五夜 魯坊丸、母上と呼ぶ
〔天文十五年 (一五四六年)秋九月十日〕
熱田の祭りと言えば、六月に帝から勅使が参向される『尚武祭』が最も華やかな祭りだそうだ。
境内では、普段は見られない武芸や舞いを奉納して来客者を楽しませる。
夕方には、献灯まきわらが奉飾点灯され、美しい光に熱田神宮が包まれるそうだ。
遠くの丘から熱田神宮を眺めると、町々に灯された光の宝玉が町だけを浮かび上がらせ、その中で熱田神宮の煌々と輝く様が美しかったと、うっとりとした口調で福が言った。
その美しさには遠く及ばないが、新穀を奉り収穫の感謝を捧げる神嘗祭が九月十七日に執り行われる。
神嘗祭は、その年に収穫された新穀を最初に天照大御神にささげて、御恵みに感謝するお祭りであり、やはり熱田神宮で御神楽などを奉納する。
福は一度だけ連れていって貰ったことがあるそうだ。
この神嘗祭の二ヶ月後にあたる十一月二の卯の日に米を神々が召し上がる『新嘗祭』へと繋がってゆく。
何故、福が盛り上がっているのかと言えば、神嘗祭に出される稲を取る『抜穂祭』が、昨日、秋の九月九日に行われて、福は村長に誘われて、ご馳走を食べてきたと浮かれていた。
小さいながらも領主の姫であった福は没落し、下女のような暮らしに身をやつらせて、もう二度と華やかな祭りに行くことはないと思っていたからだ。
今年の稲はまずまずの出来らしい。
「魯坊丸様。今年の稲はまずまずですが、最近はずっと天候不順に見舞われました。去年並に稲が採れて、皆、ほっとしております」
「ばぶ」(そうなのか)
「はい。四年前 (天文八年)は長雨で日差しが足りず、三年前は雨が降らず日照りとなりました。二年前は悪くなかったのですが、収穫前に大雨が降ってすべてを流しました。皆、米を求めて、各地で小競り合いが絶えなかったのです」
「ばぶばぶぶ」(大変だったのだな)
「大変でした。無事に収穫できてよかったです」
村上一族の長根荘では、大雨を恐れて早めに収穫を終えたそうだ。
俺と福はそんな話で盛り上がった。
「随分と楽しそうね」
そんな話を福としていると、ゆっくりと廊下から母上が部屋に入ってきた。
「べべうぉ」(母上)
「奥方様。魯坊丸様は『ははうえ』と呼ばれております」
「本当かえ」
「魯坊丸様の変な癖でございます。“ファ・ファ”と発音する所を、“ハ・ハ”と発音されておられます。しかも舌が回らず、濁っているので“べ・べ”と聞こえますが、魯坊丸様は“母”と発音されておられます」
「真か」
母上が驚いていた。だが、それ以上に俺が驚いた。
なっ、何だと!
福がさらりと重要な事を言った。
母は“ハ・ハ”でなく、“ファ・ファ”だと?
思い当たる事がある。
万葉集の歌で福が間違うのは、決まってハ行を聞き間違っていた。
俺は福に“ハ・ヒ・フ・ヘ・ホ”であっているか尋ねると、福は「違います」と言って、“ファ・フィ・フ・フェ・フォ”と答えた。
しかも“パ・ピ・プ・ペ・ポ”に近い“ファ・フィ・フ・フェ・フォ”だった。
全然、気が付かなかった。
福のしゃべり方をずっと聞いていて、何故、気付かない俺。
標準語と河内弁、秋田弁、福岡弁が違うように、熱田弁の特殊なしゃべり方と勘違いしていた。
そう言えば、福は“そうね”と言っても“だがや”と言わない。そして、“じゃ”と語尾に付ける事はあっても“だぎゃ”とは付けない。
俺が間抜けだった。
俺は改めて母上の方を向いて、『ばぁばぁうぉ』(ははうえ)と呼んだ。
くそぉ。
舌が回らず、綺麗なハと発音できない。
俺の耳には“婆・婆・うお”と聞こえ、婆と言っている気分だ。
だが、母上は手を口元に当てて、喜びの涙を零した。
「魯坊丸が、母と呼んでくれました」
「奥方様。よろしゅうございました」
「福。教えてくれてありがとう」
「いいえ。魯坊丸様ははじめから母上とお呼びでした」
「そうなのですか」
俺をぎゅっと抱きしめて、母上はずっと気付かなかった事を詫びた。
俺のミスだ。
これからは気を付けよう。
