弾ける想いの伝え方
弾ける想いの伝え方
0.
火曜日の放課後、最後の段差を上がって前に七歩、左に三十二歩進めば目的地の入り口前だ。途中何人かの生徒とすれ違いながらそのドアを目指す。第二音楽室のスライド式のドアを開けると異臭がした。たぶん……煙草の匂い。あまり良くは知らないが、煙は楽器に悪そうだ。禁煙マークを入り口に張り付ければ犯人は止めてくれるだろうか。
そんなことを考えながら足を進める。ドアから六歩で椅子に触れる位置。一……二……三歩目の右足の下に違和感を覚えた。まさか、吸い殻か?疑問に思いながらその落とし物を拾う。平行四辺形で薄く冷たい金属片。表面がざらざらしていて角が尖っていた。いろいろ確かめていたら指先を痛覚が走った。どうやら力を入れすぎて刺してしまったらしい。
痛む人差し指を舐めると微かに鉄錆の匂いがした。
1.
八月上旬。最高気温三十九度のとろけそうな日。窓の外、見下ろしたグラウンドから心地よい打撃音が届く。白球が水平に弾き出されるけど、しかし第一宇宙速度に到達することはなくショートのグローブをすり抜けてレフトの前へ飛んでいく。ファインプレイの好機を逃した遊撃手を冷やかすように紫煙を吹きかけてやる。といっても届く距離ではない。勢いよく吐き出された煙は、あのボールと同じように失速し、挙句の果てには、窓から吹き込む風に押し戻されて、私の頬を掠めてかき消えた。
うぁ~やっぱ匂う。なんだってこんなマズイものが売れるんだろうか。つまりアレだ。世の中の煙草の生産者は総じて味音痴なんだろう。チョコとか苺とかラムネとか、もっといろんな味があってもいいとこの私は思うワケ。
火曜日の第二音楽室は放課後になるとほぼ無人だ。三階建ての校舎の最奥に位置しているためであり、また火曜日は吹奏楽部が活動をしていないからでもある。火曜日は鍵が掛かっていないという侵入者向けのサービス精神満載であり、決して、人に見せたくない苦痛の一服には格好の隠れ場所となっている。
介護施設へ入れられても文句は言えないようなご老体ピアノの横に座り静かに窓の外を眺めながら過ごす習慣は一カ月前からだ。っと、一本吸い切ったところで思考終了。吸い殻を携帯灰皿の中へ収容して証拠隠滅。窓際にある水道設備。『楽器を触る前には手を洗いましょう』という張り紙の下にある石鹸で手を洗って匂いを隠す。
さて。他にすることもないし、さぁ帰ろうと教室を横断し、出入り口のドアに手をかけようとしたところでドアが開いた。もちろん自動ドアである筈がない。そんなサービス精神がこの引き戸にあったとしても喜ぶのは吹奏楽部員であり、侵入者である私にはなんの得もない。反対側、つまり教室の外から、誰かが開けたワケで、結果、遭遇したコイツとばっちり目が合ってしまった。あと半歩近寄ればキスができる距離。瞳の中に私と背後の音楽室が入っていた。ヤバいと思っても、逃げることなんかできなかった。逃げ道がコイツに塞がれている。
ミスったな。誰かが来るなんて思ってもみなかった。とりあえず目の前のコイツは制服を着ているから生徒であり、最悪は免れている。ここは、一歩譲って、道を開けて、コイツが中に入った所で、外に出て、それから逃げればいい。うん、我ながら冴えてる。ってゆーかそれっきゃない!っとゆーコトで後ろに下がって道を開ける私。って同時にこいつも退きやがるし。コレが漫画なりアニメなりなら、うん、絶対に二人の間を乾いた風が通り抜ける。そう思っちゃうくらいの間の悪さというか、息が合っていたというか。一瞬前の緊張なんて忘れて思わず笑ってしまった。
好意に甘えて廊下に出る。何事もなかったように素知らぬ顔でコイツの前を横切って帰ろうとしたとき声をかけられた。心臓が止まるかと思った。やっぱり匂うか。やっぱバレたかな。あ~まぁ、男子なんて色気使えばイチコロだし。口止めなんて簡単だからいいか。手間だなぁ。振り向いた私にソイツは呟くように言った。
「使用後は、エタノールで拭くと錆びにくい」
そして第二音楽室の中に消えた。わざわざ口止めに追うのも馬鹿らしくなって帰ることにした。そのときはアイツの言ったことが何なのか分からなかった。その言葉の意味に気付いたのは、晩御飯を食べて、歯磨きして、お風呂に入った時だった。
痛みをこらえながら、傷口をお湯につけないように慎重に身を沈めたとき。あったかいお湯に浸ってる筈なのに私の背筋はすうっと冷たくなった。……どうしてアイツは分かったんだろう。染み込む痛みを和らげるように左手首を撫でる。細長い幾筋もの赤い傷がそこにある。
2.
