3話(最終話)
「もう時間?出なきゃ」
私はスマートフォンの通知を見て、鏡の前で簡単に最後のチェックをする。
膝丈のワンピースに、一粒石のネックレスと細いゴールドチェーンの腕時計。
サンダルのストラップを留めて玄関を出ると、もう家の前に車が停まっていた。
助手席に回り込んでドアを開ける。
「ごめんね、お待たせ」
「待ってないよ」
車に乗り込むと、シートベルトを着けて膝の上にハンドバッグを乗せる。ルームミラー越しに、こちらを見ている目と私の目が合った。
「じゃ、行こうか」
「お願いします」
運転席の晶はゆっくり車を発進させる。
窓の外から空を見ると、もう日は沈みかけていた。
「久しぶりだね。去年は会えてないから寂しかったよ」
「そうだっけ?…あぁ、仕事が忙しかったから」
少し長い前髪に隠れて、その表情はよく見えない。
シャツから覗いているハンドルを握る手は、少しだけ男の人らしい筋肉がついていた。
「今日は大丈夫なの?」
「うん。これからは毎年この辺だとありがたいかも」
私は少しだけ横を向く。
「もう夏休みも無いのに。何か、八月に会わなきゃいけないと思い込んでたね」
「毎年そうだったから。刷り込みって怖いよな」
晶は正面を見たまま、肩を揺らして笑っていた。
「今日もお母さんに晶と出かけるって言ってから来たよ」
ちらりと晶がこちらを見た。
「そうなの?」
「うん。仲良いねーって言われる」
前髪の間から、懐かしむように目元が緩んだのが見えた。
「はは…おばさんも全然変わってないんだろうなぁ」
他愛もない話をしながら山道を抜け、展望台の駐車場へ辿り着く。
昔はすごく広く見えた駐車場も、今は小さな山の上らしいなと思う。灯台のモニュメントは階段が老朽化して立ち入り禁止になっていた。
夜にしか来ないので結局一度も登ったことは無かった。
駐車場から芝生を抜けて、ウッドデッキにもたれながら二人で空を見上げる。
風が穏やかで雲もほぼない。星を観るには良い夜だった。
「夏の大三角形ってどこら辺にあるんだっけ」
「あれじゃない?」
「本当だ。そっか、こっちだった」
「…何か、俺に話したいことあった?」
思いがけないことを聞かれて横を向くと、晶がこちらを見ていた。
「何で?」
「寂しかったって言ってたから。珍しくない?」
すぐに視線を外して、星を見上げながら答える。
「ううん。来ないと落ち着かないだけ」
「へぇ」
少し沈黙が落ちる。今日は周りに人がおらず、夏の虫もまだ鳴いていないせいか妙に静かだった。
ウッドデッキにある備え付けの天体望遠鏡が目に入った。
「これ、ちゃんと見れるのかな」
覗き込むと、ぼんやりとした星が見えた。
「どう?」
「一応見えるけど…星座見たいなら直接見た方がいいね」
一歩ずれて場所を譲ると、晶も前屈みになって覗き込む。
「んー…ん?」
望遠鏡に顔を押し付けて倍率のつまみをいじっている晶を何となく眺めていた。
「…彼女さんとか、毎年会ってる人がいたら怒らない?」
「ん?」
晶が少し笑った気配がした。
「今はいないけど、星を観るぐらいでいちいち怒らないでしょ。そんなんじゃないしさ」
「七歳から続けてるって相当だよね」
望遠鏡から顔を離して、晶は目を見開いた。
「もう…十五年以上?こわ」
二人で声を出して笑う。
「まぁ、今更他の人と来れないもんね。ここまで来ちゃうと」
「…律って真面目だからさ。毎年来ないといけないって思ってない?」
「そんなことない」
口元に笑みを残したまま首を振る。
「来れない年があるとちょっと落ち着かないけど」
「…もう少し近くに住んでて、予定合わせてくれる人なら良かったのにな」
「でも晶じゃなかったら、あんなに仲良くなれなかったよ」
少し間が空いた。
晶を見ると、少し難しい顔をして視線を反らしている。褒めるとよくこういう表情になっていたのを久しぶりに思い出した。
「…俺、素直な子供だったからね」
しばらく黙って星を眺める。
「律、律」
ふと晶が私の肩を指でつついて、ある星を指した。
「今日はアルビレオもちゃんと見える」
晶の指が示す方向に目線を移す。
はくちょう座の胴体から続いたくちばしの先に、オレンジがかった星がはっきり見えている。
「すごい。白鳥の羽も綺麗に分かるね」
すっと耳の横に晶の腕が伸びてきた。
「あそこ、ヘルクレスの腕も見える」
「本当だ」
「今日も棍棒持ってるよ」
思わず二人で視線を交わして笑う。図鑑で星の上に重ねて書いてある、棍棒を振り上げたヘルクレスの絵を思い出していた。
「最初に戦ってる人に見えるって言ったやつ、すごいよな」
「ね。何でそう見えたんだろう?白鳥とか熊はまだ分かるけど」
私が聞くと、晶は少し考えて星をなぞるように中空に指を滑らせた。
「最初に線を引いちゃうと、もう他の見方が出来ないんだと思う」
そう言ったきり、しばらく黙っていた。そっと横を見ると目が合った。
「ちょっと、分かるんだよね」
「…何が?」
晶は困ったように笑みを浮かべて肩を揺らした。
「律と初めて会った時のことだけは、はっきり覚えてる。中間は何も覚えてないのに」
「本当?」
「星座盤持ってなかった?ドヤ顔で持ってるのに、使い方全然分かってなくてさ」
そうだっけ、と呟きながら少し恥ずかしくて眉を寄せる。
「そんなのよく覚えてるね」
「あと律が大声で歌って親に怒られたでしょ」
「違うよ。あれは晶が最初に歌ってた」
「いや、律が歌ってたって。あれ…?」
言葉を被せながら、お互い思い出しているような間が流れてほぼ同時に声を上げて笑う。
「どっちも覚えてないじゃん」
「そんなことない。俺は覚えてるはず」
強い夜風が吹いて、身体を温めるように腕を胸の前で交差させた。
「これ、着る?」
晶は羽織っていたシャツを脱ぐと、返事をする前に私に寄越してきた。
「温くなってたらごめん」
「えー…仕方ないから我慢する」
「上からだなぁ」
笑われながら、大きなシャツの裾を手で押さえる。少しだけ晶の温度が残っていた。
夜が深くなるにつれて、風が出てきた。すっかり暗闇に目が慣れて、幾多の星が少し眩しいくらいに頭上に広がっている。
冷たい風がサンダルを履いた爪先を撫でていく。
「久しぶりにちゃんと見れたなぁ。来て良かった」
「…また来年?」
「うん。また来年」
絶対に会いたいとも、会えたら会おうとも違う。だからそれ以上の言葉は交わさない。
私は晶と一緒に見つけた星座を、もう一度目でなぞって確かめていた。
来年までその場所を覚えていられるように。
忘れてしまったらまた聞けばいい。
だけど、覚えていられたらいいなと思う。




