二十夜 人質竹千代の運命
〔天文十七年 (一五四八年)夏四月四日〕
優しく揺られて目を覚ます。
昨日は蜂対策で一日を潰し、城に戻ってから雑務を片付けたので寝るのが遅くなった。
「魯坊丸様、起きてください」
何度か揺らされて頭が覚醒し、その声の主を追った。
こういう優しい起こし方をするのは紅葉だ。
楓は耳元で大きな声を出す。
さくらに至っては「起きてください」という声と同時に布団を剥ぎとられる。
楓は心臓に悪いし、さくらは体のあちこちが痛い朝になる。
紅葉が一番だ。
「紅葉、おはよう」
「おはようございます」
「まだ、眠いからもう一眠り」
「だ、駄目ですよ。ち、千代女様が体操にくる前に起きてください。私が叱られます」
慌てる素振りを見て、心を癒やす。
深呼吸をして起き上がると、着替えをお願いした。
控えの女中と一緒に手早く着替えさせてもらうと廊下に出て空を見上げた。
少し曇っている感じだ。
「おはようございます」
「千代女、おはよう」
「今日は曇っているが、どんな感じだ?」
「西北からの風が湿っている気がしますので、昼ごろから雨になるような気がします」
千代女天気予報がよく当たり、一刻(二時間)前ならほぼ百パーセントだ。
定季らの予測もよく当たり、下手な天気予報より的確なのではないかと思うくらいだ。
皆、自然と雲を読む癖があるようだ。
「ならば、予定は変更だ。金山と数珠屋をまわってから熱田神宮に行くつもりだったが、神宮に直接行こう。金山には使者を送り、急ぎでないなら相談は次回に延期だ。数珠屋には千秋家に来るように伝えてくれ」
「畏まりました。楓、すぐに伝令を走らせろ」
「私の方が速いので行ってきます」
「そうか、頼む」
千代女が許可を出した瞬間に、楓はつむじ風のようにその場から消え、一足で居館から本館まで移動した。
瞬動、中国拳法でいう『絶招歩法』という足運びであり、一瞬で間合いを0(ゼロ)にする絶技だ。
だから、俺の目には消えたように見え、次の瞬間には一町(百メートル)は離れている本館の角まで瞬間移動したように感じるのだ。
実際は、百メートルを十一秒くらいは掛けている筈なのだが、何度見ても不思議だ。
消えてゆく楓をじと~っとした目でさくらと紅葉が見ており、「逃げたな」という顔をしている。
さぁ、朝のラジオ体操第一、十回。
それが終わると、護衛が二人に減った場合の訓練だ。
慣れてきたけど怖い。
朝の稽古が終わる頃には、侍女長がいつでも出発できる用意を終えており、朝食を食べていると、定季が急ぎの案件のみ相談にきた。
河川改修も定季に丸投げだから、中根の指揮と仕事量が二倍になっている。
昨日は村人と一緒に活躍してくれた黒鍬衆だが、今日から三日間は地獄のマラソンに出発しているらしい。
昨日の活躍で自信を付けた新人十人が黒鍬衆の洗礼を受けるのだろう。
心が折れずに生き残ってくれ。
俺は軽く祈ってから中根南城を出発した。
中根南城を出発する頃には朝日が差していたが、熱田神宮に到着する頃には黒い雲が空に掛かり、いよいよ雨が降りそうな気がしていた。
数珠屋の主人がすぐに尋ねてきたので、俺は熱田商人の手足になって、牛屋(大垣)周辺の白石(石灰)の生産量を調べられる伊賀者がいないか尋ねた。
「情報を探るのでしたら、知多の千賀衆が得意としております。千賀衆に声を掛けさせて頂きましょう」
「また、召し抱える方がよいか?」
「知多千賀衆は須佐城周辺に土地を持っておりますので、召し抱えられることは望まないと思います」
「そうか。では、銭で雇う方を望むのだな」
「いいえ。知多千賀衆の長は、一族ごと魯坊丸様にお仕えしたいようです」
はぁ?
数珠屋の言っている意味がわからなかった。
「そんなに難しい話ではありません。知多千賀の須佐城は知多の南端近くにあります。幡豆崎城の近くで蜜柑の木やサトウキビの苗を植えていることを知っております」
「つまり、一枚噛ませろということか」
「その通りでございます。但し、知多千賀衆のみが独占すると、隣の岡部城主である佐治-為縄様との関係が悪くなります。また、佐治家のみを優遇すると、河和城の戸田様。布土城の水野-忠分様が不快になられるので、双方にも声を掛けたいと申しております」
鴨が葱を背負ってやって来た。
俺はこれから知多南部でどうやって作地を広げようかと悩んでいた。
幡豆崎城は熱田神宮の社領であり、東海にでる舟が停泊する港であったが、それに付随する領地が少なかった。
蜜柑、サトウキビの他に、梅、はっさく、いちじくなども増やしたいと思っていたが、土地が少ない。
栽培を増産するには周辺の領主の協力が必須であり、それを考えて荒尾空善の荒尾家を抱えることにした。
どう空善に話をもってゆくか悩んでいたが、これで解決だ。
知多千賀家が願ってきたが周辺の情勢を考えると、知多千賀家だけを優遇する訳にいかない。
そこで岡部城主の佐治為縄、河和城の戸田殿、布土城の水野忠分にも話をもってゆきたいので手伝ってほしいと空善に願おう。
空善も地頭として大きな顔ができる。
知多千賀家に頼まれたことを強調すれば、空善も動き易くなる。
巧く動けば、南部の水野家を取り込める。
昼過ぎに那古野から戻ってきた千秋季忠が挨拶にきた。
夕方の熱田会合の話かと思えば、竹千代の話だった。
織田家に寝返れば竹千代の命は助けると親父は岡崎に使者を送ったが、岡崎衆はそれを断った。
人質を出した家が寝返れば、預かっている人質は殺される。
末森の評定で『竹千代の切腹』が決まった。
武家らしく潔く散らせる。
織田弾正忠家が考えた竹千代への配慮であり、熱田明神への祈りは届かなかったようだ。
昨日、千秋季忠が熱田羽城より那古野の天王坊へ送り届けたところで竹千代は倒れた。
医者を手配すると、高熱でうなされ、赤い斑点が浮かび、水ぶくれが各所にあったので『疱瘡』と診断された。
悪霊の類いが暴れていると考え、天王坊が封鎖された。
千秋季忠は『家庭の医学』に沿って、冷たい水を与えず、口に含ませるだけに留める。汗を定期的に拭き、体を冷やさない。魚・肉・生野菜を避け、少しの海藻と塩を加えた粥や重湯を与えるように指示を与えて帰ってきたという。
世話をしているのは、女中として付いてきた乳母らしい。
子供が疱瘡にかかれば、三人に二人は死亡するらしい。
竹千代は助からないと考えたのか、末森から竹千代の切腹は中止になったと連絡が入った。
「竹千代の命運は熱田明神様の御心のままです」
千秋季忠が俺を見てそう言った。
俺は関係ありませんから。