19.新たな宿舎
回復した脳へと直接訴えてくるような新鮮な空気、草木や土壌の香り。
夜という事もあるのか比較的過ごし易い気温と湿度。
虫が涼しげに鳴き、風が木々を揺らし木の葉が擦れ、人間を落ち着かせるような清音が辺りを満たしている。
冗談のような速さで流れていく景色と、走っている本人?が全く息切れどころか微かな呼吸音すら発していないように感じる。それに加え、締め付けられている気はしないというのに、何故か身体を動かせない状態にある種の気味悪さを感じながらも、危害を加えられていない以上は大人しくしておく。
それが、この十数年で697番が学んだこの世界で生きていく為のマナーだ。
(この世界の住人は、素の身体能力のみで数十メートルは跳べるのが普通なのか?)
獣の息遣いを辺りから感じるようになって来たそんな時、獣を避ける目的なのか木々を忍者のように移動する男をチラチラ見ながらそう697番は思っていた。
(この男、魔術を使用しているのか?それとも何らかの訓練を経る事で、体から発される音や匂いを消しているとかか?魔力の流れも気の流れも、まるでそこに居ないみたいな希薄さだ。この現象、一体どんな原理で創り出してるんだ?)
実験室での癖が抜けないまま男の能力を考察し続けていると、気がつけば男は徐々に減速を始め、それから数分が経つ頃には、建物の前に着いていた。
(どうやら、ここが新しい配置…いや、これは一時的な宿と考えた方が妥当か?)
見るからにボロボロで、夜だから当たり前かもしれないが、それでも無人であるのか奇妙な静けさを感じさせる建物へと、男は迷いなく入っていく。
入り口から軋んだ音をさせる廃墟のような建物は、埃を部屋の隅に堆積させ、剥がれた壁からは隙間風がさも当然かの如く入ってくる。
間違いなくある程度の金銭を持つ現代人ならば棲みつかないような居心地最悪と見てとれるそんな小さな館。
しかし、一部腐れ抜けてしまっている床を踏み締めているにも関わらず、少年を抱えた男は軋むような音を一切鳴らさずに歩く。
まるで、体重そのものがないかのように軽やかに。
奥の方にある、かつてはキッチンだったらしき面影を匂わせる部屋の更に奥の方。
分かりづらい部屋の隅まで移動した男は床に手を翳す。
(この床、魔術具か!)
淡く抑えられた魔力の燐光が辺りを照らしながら、魔術具は機能を果たす。
床に先程までなかった切れ目を生じさせ、そこから迫り上がって道を開き、地下へと続く秘密の階段を2人の訪問者へと示した。
完全に扉が開ききると、男は現れた階段を降る。それから暫くすると扉は男が何かする訳でもなく自動で閉じて行き、その存在を他者から隠す頑丈な堰へと静かに戻った。
(カウント式で扉を戻した?いや、隠す術式は初見だからセンサー方式で魔力とかを感知している可能性も…いや、この男から魔力はおろか気配すら感じさせなかったからカウント方式を利用した扉の可能性の方が高いか。材質は金属のようなもの。恐らく横の金属を立たせるように動かして扉を縦に開かせてる。機構は比較的簡単な部類だが、魔力はどのくらい利用してる?魔力を辿り辛かったから分からないが、感じ取れた範囲のみの使用なら最適化を極めたような魔力効率だ。もしそうだとしたら、さぞ美しい術式が扉を構成する各所に刻まれているはずだ。もしここで魔術具を作らされるなら、実験室とはまた違った学びが多そうだが……果たして何をやらされるんだろうか?)
魔力感知ジャミングのような機能を持った、魔術具と思しき物から発せられる幾種類かのセンサーを通り抜け、最後に重そうな両開きの扉の前で少年を抱えている腕ではないもう片方の腕を扉横の出っ張り端末のようなものに手を翳すと、何度目か分からないセンサーが男の掌を検知して、やがてチェックが完了したためかゆっくりと扉を開いて行く。
(明かりはあるが、足元の照明のみか?これまた今までとは違った雰囲気だな。)
両開きの扉が開いた先に697番が見たのは、白衣達が居た施設の廊下のように燻んだ白色、ではなく黒や焦げ茶色に近しい色が上下左右に奥へと伸びており、足元には魔術具の仄かな灯りだけがぼんやりと周囲を照らす空間だった。
(1,2……9,10,じゅういt…大体10秒といった所か。)
扉が閉まるまでの時間を体内時計でざっくりと測り、取り敢えず信用性の低い一つのデータではあるが取る事が出来て満足した697番と、ここまで無言どころか息遣いすらもあれ程の距離を、少年とは言え人一人腕に抱えながら走り飛び回ったとは思えない程感じさせない異常な男は、大部屋までやって来た。
広場には、こちらに焦点が合っているのか分からない視線を送る数人の柄の悪い男達、目付きの悪い青年、怪しげに微笑む若い女、顔を上げない獣人など、年齢層は若め、全員が部屋の隅に座っているという点だけは共通する面々が座っており、部屋の側面には扉が一つ付いており、扉は今697番が通って来た道の向かい側にも付いていて、この部屋には計2つある。
男はそこを素通りし、道を真っ直ぐ進んだ所にある方の扉横にある出っ張りに手を翳し、先程までと同様に扉をまた一枚開ける。
その際含めて、こちらに視線こそ向けるものの誰も何か言葉を発する気配が一切ない事が、その部屋の不気味さを際立たせていた。
そして、扉が開かれてさらに奥の部屋も大部屋で、先程よりも大きな空間が広がっていた。
だが、そこに居たのは大人ではなかった。
小学生程度に見える年齢の者達が多く、身体が大きい者では中学生程度に見える年齢層もいるし、最年少は幼児とも言える程に幼い存在が居る。
そして、彼らは既に通って来た先程の部屋と同様、種族的統一感はなく多種族が一つの部屋に集められているようだった。
この部屋に来て漸く、697番を男は降ろして向き直った。
「命令する。依頼を達成をしたら必ずここに戻って来い。任務放棄は認めない。敵に捕縛された場合、或いは致命傷を負って拠点に戻って来れなくなったと判断した場合、速やかに自害しろ。また、意図的な虚偽の報告によって、組織に害を成そうとする事を禁ずる。」
男から暗いナニかが発されて、言葉と共に自身が縛られて行く感覚を697番は覚えた。
これに関しては、引き継ぎがあったのか白衣の男達と同じだった。