十三夜 廊下隅の読書会
〔天文十七年 (一五四八年)春三月六日〕
昨日、熱田から帰ってくると仕事が山積みになっていた。
そのほとんどは定季と忠貞義理兄上の採決済みであり、その決定に目を通すだけである。
認識の共有は大切だ。
二人は優秀だが、測量技術や構造計算や自然科学に対してまだまだ疎い。
中根は予定通りで問題なし、八事の貯め池の掘削と水路・水車小屋の進捗が遅れていた。
派遣した指揮を出せる者が少ないことが原因だ。
田植えが終われば、天白川に河原にローマンコンクリート製の土手造りだ。
信玄堤を参考したものであり、川が氾濫した場合を想定した流れを制約して流れを制する。
これは平針の加藤家、島田の牧家と共同作業となる。
そのあと、川に沿った掘った水路に水を引いて水車小屋を回す予定だ。
しかし、肝心の水車小屋ができないと、梅雨までに工事を急ぐ意味もない。
否、洪水を考えると水車小屋に関係なく終わらせよう。
そんなことを考えならが、材料の搬入計画をしっかり作るように命じた。
二人に指示を出しながら良勝らにも聞かせて一つ一つ教えてゆく。
いつか、俺がいなくともすべて任せる人材が育つといいな~というか、早く育ってくれ。
今日は昼の視察時間を削って終わらせた。
昼寝のあとは自由時間だ。
ヤッポー、ゴロゴロタイムだ。
何もせずに床の上をゴロゴロできる。
いつもは黒鍬者の勉強時間なのだが、俺が熱田に行く六日間は強化週間となる。
月に一度か、二度だ。
以前書かれた『家庭の医学書』には、「日々の訓練で持久力をつけておこう」と書いてある。
定季が「持久力とはどの程度でございますか」と聞いてきた。
「戦場まで十里(40km)を駆けて、すぐに戦えれば有利にことが運べないか?」
「なるほど。十里を駆けたあとでも戦える体ですか。わかりました」
兜鎧刀を含めて二十kg、荷物を加えて30kgで二十里(80km)を走れる体を作る。
定季の注釈で『家庭の医学書』にそう書き加えられた。
最初から30kgを背負うのは無理ということで、10kgの荷を背負って、中根から八事に連なる山々の一里半(6km)の山道を毎日5周する訓練が6日間続くらしい。
えっ、一日30kmの山道を6日間連続とか。
最終的には、30kgの荷物を背負わせ、一里の山道を十往復の80kmも完走させるとか、無茶なことを言っていた。
まぁ、五町(500m)おきに村で暇な娘らを配置して脱落者を保護しているから大丈夫だろうけどね。
因みに、帰ってきたら黒鍬者が五十人も増えた。
先日まで読み書き算盤ができる二十人の秀才揃いだったのだが、定季が「指揮官が育っても兵がいなければ意味がない」と言って、武闘会や投石会を開き、信用できる村人と河原者から五十人を選出した。
最終的に百人程まで増やすと言っている。
一人当たり五人の部下を持つことになり、指揮官としても育ててゆく気だ。
で、採用した翌日から地獄の山岳マラソンの洗礼だ。
秀才揃いだが、何度も山岳マラソンを経験した先輩の凄さを体感するだろう。
先輩の凄さを目の当たりにして、後輩が先輩のいうことを聞く。
定季はそういう芸が細かい。
勘違いされてはいけないからあえて言うけど、黒鍬者は専用の工具を与えられた者の称号であり、作業のときは作業員に鉄のスコップや鉄鍬を貸し出している。
監督に従って指示を出しているのが、主に黒鍬者だ。
そういう訳で、地獄の山岳マラソンの為に勉強会はなし。
俺は自由だ。
「魯坊丸様。お暇ならば、一緒に剣術の稽古をいたしませんか?」
「何故?」
「朝に運動をされていますが、刀を振っている姿をみておりません。不肖、このさくら。剣術の基本を教えるのが得意です。村の子供らにも教えておりました」
ヤル気に満ちたさくらがそういう。
俺はゴロゴロしたいんだ。
そう言っても引くようなさくらではない。
そうだ!
「さくら、重要なことを忘れていた。鉄の火入れから三日が過ぎた。そろそろ終わりになる筈だ。視察に行く必要があるか、状況を見てきてくれ。早急にだ」
「確かに」
「三日三晩と言っていたので、もうそろそろだ。急げ」
「畏まりました」
さくらは俺の言葉で飛び出した。
幼い頃は毎日のように山の頂上まで駆けて鍛えたとか言っている。
半里(2km)程度なら何分で戻ってくるのか?
