閑話(十六夜) 竹千代救出
〔天文十七年 (一五四八年)春三月十三日〕
草木も眠る丑三つ時。
神様、仏様、熱田明神様、私達を地獄の特訓から救ってくれてありがとうございます。
キレキレの千代女様は久しぶりです。
さくらはあの特訓が三日続けば生きていなかったでしょう。
魯坊丸様に感謝です。
「さくら、何を祈っているの。仕事中だよ」
「闇夜に姿を隠して見張るのが、こんな楽だとははじめて知ったと感動していたのです」
「確かにあの訓練が続くより楽だね」
「楓もそう思うでしょう」
「でも、実践でしくじったら地獄の特訓より厳しいお仕置きが待っているからね」
「しくじらなければいいのです」
「そう思えるさくらが羨ましいよ。私も魯坊丸様の護衛で残りたかった」
「足の速い楓を遊ばせる千代女様じゃありません」
「だよね」
戦闘力の低い紅葉は魯坊丸様の護衛に残されました。
昨日からこのさくららは羽城が見える小さな漁師小屋で出入りする者を見張っているのです。
羽城は熱田神宮の南に位置する城であり、三方が海に囲まれています。
周辺の屋敷や小屋も加藤家の家臣や兵がおり、我々が身を隠す小屋も加藤家の水軍の舟をとめる湊の一角に、加藤家に魚を献上する漁師がつかう小屋なのです。
当然、加藤家の者が警備しており、この湊にこっそりと舟を着けるのは不可能なのです。
「どうやら今日みたいだ」
楓がそう呟きます。
羽城の裏門の通用口が開き、子供の手を引いた女と小者が出てゆきます。
やはり湊に向かって来ず、東に向かいます。
追い掛けると、岩場に小さな小舟が着けられていました。
「あれです」
「乗ったな」
「乗りました。急いで千代女様の下に戻りましょう」
私らが漁師の湊まで戻ると、すでに千代女様を乗せた舟は出航していました。
我々と一緒に見張りをしていた伊賀者らが乗り込むと二艘目の小早も就航し、大急ぎで千代女様を追います。
漕ぎ手二十人が呼吸を合わせて櫂を漕ぎ、わずかな月明かりを頼りに船頭が目を凝らして先行する小早を追います。
普段は小太鼓持ちが太鼓で音頭を取るそうですが、それでは敵に察知されるので、太鼓の棒のみで音頭を合わせるのです。
この小早は船頭、太鼓、漕ぎ手の二十二人と兵十人を乗せることができるそうです。
凄い勢いで海の上を駆けると、ずっと先を行っていた千代女様の舟に追い付きました。
流石、海の男の力は凄いです。
舟を近づけてもらうと、櫂を斜めに垂らしてもらい、それを足場に隣の舟に乗り移りました。
「さくら、只今戻りました」
「楓、同じく戻りました」
「ご苦労。よくやってくれた」
おぉ、千代女様からお褒めの言葉をもらうのはいつぶりだろう。
さくらは頑張りました。
そして、上陸すれば敵をけちょんけちょんにしてやるのです。
「さくら、余り張り切るな。我々の仕事はほぼ終わった」
「えっ、終わったとは?」
「竹千代殿を乗せた舟は年魚市潟を東に進み、予定通りに笠寺七所神社の方へ向かっている」
「そこに敵がいるのですね」
「いるだろう。だが、粕畑の入り江には戸部の者が身を隠しており、竹千代殿を拉致しようとする不埒者を退治して捕獲する」
「我々の活躍の場は?」
「ない。後ろから竹千代殿を確保して、舟に乗せて帰還するだけだ」
「それだけなら、我々の必要性などないのではないでしょうか?」
「粕畑以外に向かった場合は我々だけで完遂する必要があった。私は見張りの実習になると思って引き受けただけだ」
なんということでしょう。
我々の活躍の場など、最初からなかったのです。
竹千代殿を乗せた舟が砂浜に到着すると、出迎えが近寄り、ほぼ同時に戸部の者が林から出て襲いかかりました。
我々は暗闇の中で舟を砂浜に寄せると、背後から竹千代殿を奪います。
拉致を手引きした夫人はそれを止めようとするのですが、連れの小者が夫人に一撃を加えて気絶させました。
ここにきて裏切りですか?
それにしては動きに無駄がなく、只者ではありません。
何者ですか?
そう思っていると、一緒に舟に乗った小者が顔をビリビリビリと破って、中からあの老人が出てきたのです。
完璧な変装に驚きです。
「陽炎殿でしたか?」
「あははは、言ったではありませんか。我々は手荒なことが得意な者が少ないのです。こんな老人が出張るほどに」
「勉強になりました」
「いやいや、千代女殿ほどの者がいるので大胆な策を打てたのです。これで戸部家を笠寺から引き剥がせました。三河で戦が起こっても笠寺の山口家は動けなくなりました」
「お見事な策でございます」
楓がいうには、笠寺の者が一丸となって今川方へ寝返らない為に、戸部家を使って楔を打ったというのです。
竹千代殿の拉致を逆手にとったとかいうのですが、どういうことでしょう。
さくらはたくさん活躍するつもりだったのに。
羽城の水軍の湊に戻ると、千秋季忠様が竹千代殿を出迎えました。
「織田は私を殺すのか?」
「まだ、わかりません。これで今川へ寝返るのを岡崎の広忠殿が諦めてくれれば、竹千代殿は織田家の来客として暮らしてゆけます」
「父上は竹千代の為に裏切らぬのか?」
「わかりません。ですが、これだけは覚えていてください。あの者らに付いてゆく竹千代殿の向かう先は岡崎ではなく、あの世でございます」
「あの世じゃと?」
「竹千代殿が織田家によって謀殺されれば、広忠殿は非道な織田家を批判して、弔い合戦と言って周辺の者へ鼓舞できます。堂々と今川方へ寝返って、竹千代殿を殺した恨みを織田家にぶつけてくるのです」
「父上は竹千代を殺す為に連れ出したのか?」
「織田領内から竹千代殿を連れ出すなど不可能です。現に連れ戻されたでしょう。広忠殿も連れ戻すなど無理と承知なのです」
「では、竹千代は」
「もし、竹千代殿が広忠殿の役に立ちたいなら、自害されるとよいでしょう。自害を止める術はありません」
「竹千代は痛いのは嫌だ」
「ならば、熱田明神様に祈りなさい。祈りが届けば、命も救われることもあるでしょう」
千秋季忠様が竹千代殿を連れて羽城へ消えました。
我々も中根南城に帰還です。
千代女様は明日からまた特訓だと言っています。
侍女部屋に入ると紅葉がいたので聞いてきたのです。
「さくら、仕事はどうだった?」
「何もやっていません。さくらは何をしに行ってのでしょうか?」
「私に聞かれてもわからないから魯坊丸様に聞いたら?」
「そうします」
魯坊丸様なら教えてくれるでしょう。