十日。つまり翌週の火曜日、また寿命を縮めるために第二音楽室に足を運んだ。毎回毎回一階から三階まで階段を昇るのは気が滅入る。あぁ。そっか。昇る度に寿命が縮むのだから、これは天国への階段だ。いや、地獄へのって言う方が近いかな。馬鹿な事を考えながら昇り終えて、長い長い廊下を渡る。近づくにつれて音が聞こえだす。
音源は第二音楽室のピアノだった。本来なら、中に人がいる日は引き返すべきだし、今日もさっさと踵を返して帰宅しようと思った。だけど帰らなかった。たぶん予想、というよりも期待があったんだ。アイツがいるんじゃないかって。
運が良かったのか悪かったのか、期待は……外れなかった。音楽室のドアは開いていて、廊下からでも、白いカッターシャツを着崩したアイツの背中が丸見えだった。この猛暑の中わざわざ長袖を着て来ていながら肘の辺りまで折り曲げている。
気づかれないようにそっと背後に忍び寄って近くの机に腰掛けて、終わるまで静かに聞いていた。弾き終わると、振り返ることなく前を向いたまま話しかけてきた。やっぱり気づいてたか。
「吸うなら向こうで」
そう言って開け放たれた窓を指さす。言われたとおりに窓際に移動して火をつける。あんまり美味しくない。振り返って、ピアノ越しに見返してやる。ここからなら顔が拝める。コイツは私の視線など気にしないで、演奏を再開する。淀んでいた煙を追い払うように、ピアノの音が室内を満たしていく。
鍵盤には目もくれず、ずっと前を見て呟くように語りかけてくる。ピアノが鳴り響いているのに、何故かよく届く声。あぁ、私が耳を傾けているからか。コイツの声をまともに聞くのは今日が初めてだ。なんとなく、この前のはカウントしないことにしよう。どことなく耳に優しい声だった。
「使った後に水で洗い流すと錆びてしまう。知り合いから聞いた話では、エタノールで拭くと錆びにくいらしい。消毒にもなるし一石二鳥かもな」
変な奴。普通なら、止めたり、咎めたりするのに。でも、どこにでもある綺麗事は聞きたくない。だから、綺麗事を言わないコイツの言葉は素直に聞くことができた。
「あぁそうだ。新品の刃を使うのは良くない。新品には錆止めの油が塗ってあるが、その油には発癌性物質が含まれているらしい。憶測だが、きっと体に良くない」
あは。体に良くないって。コイツ流のジョークか?普通なら錆止め以前の問題だろ。
「言いたいのはそれだけ」
残念。もっとその声を聞かせろよ。そう思ったけど、本当にそれだけで終わり。言うだけ言ってスッキリしたら、あとは好きに弾くだけ。それにしても、コイツは本当に楽しそうに弾いている。その笑顔が正直うらやましい。
音が上がる時にテンポを速めて、音が下がるときはテンポを緩める。緩急をはっきりとつけた独特な弾き方だ。私は最後まで静かに聞き続けた。絆創膏が巻かれている人差し指だけ鍵盤を押す力が弱い。あの怪我は痛いのだろうか。途中で、吸い飽きた煙草の火を消して携帯灰皿にしまった。曲が終わると蛇口をひねり水を出して手を洗った。