十五分ということはないと思うが、帰ってくると面倒だ。
俺は本を持ち出すと廊下に出た。
本館から政務所の端を素通りして、休憩所と風呂場の横を抜けた。
風呂場の北側には、昔は倉庫があった。
その倉庫は蔵所の北側に倉庫を移動し、風呂を建設する時の荷を運ぶ搬出路となり、完成後は、政務所と家臣部屋を結ぶ連絡通路が建て直された。
倉庫へ繋がる通路が中途半端に途切れた。
連絡通路は外敵の侵入を想定して完全密閉型であり、廊下は潰すのも面倒なので放置された。
俺の秘密の隠れ家だ…………あっ。
「魯坊丸様。どうしてここに?」
「紅葉こそ、どうしてここに?」
「えっと、お昼から夕方まで暇をいただいたのですが、侍女部屋で本を読んでいると、用事を言い付けられそうなので…………その」
「ここに逃げてきたのか」
「はい」
「よく、見つけたな」
「その風呂に水汲みをするときに、ここを見つけました」
なるほど。
井戸は城の北側にあり、風呂と台所で使う水を外壁に沿ってぐるりと回って運ぶ。
蔵所と政務所の狭間になって誰からも見えないが、壁伝いの水を運ぶ者には丸見えだった。
朝に水を運ぶので、今の時間は誰も通らないけど。
「魯坊丸様はどうして、ここに?」
「さくらが剣術の稽古をしようと五月蠅いから逃げてきた」
「さくららしいです」
「俺はゴロゴロしたい。仕事など嫌いだ」
俺がそういうと紅葉が首をかしげた。
三歳児の割に働き過ぎな俺を見て、仕事嫌いに見えないのだろうな。
だが、仕事ができるのと、仕事好きは別だ。
「俺は働きたくない。だから、他の者を育てて楽をするつもりだ」
「働きたくないのに働くのですか?」
「のほほんとしていると、いつ殺されるかわからんからな。物騒な世の中だ」
「そうですね」
「安全を確保する為に人を雇った。雇った者を食わすために銭を稼いだ。すると、その銭を奪いにくる馬鹿を退治する為に皆を鍛えねばならなくなった。銭を稼ぐ為に酒を造りだしたら、帝がその酒を欲しいと言ってきて、今のようになってしまった。俺が望んだ訳じゃない」
紅葉が笑うのを堪えている。
他の子供でも同じようなことを考えるかもしれないが考えるだけで終わるが、俺はそれができてしまったからこんな事態となっている。
寒さから耐えられなくて自重を止めただけなのにね。
「紅葉はここに来て楽しいか?」
「はい。知らない本がたくさんあって楽しいです」
「そうか。それならよかった」
「魯坊丸様は楽しくないのですか?」
「俺はゴロゴロできれば楽しい。今はできていないので楽しくない。このままさくらに見つからなければ、少し楽しい」
ふふふ、紅葉が口を押さえて笑いを堪えた。
俺が本を開いて読書をはじめると、紅葉も本を読みはじめた。
集中すると時間はあっという間に過ぎてしまう。
渡り廊下から休憩を終えた女中らが台所に向かう足音が響いた。
どうやら休憩も終わりらしい。
「魯坊丸様、先に戻っておきます」
「俺はゆっくりと戻る」
紅葉が小走りに侍女部屋に戻っていった。
俺は休憩室を覗き、台所でおやつをもらってから部屋に戻った。
「魯坊丸様⁉ どこに行かれていたのですか。さくらは心配しておりました」
「厠だ」
「どこの厠ですか。本館・政務所・表屋敷の厠はすべて調べました。政務所の門番は魯坊丸様を見掛けていないと言っておりました。一体、どこに行かれていたのですか?」
「秘密だ」
「私らは魯坊丸様の護衛です。護衛が魯坊丸様の御前から離れるなどあり得ないのです」
「あっ、山への視察で離れるのはいいのか?」
「きょわ⁉」
「千代女に言ってやろうか?」
「お止め下さい。魯坊丸様の側を離れたことがバレてしまいます」
おぉ、丁度帰ってきた母上らが見えた。
千代女は母上からお供を命じられて、八事の領主夫人らとのお茶会に連れ出されたのだ。
千代女の後ろに楓がおり、どうやら楓は千代女のお供だったらしい。
さくらがそわそわして、俺の方を見た。
そして、目をウルウルとさせながら、さくらが手を合わせて「お願いします」の格好をとった。
言う訳ないだろう。
護衛もなしでウロウロしたと知れて困るのはさくらだけじゃない。
それにサボった訳でもない紅葉。
一緒にいただけで叱られる紅葉が可哀想だ