八夜 魯坊丸、教祖様なんてごめんだよ
〔天文十五年 (一五四六年)冬十一月十七日、二度目の卯の日〕(新暦なら十二月二十二日)
寒い。寒い。寒い。マジで寒い。
髪が凍る。肺が痛い。何だ、この寒さは?
俺は日も明けぬ早朝から起こされると着物を何重にも重ねられて、母上に抱かれて城を出た。
小雪が舞い散る滅茶苦茶に寒い日だった。
俺の記憶が正しければ、一度目は生まれて間もない頃に熱田神宮を参っているので、これが二度目のお出かけとなる。
あの頃はまだ耳が上手に聞き取れない時期だった。
だから、千秋季光が何を喚いていたのかは知らないのだが、きっと禄でもない事だろう。
さて、辺りは真っ暗であり、山も白くならない道を松明の火を頼りに進んだ。
母上はこの寒さに尻込みすることもなく、ウキウキ顔で俺を抱いて籠に乗っていた。
そう、今日は新嘗祭の日だ。
新嘗祭は秋の新穀を神様に捧げ、豊作を神様に感謝する行事である。
神官が新穀を届け、神に祈りを捧げる。
城主は熱田神宮に招かれて、神事を見た後に今年採れた新米をはじめて口にする。
遙か大昔から続く霊験灼かな儀式だ。
母上はこういう行事に憧れていた。
しかし、女の身で参加するには舞姫にならないと入れず、舞姫を舞う家は決まっていた。
普通ならば叶わない夢なのだ。
だがしかし、母上は大喜家の一族であり、神官である長の五郎丸の口利きがあれば、舞姫の家に養女になれた。
しかも母上は楊貴妃の生まれ代わりと噂される絶世の美女と噂されており、その艶やかな舞いにも定評があり、向こうの家から招き入れたいという話もあったそうだ。
楊貴妃と言えば、『国を滅ぼした美女』と思われがちだが熱田では意味が違う。
かの国が倭国を攻めようと企むと、熱田の女神は楊貴妃に化けて、かの国の王を騙して国を滅ぼし、倭国を救ったという逸話がある。
倭国を守った女神の化身という意味になり、楊貴妃と讃えられるのは誉れであった。
だが、そんな美女がいるという噂は絶好調だった親父 (織田信秀)の耳に入った。
親父は女好きで有名であり、一晩に何人の女を巡れるかを家臣の林-秀貞と競ったとか?
兎に角、親父の耳に入ってしまった。
そして、見にきた親父の目に止まり、母上は親父の愛妾にされた。
斎宮にしろ、巫女にしろ、汚れのない処女である事が絶対条件だったから、母上が舞姫の巫女になるのは、もう叶わぬ夢となったのだ。
「魯坊丸のお陰に夢が叶いました」
「ばぶぶ」(どう致しまして)
「福がいないと何を言っているか判りませんね」
「ぶくぶ、ぶじぶぶぶ」(福なら後ろの籠に乗っております)
「福と言っているのかしら? どうでもいいわ。魯坊丸、貴方は良い子よ」
神事が見られると、母上はこのところずっと上機嫌だ。
どうして新嘗祭に参加することになったかと言えば、炭団の話と広まったからだ。
噂が広まると、これ見よがしに千秋季光は俺が考案したと喧伝し、「熱田明神の生まれ代わりである魯坊丸様を呼ばずにどうするのか」と声を高々に上げたらしい。
熱田神宮に到着すると、用意された席に座って神事を見る。
雪が降る中で式は行われた。
こういった儀式を引き継いでゆく意義を理解しているが、ただ座って見守るだけというのは退屈で仕方ない。
価値は理解するが、俺には向かない。
俺にとってはとにかく寒いだけの行事であり、その寒さで居眠りも出来ないので最悪だった。
式が終わると、新穀を食べ、そのまま宴会に突入だ。
俺はじっと母上に抱かれて上座に置かれた。
聞き耳を立てていると宴会の話は、やはり織田弾正忠家の戦話が多かった。
中でも三度目となる安城合戦の話で持ちきりだ。
天文十五年 (一五四六年)九月に岡崎城の松平-広忠が織田方酒井-忠尚の上野城を攻めたのが始まり、広忠の攻撃で城は陥落して、忠尚は再び松平家に帰順した。
勢いに乗った広忠は、そのまま安祥城を攻めたが逆撃されて敗退した。
「本多-忠豊が、広忠の身代わりにならなければ、広忠の首を取って西三河を統一できたのに、実に惜しい事をしましたな」
「まったくでございますが、来年は岡崎城を信秀様が落とすことでしょう」
「日の出の勢いとはこの事だ」
「美濃から土岐-頼芸様の使者がたびたび末森を訪れているとか」
「土岐-頼純様に美濃守護の座を奪われましたから、取り戻したい様子です」
「では、来年は美濃へ出陣ですかな?」
「土岐頼純様の下に斎藤-利政殿の娘が嫁いだそうですが、巧くいっていない様子だとか」
「では、また朝倉と共同で美濃を攻めることに?」
「そこが難しい所でしょうな」
親父は美濃の斎藤利政と駿河の今川義元を相手に戦っていた。
それで互角というのは凄いことだ。
