01-1
夏―――。
しゃがれた声のセミは昼夜を問わずうるさく鳴き続け、ただでさえ倦んだ気持ちを更に鬱陶しくさせる。
梅雨が明けて一週間ほどが経っていた。
高校の補講後の塾を終え、奏音は疲れた足取りで道に出た。むせかえるような熱気に、知らず顔をしかめてしまう。
辺りは既に暗い。
朝から晩までうんざりするほどの勉強三昧。受験生だから仕方がないのだが―――早く解放されたい。
重たく吐息をついたとき、携帯が鳴った。同じ部活動だった祐美からだ。
「どした?」
祐美は電話よりもメール派だ。よほどの用件でない限り、電話をよこさない。
『奏音~、あたし、もうだめだぁ~』
「? どうしたの? なにかあった?」
なんだかぼろぼろに泣いている。
『蓮くん……、別れようってぇ……』
「え?」
『好きなひとできたって……』
「え……」
喉の奥で、声が詰まった。まさかとは思いながらも、内心ひやりとした。
誰にも打ち明けてはいないが、祐美の彼氏である齋藤蓮は片思いの相手だった。高校の三年間同じクラスでなければ、親友の彼氏というただそれだけの間柄だったかもしれないが。
『やだよ、なんで急に? 誰なんだよ、好きなひとって!』
「ん……、判んないけど……」
『なんか思い当たることない? 教室で誰か合図を送ってたとかそういうの』
「好きなひとがいるって他に、なにか言ってなかったの?」
『聞いたけど! 答えてくれないんだもん、それしか言わ』
ぷつ。と、耳元で音がした。
「え?」
(あれ? 切れた?)
この辺りは普通に携帯は使えるはず。祐美が電波の弱い所にいるのだろうか?
かけ直そう思って携帯を見ると、『圏外』の文字が表示されていた。
(? ―――へ?)
画面に映り込む光が揺らいだ。何気なく顔を上げた目が、点になる。
夜の九時を過ぎようとしているのに、まわりが、空が、明るい。
ありえない明るさ。
そうして、目の前に広がるありえない光景。
周囲の変化に、目を疑わずにはいられない。
「……」
駅へと向かう商店街が、一瞬にして知らない―――現実とは思えない町並みに変わっていた。
色褪せた看板が灯っていた時代遅れのビルは、身を寄せ合うようにして通りに並ぶ、とんがり屋根の家々になっていた。そして足裏に返ってくる感触に足元を見ると、踏みしめているのは、アスファルトではなく古びた石畳。
(えっ……と……?)
いつかテレビで観たヨーロッパの古い町並みに似た場所に、奏音は立っていた。
振り返った道の先も異国の風景が続いていて、まるで朝を迎えたばかりのように――それとも薄暮のように――静かに薄闇に沈んでいる。
奏音を取り巻いていたはずのいつもの喧騒、いつもの風景が、どこにもなかった。
静寂。ただそれだけ。車もひとも、町もなにもかもが、消えてしまっていた。
夏の制服にさらりとした冷気が沁み込んできて、鳥肌が立った。
(なんで?)
どうしてこんなにも寒いのか。いまのいままで夏の熱気に蒸されていたのに。
口をぽかんと開いたまま、身動きが取れない。
(―――えと。気の、せい?)
ここしばらく補講やら塾、通信教育も重なって、ストレスが溜まっていたのは確かだ。
夢を見ているのだろうか。
手にした携帯を見下ろす。
圏外、のままだ。
眠ったつもりはなかったが、いつの間に寝たのだろう?
塾の講義中かもしれない。この前、居眠りで講師に怒られたばかりだった。急いで起きなければ。
奏音は頭を振り、頬を叩いた。
だが―――再び目を開けてもそこは教室ではなく、見知らぬ町が広がるばかり。目をこすっても強く覚醒を念じても、それは変わらなかった。
「なんなのよ……」
夢は、こんなにもはっきりとしたものだろうか? こんなにも強い現実味を突きつけてくるだろうか?
目の前の光景のどこにも、夢にありがちな不可思議な歪みやほころびが見当たらない。
(どういうこと)
明らかに現実だという強い確信が、じわじわと不安を呼び起こす。
(……)
どうすればいいのだろう。
動くべきだろうか? けれど動いた途端なにかが崩れていくような気がして、一歩が踏み出せなかった。
闇が濃くなりだしていた。寒さも、無視できないくらいになっている。
わけが判らない。
「―――どうしたの?」
混乱する奏音の背後から男の声がかかってきて、情けなくもすごい勢いで肩がはねた。
恐るおそる振り返ってみると、数歩の距離をおいたところから、三人の男たちが興味深げに――まるで獲物を見つけたかのように――こちらを眺めていた。
外国人だった、が。
「……」
ありえない格好をしている。
襟が高く、肩幅を広くとってあるロングコート姿。地の厚いコートは派手に装飾されていて、同じ生地らしいズボンの裾は、膝までのブーツに入れてある。
なにより、腰に差しているのは―――剣?
(コスプレ、さん……?)
アニメなどの登場人物の格好をしたがるひとたちのことは、知っている。彼らのような欧米人にも、そういう趣味のひとたちがいるということも。
「変わった格好だけど、どこの店の娘かな?」
(―――え……?)
にやにやしながら近付く男たちの不思議に、奏音の怪訝な表情がいっそう深くなる。
聞こえたのは外国語だった。英語とも違う。
だが、―――意味が判る。
耳が拾ったのは初めて聞く言語。なのに、どうしてだか頭の中で、音が意味を構築していた。こんな経験は初めてだった。
呆然とただ見つめ返すだけの奏音になにを思ったのか、男たちは小声で素早く話し合う。
「見かけない顔立ちだな」
「外国人だぜ」
「言葉判るのか?」
「関係ねぇよ」
「こんな格好だ、商売女にゃ間違いねぇって」
(ちょッ)
膝の上まで剥き出しな足に注がれる視線、声をひそめて囁き合うその内容から、制服姿の奏音を勘違いしていると知れた。
一歩、後ずさる奏音。しかし逃げようとする肩を、素早く背後から摑まれた。
「や!」
弾くように身体をひねったが、男の手は外れない。
「怖がんなって」
酒臭い息が生々しく頬を掠めた。背筋を悪寒が駆け上がる。
(なんなの、これ……!? 冗談!!)
「やめてください……!」
喉からは、裏返った声しか出ない。
「喋れるんじゃねぇか」
「こんな時間ひとりでどうしたんだァ? 旦那に逃げられでもしたのか?」
「そりゃぁ大変だ。いまからおれたちが主にとりなしてやるよ」
「違うっ、あたしは……!」
高校生です、未成年です。その言葉が声にならない。続いてくれない。
男たちは奏音を取り囲み追い詰める。目はぎらぎらと血走り、明らかに言葉とは別の目的を持っていた。
帰宅途中の女性が乱暴され殺された事件が、記憶のごく新しいところにあった。つい最近隣の市で起きたばかりで、高校でも注意を喚起されていた。
(やだ)
恐怖に喉が押し潰される。
悲鳴をあげたいのに肺に息が届かない。
このまま殺されてしまうのか。
足はすくんで、根が生えたように一歩も動けなかった。
(やだ! 誰か! 嘘だって言って!)
どうして夢から覚めてくれない!?
(誰か助けて!)
早く覚めて!
早く!
「―――なにをしている!」
男たちの禍々しい手が奏音へと伸びたとき、厳しい詰問の声が遠くから割って入ってきた。