魯坊丸日記 第五話 「母上と呼ぶ」の裏舞台
天文九年 (一五四〇年)に『天文の飢饉』と呼ばれる大規模な飢饉が全国に起こったと記録されています。
天文八年 (一五三九年)五月上旬。関東では、梅雨に係わらず前月から晴天が続き、人々は不安になって天乞いをした。その効果か、十七日になると雨が降ったので人々は喜んだとある。しかし、十七日から十八日は二日続きの炎旱のひでりとなったので人々は再び不安に襲われたが、十九日から雨が降ったので安堵した。しかし、過ぎたるは及ばざる如しという通り、その雨は二十九日まで続く大雨となり、六月七日に上流に降った大雨が、河川を氾濫させて、大被害に見舞われたと記録される。
畿内でも、六月から八月にかけて百年以来の大洪水に見舞われたそうです。
そして、洪水で残ったわずかな稲を求めて、全国的にイナゴの大群が押し寄せたと「当年世上不熟虫損過」〔厳助大僧正記〕にあります。
これをきっかけに翌年の天文九年 (一五四〇年)に『天文の飢饉』が起こったようです。
また、醍醐寺理性院の権助大僧正の日記に“当春世上大キキン。非人数千万。餓死不知其数。於上京下京之間。春夏中毎日六十人計死人捨之云々(この春、世の中は大飢饉となっている。飢えて人として暮らせない人々が数千万人もいる。餓死する人の数は数え切れない程だ。京都の上京と下京の間では、春から夏にかけて、毎日六十人ばかりの死人が捨てられているという)”と書かれております。
天文十年(一五四一年)に増長した木沢長政が造反し、三好政長を排除しようと画策し、逆に遊佐長教に討ち取られた『太平寺の戦い』、甲斐国の武田信虎が嫡男の晴信(後の信玄)によって駿河国に追放された事などなどは、飢饉がきっかけにあるのかもしれません。
推測ですが、魯坊丸ら、6男の(織田)秀俊(信時)(喜蔵)、7男の(織田)信興(彦七郎)、8男の(織田)秀孝 (喜六郎)、9男の(織田)秀成 (半左衛門)がほぼ同時期に誕生しているのは、織田弾正忠家が過酷な
戦乱の時期が終わり、勢力を一気に伸ばした為に、人質として妻を多く抱えた副産物なのではないかと思っているのです。
つまり、飢饉によって小競り合いが多発し、それに乗じて織田弾正忠家は勢力を伸ばし、多くの妻を迎えた。
そして、天文十三年から十四年頃に天候も落ち着いて、子作りする機会に恵まれた為に、一気に子供が増えたと考えております。
■戦国時代の発音
戦国時代と現代では発音がかなり違いました。
この「はひふへほ」は、戦国時代まで「ファフィフフェフォ」と発音し、奈良時代は「パピプペポ」と言っていたそうです。
ですから、「母」の発音は「ファファ」「ファワ」となります。
一五一六年の『後奈良院御撰何曽』には、
「母には二度会ひたれど父には一度も会はず」という謎々があり、答えは「唇」です。
ファ行音とワ行音は唇を丸める「唇音」となり、このような謎々が成立しましたが、現代では通用しません。
また、中国の音韻論では、発音方法により子音を五種類に分ける「五音」がありましたが、この中でハ行はマ行、バ行とともに「唇音」とされました。
秋田県の高齢者には、「髭」を「フィゲ」、「蛇」を「フェビ」と発音する人がいるそうなので,方言になごりに残っているようです。
これは後の登場するお市の話になりますが、お市は『のじゃ姫』の設定となっています。
可笑しなしゃべり方をする姫と思うかもしれませんが、実は、当時の助詞として『じゃ』と付けるのは一般的だったそうです。
つまり、小説の大半が現代語でしゃべっているのに対して、お市のみが戦国時代の標準的な語尾を付けているという逆転現象を起こしております。
お市の設定は『トリビアの泉』のネタ話でした。
お気づきでしたか?
また、小説は天文十五年 (一五四六年)は、愛媛県の「新居郡誌」によると、秋の収穫期に暴風雨があり、甚大な被害を出したと残っておりますが、京の公家の日記などには記録されておらず、局地的な被害だったと推測し、愛知県では被害がなかったとしております。