれていた。
そんな優しい優子に向かって、俺は……
『お節介なんだよっ!』
真正のバカだ。
教室を見回すが、優子はまだ戻ってきていないようだ。
早く謝りたい。
早く、以前のように話したい。
「ちょっと優子探してくる」
「あ?おう、次、体育だから、早めに戻って来いよ」
賢人の声を背中に聞きつつ、俺は教室を飛び出した。
「ん?」
屋上への階段を通りかかったとき、上のほうから話し声が聞こえた。
天気は雨。
こんな日に屋上へ出る人はいない。
少し気になって、上ってみる。
「……俺は、君のことが好きだ。俺と付き合ってくれ」
やべっ。誰かの告白だったのか。
慌てて引き返そうとしたときだった。
「……うれしい」
「っ!?」
聞こえてきた声に、俺は耳を疑った。
優子の……声?
そっと影から覗いてみる。
「私もあなたのことが、好きです」
そう言った女子生徒は、間違いなく、優子だった。
そしてその正面にいる男子生徒は、徹先輩だった。
そんな……
そんな…………
足元が崩れ去るような感覚。
胸が苦しくなり、呼吸は荒くなり、手足の感覚は薄れていく。
目がちかちかし、心臓は激しく脈打ち、血液の流れる音が聞こえる。
頭が真っ白になり、世界が傾く。
どさっ
「えっ……アッキー!?」
優子の驚いた声が聞こえた。
まずい、立ち聞きしてたことがバレてしまった。
なんとかフォローしなくては……
「わ、悪い、立ち聞きなんてするつもりはなかったんだけど……」
「えっ?あ、それもだけど、倒れて……それに顔色も……」
「ほんと悪かったっ」
「ちょ、ちょっとっ」
反射的に立ち上がり、走り出す。
自分の気持ちに気付いて、わずか数分で失恋するとは。
気付くのが遅すぎた、ということだろうか。
……失恋って、苦しいものだったんだな。
どこに向かっているのかもわからず、ひたすらに走り続けた。
気付いたら教室に戻っていた。
「どうしたよ。死んだような顔して」
「……そんな顔してるか?」
「ああ。……その様子だと、優子ちゃんには謝れなかったのか?」
「……忘れてた」
賢人は呆れた顔をした。
この顔、今日何回目だ?
「まあ雨だし、次の体育は女子も体育館だろうから、チャンスはあるかもな」
「体育?」
「おいおい、忘れたのか?男子はバスケ、女子は……確か、ハンドボールだったか」
チャンスがあるどころか、最悪だ。
あんなところを目撃して、優子とどんな顔で会えばいいというのか。
「……俺、体育休むわ」
「何バカ言ってんだ。お前がいなくなったらウチのチームが困んだろ。ほら行くぞ」
「うわ、ちょっと」
結局、賢人に押し切られることになった。
……俺、押し切られてばっかりだな。
よく考えれば、同じ体育館内とはいえ、男子と女子は別々に授業をするのだから優子とは特に顔を合わせずに済む。
そして、つつがなく終了するはず……
「あ、危ないっ」
「えっ」
女子と男子のスペースを隔てるネット付近にいた俺。
振り向くと、接近中の……ボール……?
「んがっ!?」
ゴム製の硬いハンドボールが、見事に鼻に命中した。
「あだだ……」
ぽたっ
「……?」
ぽたぽたっ
足元に赤い斑点ができた。
鼻血が出たらしい。
「あっ、ごめ……あ……ぅ……」
ボールを投げたと思われる女子生徒が謝ろうとして、なぜかためらった。
「あっ……」
優子だった。
……正直、今はあまり顔を合わせたくない。
「すいません、保健室行きます」
俺は逃げ出した。
「ふぅ……」
ぽたぽたっ
一応押さえてはいるが、血が垂れてきてしまう。
ぐいっ
鼻にティッシュが押し当てられた。
「使いなさいよ」
気付くと、優子がいた。
「……ありがと」
短く答え、ティッシュで鼻を押さえる。
さっきのように垂れてくることはなくなった。
「…………」
「…………」
無言のまま並んで歩く。
謝るチャンスなのに……
なのに、いざ謝ろうとすると、なぜか勇気が出ない。
優子はちらちらとこっちを見ていた。
「……何だよ」
「…………」
無視された。
「……私は、謝らないからね」
「は……?」
「何でもないわよっ。じゃあ、お大事にっ」
まったく大事ではなさそうにそういうと、優子は踵を返し、もと来た道を引き返した。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「はあぁあ〜……」
どうして私は、こうも素直じゃないんだろう。
ボールをぶつけたのは、どう考えても私が悪い。
ケンカしたこととは関係ないんだから、謝ればよかった。
心配だし、ぶつけたときとっさに謝れなかったからって、ポケットティッシュまで持って追いかけたのに。
……結局、謝らずに戻ってきてしまった。
「……意地っ張り」
今更言っても仕方がない。
そのときその場で意地を張らずに謝れる人のことを、素直な人、と呼ぶのだから。
昼休みのことをアッキーに見られたのも最悪だった。
「……アッキー、勘違いしただろうな」
当然だ。
傍から見れば、告白する男子生徒とそれを受けた女子生徒。
言い触らされることを恐れているのではない。
誰かにからかわれようが、冷やかされようが、そんなの構わなかった。
ただ、アッキーにだけは、私には他に好きな人がいると思われたくなかった。
こんなことになるのなら、徹先輩を焚きつけたりなんてしなければよかった――
『相談があるんだけど』
『あんまり人に聞かれたくないから、屋上行きの階段に行こう』
私は言われるまま、徹先輩についていった。
