ちいさな犯罪者、転田ころん
転田ころんは小学校五年生、犯罪者である。
けっして捕まらない犯罪者!
けっしてニュースにならない犯罪者!
つまりはいまだ何も罪を犯していないのである。
「ころんねー、おおきくなったら犯罪者になるんだよー」
それが彼女の口癖であった。
冬の凍りついた山中湖へみんなで行った時も、雄大な自然をバックに、両手をおおきく広げて彼女は豪語した。
視線はみんなに向けながら、じつは意識しているのは一点だけであった。
諫山陽斗くんが自分を見てくれている──それだけで天国にも昇る気分であった。
「きゃ……っ!」
雪の大地に足を滑らせコケそうになった女子を、諫山くんは素早く支えた。彼の腕に抱きつくようにして、その女子がお礼を言う。
「あ……、ありがと……。諫山くん」
諫山くんは優しい目をして、その女の子に言った。
「気をつけないとダメだよ、椎名は体弱いんだから」
にっこり微笑む諫山くんと、顔を赤らめる椎名さんを、少し遠くから鬼のような形相で眺める転田ころん。彼女は誰にも聞こえない声で呟いた。
「犯罪者になったる……!」
「ねーねー!」
ころんは凍りついた湖面をつま先でちょんちょんしながら、みんなに言った。
「めっちゃ固く凍りついてるよー、これ。上を歩いてって、ワカサギ釣りとかできそうー」
「あぶないよー」
「大人がいないところでそんなのしないほうがいいよー」
みんなが反対するのも構わず、ころんは続けて言う。
「椎名さんならさー、できると思う。体細くて軽そうだからさー。やってみてよ?」
「えー……?」
もじもじしながら椎名さんが声を漏らす。
「怖いよ……。やるなら言い出しっぺのころんちゃんがやりなよ」
ころんはサクサクと雪の上に長靴の音を立てて椎名に近づくと、その耳元で囁いた。
「椎名なら体重軽いからできるってー。みんなの注目の的になれるしー、諫山くんにかっこいいとこ見せられるよ?」
椎名さんは大人しく引っ込み思案だが、じつはその反面、目立ちたがり屋で自分が世界の中心になりたい性格だということを、ころんは知っていた。
椎名さんは鼻から息を強く吐きながら、言った。
「やる!」
椎名さんがそろりそろりと湖面に足を踏み出した。
ころんは確信していた、氷は割れる──と。
さっきつま先でちょんちょんした時に、しっかりヒビを入れておいた。
「きしし……」
人生最初の犯罪が行われることを予見し、ころんは歯の隙間から笑い声を漏らした。
氷がビキッと音を立てた。
「きゃ……!」
椎名さんの足が、湖の中へ引きずりこまれそうになったその時──
「危ないっ!」
諫山くんがその腕を掴み、岸へと引き戻した。
「あ……、ありがとう……」
いい雰囲気になってしまった二人を眺めながら、ころんは歯ぎしりをするしかなかった。
☆ ☆ ☆
ころんが給食当番の日、メニューはカレーだった。
給食のおばちゃんによって、おおきな寸胴鍋が教室に運ばれてきた。クラスのみんなが手に器を持ってその前に並ぶ。三角巾とマスク、エプロンを着けた給食当番が器にカレーをよそう。
順番の来た生徒に、ころんは次々とカレーを器によそった。
おおきなオタマに1杯ずつ、均等にカレーを入れた。器に6分目ぐらい入ったそれを持ち、みんなが席へ帰って行く。
諫山くんの番が来た。
ころんはマスクの下でにっこりと笑うと、彼の器に1杯半のカレーをよそった。器をほぼ満たすほどになった。
諫山くんが思わず口にする。
「おいおい……。多くない? こぼれちゃうよ」
「いいのよ。これ、ころんの気持ちだから」
そう言って、しっとりとしたウィンクをするころん。
椎名さんがやって来た。
手に持った器に、ころんはオタマ三分の一のカレーを無造作に投げ入れた。
器の底にちょびっとだけのそれを見て、椎名さんは泣きそうになった。しかし何も言わず、しょんぼりしながら自分の席に帰って行った。
「きしし……」
ころんは誰にも聞こえない声で、呟いた。
「あんだが悪いのよ。諫山くんに優しくなんてされるから……」
「椎名、なんでそんなに少ないんだ?」
諫山くんが心配そうに彼女の器を覗き込む。
「食欲がないから? ……いや、おまえ、いつでも食欲オバケだろ? 知ってるぞ? 痩せの大食いだって。俺の多すぎるから、分けてやるよ」
遠く離れた席で、諫山くんが椎名さんの器にスプーンで自分のカレーを分け与えているのを眺めながら、ころんは歯ぎしりするしかできなかった。
★ ★ ★
ころんは一人で下校した。
背負ったラベンダー色のランドセルをキシキシと音を立てて揺らしながら、怒るような足取りで舗道を歩いて行く。
「何よ……、何よ……!」
歩きながらひとりごとを喚いていた。
「あの子ばっかり諫山くんにチヤホヤされちゃって! ころんだって……! ころんだって……! ……あっ!?」
冬の舗道にはまだ凍りついているところがあった。
その上を怒った足取りで勢いよく踏み、ころんは派手にコケた。
仰向けに地面とキッスしながら、ころんは笑い出した。
「ははは……は。転田ころんがころんだ……」
涙が頬を濡らしていた。
「……なんでころんはコケる前に抱き起こしてもらえないんだよう……? 不公平だ……」
すると後ろから声がした。
「おい、大丈夫か?」
仰向けのまま、亀のような格好で振り向くと、諫山くんが自分を見下ろしていた。
ころんは涙の粒を目の下にくっつけたまま、抗議するように言った。
「……何見下ろしてんだよ。助けろよ」
「いや……。俺が見た時にはもう、どうしようもなかった」
「いいからさ、助けてよ」
諫山くんの手が、ころんの手を握った。
寒い冬の日、毛糸の手袋をしていたことを、ころんは悔やんだ。
溺れるひとを引っ張り上げるように諫山くんが起こすと、ころんはビシッと姿勢よく立ち、「ありがとう」も言わずに人さし指を突きつけた。
「捕まえられるものなら捕まえてみなさいよ!」
「……は?」
「ころんはね! おおきくなったら犯罪者になるんだから!」
「あぁ……」
ようやく意味がわかったようで、諫山くんが笑う。
「俺が刑事の息子だから?」
「世紀の大泥棒になってみせるんだから! 捕まえてみせなさいよねっ!」
「そうだな。俺は刑事になって、転田のこと、捕まえてみせるよ」
フフッと笑い合い、見つめ合い、ガシッと手を握り合った。
この二人がルパンと銭形……いやキャッツアイの女泥棒と刑事のような関係になるのは、これより10年以上後の話である。