閑話(六夜) 冷やし水あめをのむ千代女
〔天文十七年 (一五四八年)春三月二日夜〕
私、岡本-定季が中根南城にきて、もうすぐ一年となる。
本物の天才とは織田-信秀様のような方と知ったことで、肩の力が抜けて正面から政務に励めるようになった。
その子の魯坊丸様も神童と噂されていたので、会うのを楽しむにしていた。
実際の魯坊丸様は神童などという言葉に嵌まらない天才であった。
だが、常識には疎く、無茶なことをされて命を落としかねない危うさがあった。
この一年は魯坊丸様に常識を教える為に費やした。
ヤルことが規格外で危うい場面も多くあったが、『出る杭は打たれるが、出過ぎた杭は打たれない』と誰かが言った気がする。
魯坊丸様だったか?
信長様に家督を継がせたいと考えるならば、才が豊かな者ならば従順な弟を演じねば命が危ない。
魯坊丸様はどう見ても従順から程遠い。
信秀様から処分される可能性が高かった。
今回の帝から受けた清酒の件も無茶を承知で引き受けられ、失敗すれば、魯坊丸様を処分されるつもりだったやも知れん。
信秀様に聞く訳にもいかんので真相はわからん。
だが、そんな課題ですら目が飛び出るような策で突き破り、信秀様も魯坊丸様の才能を惜しんで殺すことを止められた。
三千貫文は値踏みの手付け料だ。
これで魯坊丸様が織田弾正忠家の当主を目指すことも可能となった。
もっとも魯坊丸様はその気がない。
困ったモノだ。
私は魯坊丸様から硝石を分けてもらっており、毎晩の執務の際に水飴を水で薄め、それに氷を投じて冷やして飲む。
硝石に沈めた鉄の板の周りに水を注いでゆくと、鉄の板に入れた水がゆっくりと氷ってゆく。
魯坊丸様が言われる『吸熱反応』で硝石が周りの熱を奪うからだ。
何度見ても不思議な現象に心を躍らせる。
賄い方の者らは、『熱田明神様の神通力』だと考えて深く物事を考えない。
魯坊丸様を崇めても共に手を取る者はおらず孤独だ。
私が友人になるには年を取り過ぎている上に、魯坊丸様を止める役がいなくなるのでできない。
魯坊丸様は友人を探しておられるのかも知れんな。
氷ができると、壺の中の水飴水の中に落とした。
冷たい水飴水を毎日のように飲むとは、なんと贅沢なことだろう。
私は台所を出ると、政務所を横切って自室のある家臣部屋所に向かった。
私の部屋は裏庭が見える角の部屋を貰っており、城壁の向こうに長根荘やその背後の山々が見える良い立地で部屋を賜った。
部屋に入ろうとすると、裏庭で白いモノが光った。
月はまだ出ておらず、深淵の闇の中に星空の光を頼りに覗き込むと、幼い少女の幽霊が刀を振っているのが見えた。
「あぁ、昨日来た姫の千代女殿か」
幽霊の正体は千代女殿だった。
まるで舞を踊るように刀を振り回すので幽霊かと思った。
しばらく眺めていたが、終わる気配もない。
美しい舞だが、千代女殿の表情は暗く、何か振り払おうとされているようだ。
私は石棚の草履に足を通すと近づいていった。
「夜分、お騒がせしてすみません」
「私が見えていましたか」
「はい、もう終わりにいたします」
刀を振っても自分についた悪霊を振り払えない。
そんな感じだろうか。
私は持っていた茶碗に冷やし水あめを注いで千代女殿に差し出した。
千代女殿はそれを受け取って礼を言うと口につけられた。
「冷たい」
「驚きましたか」
「中根家では氷室を所持されているのですか?」
「あははは、ありません。氷は作ったものです」
「氷をつくる?」
「今朝も火薬の話をしていたでしょう。覚えていますか」
「はい」
「火薬の材料となる硝石に水を含ませると、急激に冷えて辺りのモノを凍らせるのです。それで氷を作ったのです」
「そんなことができるのですか?」
「魯坊丸様から教えていただきました」
「また、魯坊丸様ですか…………」
千代女殿は魯坊丸様の名を聞くと、さらに落ち込んでしまった。
昼から護衛で出掛けたようだが、何かあったようだ。
私は千代女殿の話を聞くことにした。
「宜しければ、胸のわだかまりを話してみませんか。話すだけでも楽になります」
「はい。実は…………」
千代女殿も神童とよく似た鬼姫と呼ばれる鬼才をもつ子であり、周りの子より優れていると自負して生きてきていた。
京の御殿などを守護する護衛などの役職につきたいと夢みていた。
しかし、現実は厳しく、信濃の本家から娘を嫁に欲しいと言われて、千代女殿は信濃に行くことが決まっていた。
それを覆したのは魯坊丸様だ。
その恩義を返す為に、魯坊丸様を厳しく鍛えようと張り切っていた。
「私は定季殿が魯坊丸様を支えていると勘違いしていたのです」
「支えております。魯坊丸様が行き過ぎないように止める役です」
「定季殿は止める役なのですね」
「千代女殿は守る役目があると思います。まだお若いのに私より腕が立つ。頼りにしております」
「私は護衛だけでは嫌なのです。私はあらゆることで魯坊丸様に恩義を返せると自負してやってまいりました。魯坊丸様を立派な武士に育てることが恩義を返すことになると思っていたのですが、私は役立たずでした。私は魯坊丸様の言っていることすら理解できないのです」
「なるほど。魯坊丸様のあらゆる面で役に立ちたいですか。そうなると確かに役立たずですな」
私の言葉に千代女殿がさらに落ち込んだ。
可愛らしいものだ。
だが、悔しさが溢れており、ヤル気があるのがよい。
「魯坊丸様が言っておられることを理解できる者は多くございません。私でも半分くらいです。このままでは魯坊丸様がヤリたいことは何一つとして叶わぬでしょう。だから、必死に理解できる者を増やそうとされているのです」
「定季殿がおられるのでは?」
「私一人でどうしろというのです。もっと増やさねばならんのです。千代女殿もまず魯坊丸様が言っていることを理解できるようになりませんか。まず、追い付く所から始まりませんか」
「どうすれば?」
「幸い、魯坊丸様が言ったことを書き残した侍女の本もあれば、私が清書した資料本もあります。質問すれば、魯坊丸様はいつでも答えてくれます。侍女部屋の奥に写本用の原本があります。まずは、それをすべて読み切ることからですな」
「それで役に立てますか?」
「魯坊丸様は心の奥底から自分の代わりを務められる者を探しておられます。千代女殿は目指す気はありませんか。魯坊丸様の隣に立つ者を」
「隣に立つ者…………ですが、それは定季殿では?」
「残念ながら、魯坊丸様が願っているものが実現するには、三十年から四十年は掛かりそうなのです。私が生きていられるか。息子の良勝を育てていますが、どうなることやら」
千代女殿の目に生気が戻ってきた。
「私、行ってきます」
「どこへ?」
「侍女部屋です。奥方様から蝋燭は自由に使ってよいと言われております。明日の支障があると行けませんので徹夜はできませんが、蝋燭二本分くらいは読む時間はありません」
「頑張ってください」
「定季殿、ありがとうございます」
「魯坊丸様を鍛えるのが、貴方の本分です。それをお忘れなきように」
「はい」
千代女殿は雷にようにその場から消えてしまった。
清書をする時間が随分と減ってしまった。
だが、悪くない。
魯坊丸様と共に歩く者が現れることが悪くない。
そう考えながら定季は部屋に戻った。