相談の内容は、徹先輩には好きな人がいる、とのことだった。
『相手は俺の幼なじみだからさ、同じく幼なじみのいる優子ちゃんに話を聞きたいと思って』
徹先輩と沙耶先輩は、幼なじみらしい。
それで、幼なじみを恋人として見ることができるかどうか、と聞かれた。
『まだ会って間もないのに、こんな相談するのどうかと思うんだけど』
そう言って、徹先輩は笑った。
私は、そういうのは人によると思う、と答えた。
ただ、私自身について言えば恋人として見ることはできる、とも。
そこで話は終わるはずだった。
……私が徹先輩を焚きつけなければ。
『じゃあ、告白の練習をしておきましょうよ』
『え?』
『告白の練習。いきなりだと緊張しちゃうかもしれないから、私を練習台に』
『えー、いいって、そんなの』
『ほらほら、いいから。私を沙耶先輩だと思って』
『ここだと人が来るかもしれないし』
『人に聞かれたくないことだからってここに連れて来たのは徹先輩じゃないですか。大丈夫ですよ。雨の日に屋上に行く人なんていませんから』
『……それもそっか』
『ほら、それじゃ、私は沙耶先輩です』
『ああ……』
徹先輩は咳払いを一つして……
『俺は、君のことが好きだ。俺と付き合ってくれ――』
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
放課後。
部活中にそれとなく観察していたのだが、優子にも徹先輩にも、特に変わった様子は見られなかった。
練習が終わって。
「江藤君、ちょっといいかな」
徹先輩が話しかけてきた。
『優子と付き合うことになったから。幼なじみの君には言っておこうと思ってね』
そんな言葉が続くのだろうか。
見てしまったので知ってはいたが、改めて口にされると辛いものがある。
「あ、すいません、俺、今日は用事があるんでっ」
「あ、おいっ」
俺は走り出した。
「はぁっ……はぁっ……」
なぜか真っ直ぐ帰る気になれず、商店街のほうへ来ていた。
だからといって、商店街に用事があるというわけでもない。
「ん?」
商店街には不似合いな、銀色の美しい毛並みのキツネがいた。
「よう、油揚げでもくすねにきたのか?」
しゃがみこみ、話しかけてみる。
キツネはどこか不機嫌そうに、こん、と一声鳴いた。
青玉のような深青の双眸は、ともすれば人間を越えるほどの利発さを感じさせる。
「あっ」
ふさふさの尻尾を揺らしながら、キツネは一目散に去っていった。
「……帰ろう」
結局、そのまま帰ることにした。
いずれにしろ、優子には謝らないといけない。
土曜のケンカのこと、今日の昼休みのこと。
それと、体育の時間、保健室に行く途中でティッシュをもらったことのお礼もだ。
「あっ」
自宅の近くまで来て、優子の後ろ姿を見つけた。
今度こそ、謝るんだ
「優子っ」
「っ!」
優子は振り返り、俺の姿を認めると、走り出した。
「ま、待てって」
俺も走り出す。
かなり距離がある。
家まではあとわずかだ。
追いつけない……
……ならば、ここからでも聞こえるようにするまでだ。
「優子っ、ごめんっ」
日が落ちた、真っ暗な住宅街に、俺の声が響いた。
優子が足を止め、振り向く。
「ごめん」
はっきりと優子に届くようにそう言って、俺は頭を深々と下げる。
優子が許してくれるまで、上げないと決めた。
ずっと、ずっと、とても長い時間、そうしていた。
……いや、実際にはわずかな時間だったのかもしれない。
足音がすぐ近くで止まる。
「アッキー」
頭上から優子の声がした。
「ひどいこと言って、ごめん」
「…………」
「あんなこと言うつもり、なかったんだ。言い訳に聞こえるかもしれないけど、勢いで言っちゃっただけで、あんなこと思ってるわけじゃないんだ」
頭を下げたまま言った。
「……いいよ、アッキー。許してあげる。……顔を上げて」
顔を上げると、優子は微笑んでいた。
見る者すべてを救ってくれるような、優しい微笑みだった。
そんな優子を見ただけで、ここ数日の苦しみなど吹っ飛んでしまう。
一仕事終えたような開放感を感じつつも、俺にはまだやることが残っている。
「……あと、昼休みのことも、ごめん」
「あっ……」
「なんていうかさ、あの、俺も優子のこと好きだけど、優子には幸せになってほしいって気持ちのほうが強いからさ、俺、応援するよ」
「えっ!?アッキー、今何て……」
優子が驚きに大きく目を見開いた。
「あ……」
言われて気付いた。
一仕事終えて気が抜けたのか、思わずとんでもないことを口走ってしまった。
「いや、えっと……何て言うか……」
何かフォローしなくては。
頭をフル回転させるが、何も思いつかない。
「……あのね、アッキー」
優子は気持ちを落ち着けるようにしてから言う。
「それは、アッキーの勘違いなの。あのとき、徹先輩は告白の練習をしてただけなの」
「……へ?」
「徹先輩は沙耶先輩が好きで、その相談を私にしてきたの。それで、私が告白の練習をしておいたほうがいいって……」
「な、なぬっ?」
なんだそりゃ。
「だから、その……ごめんね?」
……何だか力が抜けてしまった。
「それで、あの……さっきの返事なんだけど……」
優子は感情を押し殺すような表情だった。
恐怖。
先ほど力が抜けた全身の筋肉が、一瞬にして強張った。
聞きたくない。
それはきっと、いい返事ではないから。
「あっ、ごめんっ、俺風呂入んなきゃいけないからっ」
「あ、アッキー!」
めちゃくちゃな言い訳を残して、俺は家に飛び込んだ。