2・卵とエマ
職場についてすぐ、エマは常時卵を持ち込む申請書を提出した。
他人の神器。しかも卵の持ち込みは前例がないので、許可が出るまでの審査時間が長引く可能性はあったが、エマが拍子抜けするぐらい簡単だった。
どうやら事前に、騎士団と神殿からも、申請がされていたらしい。
国教の守護神からの贈り物なので、神器が尊重されるのは知っていたけれど、異例に対しての対応が早くてエマはほっとした。
シエルの卵を預かっても、日常は変わらないし、仕事でやる作業もいつも通りである。
他人の神器を預かるのは責任が重くて震えそうになるが、上着の内側にある胸ポケットは心臓の上にあり、ほんわりと伝わってくる卵のぬくもりは心地よかった。
園芸師は、城の内部を飾る花々と、品種改良を試みる野菜、城勤めや騎士団の使う一般的な薬草を育てるのが仕事だ。
庭師のように貴族や王族と言った高貴な人々を楽しませる庭園には出ないが、専用の植物園の面積は広く管理する人員も多い。
外部から病原菌を持ち込まないためにも、出入りの際に着替えや消毒が義務付けられ、行動や移動も就業中は制限が多かった。
昼食に食堂へ移動するだけでも、着替えが必須なのだ。
エマはひざ丈まである上着とズボン。虫よけのヴェールのついた帽子をかぶる。
中からの視界は良くてもヴェールで顔は見えないし、男女兼用の作業服なので、背の高いエマは性別を良く勘違いされたが、特に気にした事はない。
ゆとりのあるしっかりした布地の上着はポケットも多く、卵を持つのに支障がなくて良かったとエマは思う。薄い侍女服だったら預かる事も出来なかっただろう。
女らしくないと評され、らしさ、というのがわからないままエマは生きている。
土や肥料にまみれて汚れながら動き回る力仕事と、城の侍女みたいなたおやかで可憐な女らしさを、両立させられるほどエマは器用ではないのだ。
もちろん不潔なのは嫌だし耐えられないので、泥まみれで汗まみれになる仕事だからこそ、身だしなみと清潔には気を付けている。だが「女らしいのは名前だけだな」なんてからかわれても「そうだね」と特に何も感じず返すのがエマだった。
変に愛嬌や可愛さを求められるより勘違いされた方が楽であったし、仕事がうまく回るならそれでいい。
そうやって生きてきて、周りもそういう人間だと受け入れてくれていた。
そのはずなのに、神器の卵を預かってからの周囲の変貌に、エマは戸惑った。
初日こそ誰も何も言わなかったが、一週間、二週間と時間が過ぎていくうちに、周りの目も変わってきた。
エマ自身の気持ちが移ろいだわけでもないのに、向けられる視線が今までと違ってくる。
それが行動の変化から来ていると頭ではわかっても、気持ちはついていかない。
今まで一人で行動することが多かったのに、週に何度もシエルと不特定多数が利用する食堂で話せば目立つ。
寮から職場への移動中に遠目でも相手に気が付けば軽く手を上げて挨拶するし、休日ともなれば図書館に神器や卵について調べに二人で出かけ、神殿で卵を手に祈るシエルへ付き添いもする。
それは予定が合う休日にしか自身の神器を手にすることができないシエルにとって必要不可欠な事だったが、年頃の異性二人が肩を寄せ合い相談しあうことは、他者からのからかいの対象になりやすい行動でもあった。
それに加えて、エマが食事時にシエルと頻繁に顔を合わせると、シエルと同じ所属の騎士たちとも顔見知りになる。
ほとんど変化しない卵のことを業務連絡的に伝えるだけで事足りるのに、なぜかシエルの同僚たちから雑談まで振られるようになりはじめ、いつの間にかエマは目立っていた。
シエルがいないときでも親しげに声をかけられ、今日は市内警備に出ているとか、短期討伐で王都に居ないとか、そんな個人情報まで教えられる。
周囲の見る目が急激に変化していくことに、戸惑うエマの気持ちを置き去りにして、すべてが進んでいく。
仕事内容も王城内の薬局への薬草配達から外され、騎士団直属の薬局への納品配達の唯一の専属員になった。
すべては神器のためであり、国としては当たり前の措置でもあったが、人間の心はそう簡単に割り切れる者ばかりではない。
当然ながら騎士団への配達は城勤めの未婚女性にとって人気のある仕事だったことから、侍女や女官からいらぬやっかみも受けるようになった。