季光は「織田家には熱田明神様の後光が差しております。負ける訳がない」と豪語して、皆を煽っていた。
俺の方を指差すな。
そして、ときおり母上に酒を注ぎに寄ってくる者もいた。
母上にさり気なく俺のことを聞いていた。
「魯坊丸様が炭団をお考えになられたとか。どのように考えられたのかお教え頂きませんか?」
俺を値踏みにきたのだろうが、俺はこれを待っていた。
季光のように俺を持ち上げる勢力が要れば、その逆もいる。
「ばぶ。ばぶぶぶぶばぶう」(○□※□△※)
「あの? 奥方、魯坊丸様は何とおっしゃっておられますのか?」
「さぁ~? 福、魯坊丸はなんと言っているのですか?」
「申し訳ございません。私にもわかりかねます」
福も俺の言葉を理解できない。
そりゃ、そうだ。
一歳で言葉を理解できるという季光の顔を立てて、話しているように適当に呟いているだけだ。
その言葉が理解できずに、客が目を白黒させている。
何度か、俺に話し掛け、俺も適当に呟き返す。
会話を理解しているように聞こえるが、何を言っているのか判らない。
母上も福も判らないという。
不思議に思った客が、こちらの思惑通りに質問をした。
「魯坊丸様が炭団を考えられたと聞きましたが、私の間違いでしたか?」
「いいえ。間違いではございません。魯坊丸様の為に皆が苦労して造ったものです。あっ、すみません。今の話はお忘れください」
「なるほど。確かに、魯坊丸様がお造りになったようですね。納得しました。よい家臣をお持ちのようだ」
勘のいい客で助かった。
季光の面子を潰さず、俺が炭団を造ったという噂を否定する為に福と一緒に知恵を出し合った。
家臣の手柄は主の手柄。
俺の家臣が炭団を造れば、俺が造ったと言っても嘘にならない。
政治に関わる、宗教家など禄でもない奴ばかりだ。
そんな奴に付き合う気などない。
だが、養父の上司だから顔を潰す訳にはいかない。
これが苦肉の策という奴だ。
この策が巧くいったのかはわからないが、俺は翌日に熱を出して寝込んだ。
寒い中に連れ出したのが悪かったのだ。
もちろん、一日で治ったけど・・・・・・・・・・・・だが、無理をさせて死んでしまっては意味がないとでも思ったのだろうか?
年末と正月に俺を招く予定が中止になった。
結果、オーライ。
俺は喜んだが、母上は落胆した。
魯坊丸日記 第八話 「教祖様なんてごめんだよ」の裏舞台
天文十五 (一五四六年)の織田弾正忠家の勢力は、尾張を統一し、東は安祥城、西は牛屋城(後の大垣城)まで勢力を伸ばしておりました。
西三河では、桜井松平家の松平-家次の叔父として後見人となって、安祥城に息子信広を入れております。
西美濃の牛屋城に織田播磨守を入れて、土岐頼芸の後ろ盾となっていました。
織田信秀が尾張を統一していたと聞くと大袈裟に聞こえますが、そんなに難しいことではありません。
室町時代から戦国時代は談合の時代であり、皆が集まって物事を決めます。
織田信秀が誰よりも公平な議長である限り、織田信秀に逆らうより従った方が得と考えるのです。
実際、織田信秀は朝廷や幕府、熱田神宮に献金をして忠義の家来を装っていました。
天文十五年(一五四六年)の天皇は、後奈良天皇です。
この後奈良天皇は非常に慈悲深く高潔な方であり、天文九年 (一五四〇年)に疾病終息を発願して自ら書いた『般若心経』の奥書に悲痛な自省を残しておいます。また、一条-房家は任官への熱意から雑掌当局(姉小路済子)を通じて銭一万疋(一千二百万円)を献上した。これは銭で官位を売れという行為であり、後奈良天皇を怒らせた。
実際、困窮を極めていた朝廷は喉から手がでるほど必要だったが、銭一万疋を後奈良天皇は返還させた。
紆余曲折あり、一条房家は在国のままで左近衛大将に異例の任官を果たすのだが、献金すれば思いの儘に官位が貰えないというエピソードである。
そんな後奈良天皇の御世で織田信秀で三河守の官位を貰っている。三河守は駿河の今川義元も狙っており、簡単に手に入るものではない。
忠義の臣を演じ、欲のない振りをして朝廷から官位を貰える時期に、こっそり心尽くしを公家に配ってさり気なく三河守を頂いたに違いない。
そういった政治工作は織田信秀の右腕であった平手-政秀の手腕と思えるが、今回はそのネタは後回しとする。
つまり、尾張の領主らが集まる席で頼れる議長を演じた織田信秀に皆が従った訳だ。
そんな尾張を実質支配していた織田信秀を頼り、西三河の桜井松平家と美濃守護の土岐頼芸が頼ってきて、西三河と西美濃に勢力を伸ばしたのが、天文十五年の頃であった。
織田信秀の絶頂期であった。
そんな時期に、魯坊丸(織田信照)は生まれた。