2.日常の一幕
注射針を通して血液を抜かれる。
好き嫌いは兎も角として、病院では検査の為に必要な工程だ。
最も、この冷たく燻んだような白を基調とした場所では患者のためなんて綺麗な思想が故の行為ではないが。
チクりとした微かな痛みの後に、シリンジのガラス部位に赤が溜まって行く。
毎日の事でもはや慣れてしまったことであるが、これから一日が始まる感じがして痛みや血を抜かれるというその事実事態とは違う意味で少年は未だ慣れなかった。
小さな試験管らしきもの4本分取り切ると、試験管立てに並べてその内2本に何らかの試薬を垂らすと、鮮やかな緑と深い青色にそれぞれ呈色した。そして残りの2本には蓋を付け、次に小太りの男は綺麗に並べた様々な器具に手を伸ばす。
いつもと違わず総じて同じ手順。
この男が特別几帳面な訳ではなく白衣を着ている連中は全員そうだった。
後ろにもいくつか機械のようなものがあるが、その機械を使用する前に
「じゃあ、行っていいぞ!」
そう小太りの男に言われると、いつも通り次の工程に進む。始めは付き添いが居たが、今では少年1人での移動だ。
次の工程が一番嫌いな少年は、冷たい白の地面を裸足で重く踏み締め、なんとか憂鬱さの心情をため息とともに漏らさないようにして進む。
そうして、少年がたどり着いたのは先程より大きな場所で、周りの壁が白いのはそのままだが、足場は硬い砂地のみたいな、まるで前世で言う高等学校の運動場か何かのような場所だった。
事実、運動場のような場所には少年の他に先客が2人。
「よう、落ちこぼれ!お前まだ生きてたんだな」
話かけて来たのは、此方も先程採血された697番と呼ばれる少年と同様に白髪で、生意気そうな表情をした瞳孔が獣のように細くその周りが深紅の瞳をした少年だった。
年上であるせいか背が大きく、紫と紅のオッドアイの瞳を持つ697番と違い両目が紅いことを除けば、同じような造形の顔を持つ子供だった。
「揃ったな、それでは双方!いつも通り殺しは無しで潰し合え、始め!!」
子供とともに697番を待っていた大人の長身で痩躯な男がそう言うとすぐに暴力の時間が訪れる。
即座に相手の少年が見た目に合わない高速での接近をして拳を繰り出した。それは地球上の人間が出せるような威力を明らかに超えており、風が軋むような音がした。697番はギリギリで避け、さらに直ちにその場から離れるように駆け出す。
本来なら当たり前のその逃避行動だが、それに少年は不満だったらしく、
「ちッ、また逃げかよ。おい、オッさん!」
そう697番に躊躇なく襲い掛かった少年が言うと、
「うむ、仕方あるまい。命令する!697番よ、逃げずに戦え!」
そんなトチ狂ったことを男が言うと、697番は立ち止まりぎこちない動作で襲い掛かった少年の方を向く。
それは渋々といった風態で、その上抵抗するように体は後ろに重心を傾けて立っている。
それもそのはず、少年は勿論実質的な正面戦闘は避けたかった。当たり前のように勝てる訳が無いと分かっていたから。
しかしそれでも相手に向き直ったのは、男を信じた訳でも、希望を見出したからでもなく身体が勝手に動いた、否、身体を勝手に動かされたからである。
少年にとって最悪な呪いによって舞台は整う、それはすなわち一方的な暴力の時間だ。
「いつもいつも逃げやがって、大人しく殴られてれば良いものを!」
背の大きい方の子供が、少し背の小さな子供に向かって殴る蹴るの暴行。
しかもそれは、決して子供同士のけんかで処理出来る程度のものではなく、背の高い少年の一撃一撃は、たとえ日本で最高の格闘家であろうと、当たればその当たりどころに関係なく、問答無用で即死するような、そんな威力の拳と豪脚である。
そんな暴力を、この中で一番矮小に見える子供は、なんと数撃躱すという奇跡のような行動をして見せた。
しかし、それはただの奇跡に過ぎない。
躱せなくなった拳をその小さな腕で防御した瞬間。
ゴッ!という凡そ人から発せられる音ではない濁り音を奏でながら、小さな童は吹き飛ばされる。
そこまで広く無い部屋の硬すぎる燻んだ白色にぶつかり、その衝撃により腹から空気を吐き出しながら、身動きの取れないままに自然法則に従って少年は地面へと転がり落ちる。
だが、ここで終わりなんかではない。
未だ動けない少年の方へ、こんな児童虐待を施したこれまた子供が、近づいて来る。
小さな子供に近づいて来た背の少し高い少年は、そのまま倒れ込む697番の上に馬乗りになった。
後はもう喧嘩ですらなく、遊びであった。
少なくとも、背の高い少年にとっては。
しばらくただ濁った音が鳴り響くだけだった状況が続いたが、もはや骨ではなく肉を捏ねるような音しかしなくなった時、ようやっと大人が動きだす。
「はあ、そこまで!」
仕方ないといった風態で、男がその蹂躙に止めを差す。
「チっ」
殴っていた子供も仕方ないといった風で不機嫌に立ち上がる。
そして、まるでいつもの事であるかのように出口に歩いて行く。
「ポーションは要るか?」
「いらねぇよ」
そんな言葉を交わるすのを最後に少年は部屋から出て行ってしまった。
これで、後に残るのは殴られる続けて動けない少年と蹂躙を観察するように眺めていただけの男だけになった。
男は白衣の胸ポケットからコルク栓の付いた試験管を取り出し、シュポっと音を鳴らしてそれを開けると、少年に振りかける。
大気中でキラキラとして拡散しながら少年を覆うように降りかかった暗い赤灯色のようなどこか不気味な液体だったそれは奇跡を起こす。
なんと、少年のぐちゃぐちゃになり顔面の様相を失っていたそんな顔が作り変えられるように元の状態に戻って行く。
しかし、そんな奇跡的な光景である筈なのにどこか痛ましいのは、肉体が鼓動するように蠢きながら戻って行く様のせいだろうか?
それとも、そんな奇跡を享受している筈の少年の表情が、決して安らぎの表情などではなく、明らかな苦痛に歪ませながら、全身より滝のように汗を流しているからであろうか。
「うーむ…回復はしているが、身体中の水分の損失と苦痛を感じている様子。まだまだ情報が足りんな〜。一応悪性の副作用はそこまでない筈であるが…サンプルがまだ足りないか……。」
少年の唯ならぬ様相はなんのその。男はひたすらに目の前の現象についてブツブツと独り言を言う。
それからしばらくして、少年が落ち着くよりも前に男の独り言が止んで、一通り満足したのか男は、
「1:9と4:6でもここまで差が生まれるのは想定の範囲内ではあるが、逃げ腰の性格と好戦的な性格は単純に親からの遺伝であるかはまだ解明出来ていない未知。15くらいまで潰し合わせて、他の個体も増やしてデータをより取らねばいけんな、697番よ。もう今日は十分だ。行って良いぞ。」
先程まで殴られていた子供に対し、ほぼ独り言のように酷なことを言い放ち、次へ行けと急かす。
そう言われた697番は、先ほどから感じる断続的なずきずきとした痛みにより、動かすのも億劫な身体に鞭を打ちながらもなんとか身体を動かして、歩いて行く。
その様を見た男は最後に、
「ふむ、動けと命令する手間が減ったのは成長か。対象実験の道具の道具の癖して私の時間を取る愚行が減ったのは良いことだな。」
確かにそう言った。