閑話(五十九夜) 織田信秀、信光に愚痴をいう
〔天文十七年 (一五四八年)春二月中旬〕
織田信秀は中根の視察を終えて末森の館に戻ってくると、部屋に信光が酒をもってやってきていた。何かを決める為に先触れを立ててやってくることもあれば、今日のように酒を酌み交わしたいときはお忍びでやってくることもある。
気儘な弟だ。
だが、有能過ぎるゆえに目の届く範囲においておかなければ危険でもある。
面白いの一言で何を仕出かすかわからん。
「どうだ。面白い餓鬼であったであろう」
面白い、どこが?
魯坊丸は奇妙で何を考えているかわからん不気味な餓鬼であった。
見た目は母親似で愛らしいが、口を開くと憎たらしい。
儂に睨まれても平気な顔をしておった。
あの頃の子供が儂に睨まれれば、萎縮して何も話せなくなるぞ。
ケロリとした顔で淡々と片言で喋っておった。
奇妙な奴は、信光一人で十分だ。
「鉄砲を見てきたか?」
「あぁ、織田家で鉄砲を作れたことに驚いた」
「あれは玩具だ。まだ使えん」
鉄砲鍛冶の作之助もそう言っていた。
粗悪な鉄で作ったので、一発撃つと銃身が冷えるまで次が撃てない。
実用的でないという。
魯坊丸に書かされた設計図の通りに鉄砲ができるかを試し、見習い鍛冶師の練習で作られているとか。
信光からも色々と魯坊丸のことを聞いていたが意味がわからん。
「あの砦擬きはいるのか?」
「鉄を作る為の材料を作る窯だ。出雲の『たたら鉄』のような鉄ができるのが楽しみだ」
「銭が掛かっていそうなだ」
「あぁ、掛かった。儂とこの家老が涙を流しておった」
「不憫な」
その話は以前にも聞いた。
鉄を作る材料を作る為に砦のような施設を建てさせた。
外側に一枚岩のような城壁で覆われており、あれは砦造りに使えるな。
と、いうか。
その岩を使った曲輪が中根南城で使われておったのは驚きだった。
曲輪の話は聞いていなかった。
東は湿田、南は海。西と北が曲輪に守られる予定という。
平城なのに、山城の末森城と変わらぬ強固な城になりそうだ。
曲輪の中に田畑を耕して何がしたいのか。
わかったことは、中根家が見違えるように発展していたことだ。
「酒造所の件ははじめから許可するつもりだったが、本当に魯坊丸が考えたのか?」
「信じられんが本当だ。鉄砲も酒造りも魯坊丸が考えた。そこで足りないものを定季が補っておる。魯坊丸一人ではできぬが、定季が支えるようになって一気に花開いた感じだ。面白い師弟関係となっておる」
「定季あっての魯坊丸か。納得した」
今日は気分がよいのか、信光の飲む速度が早い。
儂はあまり飲む気になれない。
考えることが多すぎる。
美濃の斎藤利政は調略を仕掛けてくるので油断できぬ上に、土岐頼芸様が兵を出せとしつこく言ってくる。
斎藤利政(道三)が好きに暴れているが、近江の六角定頼様を頼って牽制する以外に手はない。
戦には銭が掛かるし、何よりも美濃攻めでは士気が上がらぬ。
一方、三河の国人は織田家に従うのを渋る。
松平信定殿が存命の頃は諸手を挙げて歓迎してくれたが、安祥城に庶長子の信広を入れると、あからさま反発する者が増えてきた。
独立自尊の気風とでもいうのか、今川にも、織田にも従いたくない。
だが、支援だけは欲しい。
三河の連中は都合のよいことばかりいう奴が多い。
何かの足しにでもなればと思い、魯坊丸に三河のことを聞いてみた。
「魯坊丸め。儂に三河から手を引けと言うのだぞ」
「その件か。五郎丸から報告に目を通しておらんのか?」
「北条-氏康殿は今川-義元を信用できんと言っておったことか。氏康殿は心から憎んでおる。手の平を返して今川と結ぶなどあり得ん」
「しかし、返事は来ていないのだろう」
去年の秋から正月まで、何度も今川を挟撃する誘いの手紙を出した。
送った使者の感じも悪くないが、肝心の返事が来ぬ。
「北条も手を広げ過ぎた。今川家との両面作戦は避けたい。そして、北条家は元今川家の家臣だ。今川が譲歩すれば、和睦もあり得る」
「あり得ん」
「今川が全軍をあげて三河に押し寄せれば、こちらも苦しくなるぞ」
信光のいうことは理解できる。
腹心の平手政秀も斎藤利政との和睦を奨める。
だが、蝮は信用できん。
北条が今川と和睦すれば、キツくなるのはわかる。
だから、三河を損切りにしろだと?
三河守である儂が三河を治める器ではないという魯坊丸も気にくわん。
銭がすべてだとも言っていた。
それはわかるが、そんな曖昧な理由で三河から引くことなどできん。
忌ま忌ましい。
信光と朝まで飲んだが、昨日の酒は酔えない酒であった。
魯坊丸日記 閑話(第五十九話) 「織田信秀、信光に愚痴をいう」の裏舞台
こちらのシーンは小説版の没になったエピローグの一部です。
小説版では、当初、『銀河英雄伝説』調のスピード感で今川を撃退した清須合戦まで描いておりました。
しかし、唐突に現れる登場人物などに編集社から「ここの説明を加えてください」という要望があり、説明を入れると三割増しの原稿量となったのです。
その三割の文字を削って欲しいと言われてお手上げでした。
結局、道三との会見と京都編を分けることになり、発売された小説に収まったのです。
そういう訳で、信光の回想という感じで書かれた当初のエピローグの半分がここに書いてあります。
ここでは信光の視点を信秀の視点に変えて書いております。