傷が疼く。いつものように手も洗ったし、さぁ帰るかと振り返ると、コイツが立っていやがる。あと半歩寄ればキスができる距離。瞳の中に私の姿が映っている。さっきまでの笑顔は消え失せていて、眉間に皺を寄せ渋面を作っている。
「……錆びの匂いがする」
いきなり腕を掴まれた。そのまま引っ張られて、足早に音楽室を出る。
「保健室へ」
そんな場所に連れて行かれるのは厭だ。些細な抵抗の気持ちで足を止めたら、その勢いで腕を握っていたコイツの手が滑り、そのはずみで手首を掴まれる結果となった。傷口を直に握られて涙が出るほど痛かった。激痛に怯んだ私に気付いたのか、掴んでいた手がすぐに離される。
「すまない」
しかしコイツはあきらめない。今度は逆の手を差し出してきた。
「……行こう」
保健室なんて行きたくない。走って逃げだそうと思ったけど、コイツの顔を見上げた瞬間に、そんな気は失せてしまった。逡巡の末、コイツの手を握る。さっきより遅く歩き出す。
ずるいと思った。だって、見上げたときコイツが泣いていたんだ。唇を噛みしめて、ちっとも似合わない涙をぼろぼろ零していた。その上、私を安心させようとしたのか……泣きながらコイツは笑いやがった。全然格好良くなかったし、寧ろ馬鹿みたいにダサかったけど、でも、その笑顔に私は逆らえなかった。
だって、こんなの反則だろ?どうしてコイツが泣くんだよ。痛いのは私なのに。もうっ。私まで泣けてくるじゃん。
あぁ……私はバカだ。逆の手を出せばよかった。結局、コイツの両手を汚してしまったじゃないか。鍵盤の上を踊る指はすごく綺麗だったのに、今では赤く汚れてしまった。
3.
保健室に着いた。しかし、予想外なことに誰もいなかった。保健の綾酉先生がここにいないのは、たぶん、職員室に用事があるのだろう。彼女をベッドの一つに座らせた。他の生徒はいない。
「先生を連れてくる。ここで待ってろ。絶対に動くなよ?」
不安定な呼吸。泣いているらしい。彼女を一人にするのは不安だったけど、先生を連れてこないことにはどうしようもない。二階の職員室に向かう。途中の階段が煩わしい。できる限り速く、だけど転ばないように、一段一段確かめながら進む。職員室のドアを勢いよく開けて叫んだ。
「綾酉先生!いらっしゃいますか?」
途端、注目を浴びる。数えきれないほどの視線を感じた。中央へ歩み寄る。
「その血はどうした!夕波、お前のか?」
この声は、音楽の梁宮先生だ。よかった、この人なら信頼できる。しかし、梁宮先生は男性だ。いろいろと困るかもしれない。やはりここは、女性であり、カウンセラーの資格を持つ綾酉先生がベストだろう。そう思ったところに邪魔が入った。
「どうしました?事故ですか?」
嫌な奴が来た。梁宮先生の舌打ちが聞こえた。しかし、答えないわけにはいかない。相手は教頭の松西だ。焦らずに、梁宮先生は必要最低限の言葉を選んだ。
「怪我人です。綾酉先生はどこでしょうか?」
梁宮先生が小声で聞いてくる。教頭に聞かれたくないらしい。
(オレじゃダメなのか?)