幸い直接なにかをされることはなく陰口を言われる程度で済んでいるが、誘惑して回る悪女のような言い方をされることもあるから、エマ自身は反応の仕方に困る事もしばしばだった。
騎士は心技体のそろう選ばれ̪し者なので、王城勤めとはいえ園芸師とは格が違うのだ。
その騎士が他人に神器を預ける事も異例のことである。
そう理解はしていても、見知らぬ者に「たいしたことない」とか「こんなのを信頼したの?」と値踏みされてジロジロと観察されるのも内心では不快だった。
個人と個人の人付き合いの仕方は知っていても、不特定多数の勝手な噂の受け流し方がエマはわからない。
今まで「居るのか居ないのかわからないね」と笑われるぐらい、人との会話より薬草や花の世話に尽力していたので、卵ひとつで話題の中心になるのは怖かった。
記録にある限り卵が神器なのは初めてで、上層部の興味も一身に集めていた。
通常、授かった当事者以外の手に渡すどころか、触れさせることすらない。
異例尽くしなので、週に一度、定期的に魔導士や司祭との面談があり、それはシエルと一緒に出向いて詳細の記録を取っていた。
神器の持ち主の様子を卵の中身に教えるためだと、訓練や鍛錬の様子までちょくちょく見学させられて、戦闘に縁のなかったエマは大いに戸惑った。
表情が乏しいので動じないと勘違いされやすいエマだが、実のところ、通りすがりの他人であっても、大声や喧嘩すら苦手なのだ。
それが、剣と剣、拳と拳がぶつかりあい、血と汗と泥まみれになる戦闘訓練の見学である。
見ているだけなのに、顔色が白くなる。
団長とか副団長といった渋みのあるダンディなオジサマたちから解説を受けつつ、卵を預かってからの数か月にわたり何度見学していたが、少しも慣れない。
集団の訓練は苛烈で、いたるところで無数の怒号が飛び、断続的にぶつかる鋼から火花散る剣戟の激しさに身を震わせる。
神経が太く動じない質だとエマ自身は思い込んでいたが、まったくの勘違いだったと冷たくなる手を握り締める。
訓練場に満ちたピリリと刺すような緊張感や、剣や鎧がぶつかる重い金属を用いた実践を想定した訓練に、血の気が引く思いがして、平静を装っても内心では怯えていた。
「そんなに強く握りしめたら、手のひらが傷つく」
そう言って横から手を伸ばした騎士団長に、握りしめた拳をひらかれてエマは深い息を吐き出した。
食い込んだ爪あとに、薄く血がにじんでいる。
固く緊張した面持ちを見て、団長はやわらかく笑った。
「君もシエルも非常に真面目で勤勉だ。それは美点だが、視野は狭くなるね」
顔を上げたエマと目が合うと、ゆったりと語りだす。
「神器というのはね、祈りと希望でできあがる。与えられた形が何であれ、持ち主に最もふさわしい能力を開花させる。彼を見て、彼の生き方にふさわしいのが何か、見極めてごらん。知ろうとする努力は無駄ではないが、枠にはめるのはいただけない」
そう言われて、エマはドキリとした。
確かに卵から何が生まれるかを想像しながら、シエルと話し合っていた。
色は違うがサイズや形が鶏卵に似ているから、卵の中から生まれるのは小さなヒヨコで、戦闘にはまったくもって役立たない姿しか浮かばなかった。
他人に話したりしないが、いずれ鶏かそれに似たなにかに育つと、二人して思い込んでいたのだ。
「思い違いをしてはいけないよ。きみたちは常識に惑わされている。違うのだよ、どれほど小さくあろうと神の力を宿した卵だ。握りこぶしにも満たないその中から現れるのが、美貌の妖精でも、翼ある天馬でも、人知を超えたドラゴンでも、伝説の英雄たちの一個大隊でも、おかしくはないのだから」
そう言った団長に「とりあえず、ふたりして鶏だと思い込むのは辞めなさい」と声を上げて笑われてしまい、否定できないエマは顔から火が噴き出そうなほど赤くなる。
食堂での気軽な妄想が、上層部の共通認識となっている事に気づいてしまった。
シエルは鷹揚な質なのか「こいつ、鶏のくせに寝坊助みたいだな」と何ヶ月も変化がなくても笑っていたが、エマは早くヒヨコにならないと春の魔物発生シーズンまでに成鳥に育たない。などと焦っていたので、団長に見透かされていたことも気恥ずかしかった。
この後、騎士団長からの助言を後でシエルに伝えたら、とても残念そうに「そうか、鶏じゃないのか」とつぶやくので、エマは思わず笑ってしまったのも良い思い出になった。
けれど、鶏ではない姿はやっぱり思い浮かばないから、ふたりして頭をひねる事になるのだった。