(彼女にはカウンセリングが必要)
それだけで梁宮先生は事情を察してくれた。しかし、声を潜めるオレらを松西が怪しむ。
「もしや、喧嘩ですか?」
悪事には目ざとい。コイツが来ると話が大袈裟になる。煙草のことや怪我のことを知ったら、コイツが放っておくワケがない。すかさず、梁宮先生のフォローが入る。
「教頭先生の御心配も分かりますが、安心してください。ただの事故らしいです。そうなんだろ?」
「女子一人が怪我しました」
「だそうで。ここは綾酉先生に任せましょう」
しかし、蛇よりもしつこい事で悪名高い松西。容易には引き下がらない。
「梁宮先生。隠し事は困りますねぇ。校内で事故が起きたなら放ってはおけないでしょう?僕も行きましょう」
二人の間に険悪なムードが漂う。周りの先生も集まってきた。っと、頼もしい声が聞こえてくる。人をかき分けているのか、どいた、ごめんなさいね、ちょっと通るぞ~などと聞きなれた綾酉先生の声だ。足音が近づく。
「ちょっと、ちょっと!アタシから仕事を奪わないで欲しいですよ!話を聞くに事故なんでしょ?お偉いさんが、わざわざ重い腰を上げるほどじゃないでしょうに。さぁさぁ、怪我人がアタシを呼んでいる!今すぐ導きたまえ、夕波二等兵」
そういって歩き出した綾酉先生の後ろに松西がついていこうとするが、
「ん~夕波のシャツを見るにひどく汚れている。大至急彼を着替えさせなければならない。夕波でこの有様なのですから、怪我をした女子生徒も着替えさせないといけないでしょうね?あらあら、まだついてくるのですか?教頭は女子の着替えに興味がお有りのようで」
さすが天下の綾酉様。毒舌の辛さは伊達じゃない。
「冗談を言っている場合ですか?それだけの出血ですと救急車の手配も必要かもしれません。やはり教頭の僕がいたほうが……」
松西も食い下がる。どうしても来るつもりらしい。教頭の地位はやはり覆せない。仕方ない。大きな声ではっきりと言ってやる。
「古くて硬い頭の教頭はお呼びじゃない。……カウンセラーが必要なんだ」
普通なら生徒が教師に言う言葉じゃない。さすがに失礼だと分かっている。しかしこのくらいの強気でないと、ダメなのだ。教頭の声色が険しくなる。うまく餌に食いついた。これでいい。
「ほう?カウンセラー?事態は深刻なようですが」
どうやって上り詰めたのかはしらないが、教頭に出世して天狗になった鼻をへし折ってやろう。オレは切り札を切った。前々からこのろくでなしが大嫌いだった。シチュエーションは良好。彼女をこれ以上待たせたくないが、この機会を利用させてもらう。
「梁宮先生。オレが入学してから初めて雨が降った日のことを覚えてる?」
もちろん先生は覚えているに決まっている。第一回目の音楽の授業であるにもかかわらずオレが大遅刻をした日だ。前後とつながらない話の振り方だが、しっかり答えてくれた。律儀な人だ。
「そういえば、授業に遅れたお前に発声練習五十回をさせたな」
オレも笑い返して話を続ける。
「先生が数え間違えて三十回で終わったけど。先生、いつから十の次は三十一になったんですか?……さて、あの日の遅刻の理由を、今明かします。生徒昇降口で、オレは濡れた雨合羽を片づけるのに手間取っていた。始業ベルの二〇分前で、遅刻の心配なんてしなくてよかった。だけど、オレは、通りかかった一人の先生に罵声を浴びせられたんです。今でもその時の言葉を忘れません。初めはこうです。『おい、お前のせいで床が濡れているぞ!このまま放置しておくのか?最近の若者はモラルがないんだな!』確かに、確かめてみるとオレの雨合羽のせいで床がびしょ濡れでした。誰かが転ぶといけないと思い、急いで手持ちのタオルで床を拭いた。そして音楽室目指して歩き始めました。この時点ならまだ授業に間に合う筈だったんです。だけど、いきなり、その先生に肩を突き飛ばされた。続いて『なんだぁ?その棒は!その汚いものを校内に持ち込むなぁ!廊下が汚れるだろうが、馬鹿者!』と怒鳴られましたよ」
周囲が静かだ。構わず話を続ける。
「突き飛ばされて転んだ拍子にオレは杖を手放していた。必死の思いで辺りを探しました。もちろん、四つん這いになって手探りです。だけど、どれだけ探しても見つからない。実はこのとき、オレの杖はその先生に隠されていた。お察しとは思いますが、そこの陰険な教頭先生にね。今思い出せば、杖を取り上げられたのは、小学校で受けたイジメ以来でしたね。昇降口の傘立てに立てかけてあるという事まで同じだったことに、絶句したものです。余談ですが、その日の放課後、校内の隅々まで一緒に捜し回ってくださったのが綾酉先生なんですよ」
職員室は重い空気で満たされている。その沈黙を綾酉先生が打ち破る。
「夕波、無駄口叩くような暇があるなら、アタシをあまり待たせるんじゃない。行くぞ」
先生が僕の手を引っ張って、自身の肘を握らせた。出口までの障害物を教えてくれる。職員室から出てドアを閉める直前にものすごい大きな音がした。綾酉先生は気にせず足を進める。
「今の華麗なドロップキックはきっとお前の分だな。たぶんクリティカルヒットだろう。知っているか?あの梁宮ですらアタシのカウンセリングを受けに来るんだぞ?ここ最近、高血圧らしい。あの正義の味方は、毎日のように生徒のために怒りっぱなしだからな」
親身になって叱ってくれることもある。松西とは大違いの名教師で生徒からの人気はダントツらしい。授業もすごく面白い。
「さて、アタシはどこに行けばいい?何をすればいい?」
「保健室へ。先生、自傷癖と自殺未遂の区別って分かるか?」
「そんな小難しいことは、実はどうでもいい。アタシの仕事は傷の手当。痛いところに包帯を巻くことだ。体の何所かが痛い。あるいは心が痛い。痛みがあるならそれは傷だろう?なら、包帯を巻いて痛みを和らげればいい。少しは楽になる。……夕波、階段だ」
また階段だ。どうしても通らなければならない障害。時間をかければ問題なく通過できるのだが、今はその時間こそが問題になる。
「先に行って。着替えなきゃならないし。階段でオレに合わせていると遅くなる。オレは後からゆっくり追いかけるんで」
そう言って先生の肘から手を放す。
「おや?夕波は女子の着替えに全く興味がないと?お前なら一緒に来ても問題ないだろ?やっぱり心の内では気になるんじゃないか?それが男子の在り方だろ?」
かなり真面目に言ったのに茶化された。
「先生、無駄口叩くような暇があるなら、怪我人をあまり待たせるものじゃないって」
4.
言われた通りに待っていた。保健室の中は薬品の匂いがする。手の汚れを水で洗い流す。昼間の炎天下のおかげで水は生温かくて不快だ。左手首を見ると新しく赤い筋が無数についている。どうしてこんなにたくさんの傷をつけちゃったんだろう。あのとき……私はアイツに色んなことを聞きたくなった。言いたいこともたくさんあった。ピアノを弾く時のアイツは楽しそうに笑っていた。話がしたかったんだ。あの笑顔の作り方を教えてほしかった。破裂してしまいそうなほど、アイツへ伝えたい思いで胸がいっぱいになった。
でも、私は何一つアイツに聞くことができない。伝えることができなくて、悔しくて、寂しくて……。いつものカッターで切った。こんなに痛かったっけ?人前で切るのも、一度に何本も傷をつけたのも初めてだった。ヤバい。また涙腺が緩んでいる。
足音が近づいてくる。ほとんど走っているくらいの早足。ぶち破るんじゃないかと心配になるくらいに力いっぱいにドアを開けて、そのまま保健室に飛び込んできた。翻る白衣が眩しい。
「保健医の綾酉だ。ふむ。どうみても怪我人だな。ということは、アタシは貴方の怪我に包帯を巻けばいい。とりあえず、この紙に名前を書いて。面倒だから他のアンケートは書かなくてよろしい」
手当てを受けている間、何も聞かれなかった。アンケート用紙に名前を記入してからは、ずっと先生が喋っていた。アイツが弾くピアノのこと。先生が昔飼っていた猫のこと。職員室で天下一武闘会が開かれたこと。優勝は何故か音楽科担当の梁宮先生だったこと。そんな馬鹿げた話を聞いていたら、いつの間にか涙が止まっていた。真っ白な包帯を巻いてもらって、替えの制服を借りて着替えた。洗って返せばいいらしい。
ノックの音がした。ベッドの周りはカーテンで仕切られていてドアが見えない。だけど来客が誰かわかってしまう。アイツには煙草の匂いが染みついているから。
「惜しかったな、夕波。ちょうど今着替えたところだ」
「先生、誤解を招くような発言ばかりしていると恨みを買うだけだって。新月の夜には背後にご注意を」
「そういえば、お前にとっては闇夜だろうが関係ないんだったな」
綾酉先生が白いシャツをアイツに渡した。
「眼に痛い。悪趣味なシャツを脱いで、さっさとこれに着替えろ」
「そんなに酷いのか?」
「紅葉がいくつか張り付いているぞ。気味が悪いったらありゃしない」
先生の言葉を聞いてアイツが顔をしかめる。渋々シャツのボタンを外し始めた。どうやら、私は眼中にないらしい。
「先生、アイツは大丈夫か?」
「健康そのものだな。今も、お前のストリップショーに見とれている」
鎖骨から胸元の逞しさ。引き締まった腹筋と、程よく鍛えられた腕。うん。目の保養には申し分ない。骨が浮き出てないって反則だよな。文化系の癖に。
「ん、どこ?」
いい加減気づけよ。ムカついたから煙草の箱を投げつけた。胸元にあたって床に落ちたそれをアイツが拾い上げる。だけど、まだこっちを見ようともしない。シカトするのも、いい加減にしろよな。ベッドの上に置いてあった枕を掴んで投げようとしたら、先生に止められた。
「笹香、その辺で許してやってくれ。悪気はないんだ。夕波は……目が見えない」
ふ~んユウナミね。そういえば、名前知らなかったな……って見えてないってどういうこと?そんなのおかしい。
近づいて確かめる。顔の前で手を振った。試しに殴る振りをした。反応がない。ライターの火を近づけても、デコピンを構えても、ストリップのお返しに胸のボタンを二個外してみても、ユウナミは無反応だった。
俄かには信じられない。歩き方も普通だし、ピアノなんて私より上手に弾いている。今まで全然気がつかなかった。
「ササカっていうの?あんたさ、何かオレに一言有ってもいいんじゃないか?ごめんなさい……とか、ありがとう……とかさ」
そんなことはわかっている。もちろん、私だって出来ることなら言いたい。だけど私は……。どうしようもなくて先生に助けを求めた。
「夕波、お前もそこまでだ。同じことを再び言ったら殴るから覚えておけ。知らないようだから、特別にアタシが教えてやる。笹香は話すことができない。一ヶ月前の事故でのどをやられたんだ」
ユウナミのしかめ面が更に険しくなる。また、眉間に皺が寄っている。その皺を押さえてやる。綾酉先生が笑い出した。
「夕波、お前、鏡を見たことがないだろう。この機会に教えておくが、お前は感情がすぐに顔に出る。笹香が押さえているそこに、今、すごい皺が寄っているぞ」
ぐいぐいぐにぐにと指を動かして皺を広げる。コイツに暗い顔は似合わない。
「さてと、アタシは職員室に行く。向こうでも大騒ぎしているだろう。梁宮が暴れたあとは必ず怪我人が出るからな。笹香、貴方は帰っていい。梁宮の大噴火で、生徒が怪我したことなんか、みんな忘れているだろう。あぁそうだ。夕波、明日の訓練は中止だ。今日のことでいろいろと忙しくなりそうだ」
また明日。そう言い残して綾酉先生は立ち去った。ユウナミの袖を引く。腕を掴んで足早に保健室を出る。ユウナミにはあの笑顔が一番。途中の階段で戸惑って足を止めた。コイツも大きな溜め息。
「今日はコイツとの縁が濃い日だな」
昇る途中で色んな話をしてくれた。病気で目が見えなくなったこと。学校から帰る途中で車に轢かれたこと。その事故の傷跡が肩から肘にかけて残っていること。無理を承知で受験したら公立の普通科に合格したこと。入学当初の事件以来、綾酉先生と杖を使わずに校内を歩く訓練を続けていること。盲目のピアニストについて知ったこと。ピアノが弾きたいと梁宮先生に言ったら火曜日に音楽室を開放してもらう許可が出たこと。最近、無実の吹奏楽部員に喫煙疑惑が出ていること。音楽室で錆びたカッターナイフの刃を拾ったこと。綾酉先生に見せたらリスカについて教えてくれたこと。
第二音楽室に到着したら、まだ鍵が開いていた。侵入に成功したらドアを閉めて中から鍵をかける。誰にも邪魔はさせない。コイツの音は私だけのものだ。ユウナミの腕を引っ張って椅子に座らせる。右側に別の椅子を置いて並んで座る。
「すまないが、まだ弾ける曲は少ない。楽譜を読めないから耳で覚えるしかないんだ」
ユウナミが左手で低音の鍵盤を叩く。大逆循環の有名なコード進行で色んな曲に使える。まぁ、私の技量だと、ところどころ綻びがでるけど、小さなことは気にしない。
ユウナミが弾きだした。そのユウナミの右手を押さえて代わりに私が弾く。かなり驚いたみたいだけど、すぐに最高の笑顔に変わる。ユウナミの左手のアルペジオに合わせて私の右手が主旋律を弾く。八小節遅れて私の左手が続き、さらに八小節遅れてユウナミの右手が追いかける。パッヘルベルのカノン。二つの旋律を奏でるためにポンコツピアノも頑張ってくれている。追いかけてくるユウナミの右手に私の左手は絶対に捕まらない。オクターブの差をつけて軽快に逃げ続ける。一人ではできない。バラバラの二つの音が溶け合って一つの旋律を歌う。
一曲だけでは物足りない。弾き終えてもすぐに次の曲につなげる。サビの部分だけでもいいから弾ける曲を片っ端から鍵盤に叩き込む。ユウナミが知っている曲もあったし、知らない曲もあった。驚いたことにコイツは一度聴いたら全部覚えてしまう。
疲れたから少し休憩。なんとなく吸いたくなってライターを取り出す。あれ?タバコがない。と思ったらユウナミのポケットの中だった。そういえば、さっき投げつけた。ポケットに手を突っ込んで箱を取り出し、ユウナミの口に一本咥えさせた。また眉間に皺ができている。
「おい、こら。オレは吸わない」
今さら知るもんか。勝手に火をつける。まぁ、当然のことだけどユウナミは豪快にせき込む。その口先から落ちた煙草を空中で捕まえて咥えた。窓際まで移動して外に目をやると綺麗な夕焼け。グラウンドから心地よい打撃音が届く。視界を白い何かが横切った。大きな掛け声があがる。夕焼けの大空へ突き抜けるように飛んでいくフライ。何故かあの曲を連想した。なぁ次の曲は知ってるか?そう思ったらユウナミが聞いてきた。
「あの曲もそうじゃないのか?」
リクエストに答えて演奏を再開する。私が弾いてユウナミが歌いはじめる。有名な一曲。合唱曲として広まり誰でも知っている。作曲は村井邦彦。作詞は山上路夫。
辛くても苦しくても何だっていいから。
誰か私とコイツに翼をください。
二番目の歌詞は聞こえなかった。ユウナミが泣きだして歌わなかったから。ユウナミのせいで私ももらい泣きだ。泣き虫だけど、他人のために泣くことができるなんて優しい奴。
「生きろよ」
耳がくすぐったくなるような声。
「煙草もリスカもやめろよ。絶対似合わない」
私は頷く。何回も、何回も。でもそれだけではコイツに伝わらない。鍵盤の上で私の左手とユウナミの右手が並んでいたから、小指を絡めた。ユウナミがこっちを向く。
今日一日でたくさんの元気をユウナミがくれた。泣いているコイツの頬に右手を添える。言いたいけど言えない言葉の代わりに黙って唇を重ねた。
「……苦い」
その言葉はムカつくけど、無敵の笑顔に免じて許してやる。
立ち上がって振りかぶる。カッターも煙草もライターも、全部まとめてごみ箱行きだ。
投稿するにあたって読み返しました。
今よりも更に下手くそだなぁ・・・