五十一夜 魯坊丸、福との別れ話
〔天文十六年 (一五四七年)冬十一月二十一日〕
出産から三日、今朝も妹の里が元気に泣いていた。
早朝の鍛錬を終えると朝食だ。
おじやを匙で掬ってもらい、おかずを箸で摘まんで口に入れてもらう。
王様気分のビック対応に満足する。
今日は福が月一の非番の日であり、他の侍女にごはんを食べさせてもらったが、おじや、おかず、吸い物が順番に回るだけで、俺が食べたいものを察してくれない。
変化がなくてつまらない。
やはり、福が一番だ。
でも、こんな待遇も筆の練習と一緒にやっているので終わりが近付いている。
あと三ヵ月間くらいかな?
母上は産後の肥立ちが良過ぎるのか、翌日から歩き回ろうとするので止められていた。
食事が終わると発音練習だ。
昨日と同様に一人で本を広げて発音練習をしていると、母上から呼び出しが掛かった。
「ろ、ぶぉ、う、ま、る。お、よ、ぶぃ、と、き、き。さ、ん、じ、よ、う、し、ま、し、た」(魯坊丸、お呼びと聞き、参上しました)
「入りなさい」
「ふぁい」(はい)
母上が部屋の床の上に身を起こし、その両側に城代と定季、そして、部屋の隅に定季の息子の良勝が座っていた。
良勝は中根家家臣の子供の中で特に秀でた四人衆の一人であり、文官よりなので神社で神主と一緒に子供らの教師をやってもらっているので、教育カリキュラムをつくたりと顔見知りだ。
俺も良勝の脇を素通りして母上の正面に座った。
「魯坊丸に来てもらったのは、魯坊丸に頼みたいことがあったからです」
「お、れ、に、で、き、る、こ、と、な、ら、な、ん、な、り、と」(俺にできることなら、何なりと)
「魯坊丸にしかできません」
「ふぁい?」(はい?)
先月の非番で自宅に戻った福は、平針の成田本家から嫡男の嫁に迎えたいという打診を受けたらしい。
ご存じのように福の父が亡くなり、領地は本家預かりになっていた。
その本家の家臣が領地に入って、実行支配していた。
それを許していたのが平針城主の側近だった当主の弟であり、その弟は福の父の領地を奪うつもりだったのだ。
だが、その主君が自害した。実際の話は先代と家老らに追い詰められて殺された。
その先代も影腹を切って亡くなっている。
主君を唆した側近らも自害させられ、福の弟君は領地が戻ることが確定していた。
めでたし、めでたしである。
しかし、新たな城主となった加藤図書助の信頼を得たい成田本家は、図書助が懇意にしている俺の侍女を嫡男の嫁に迎え、自らは隠居して家督を嫡男に譲りたいと申し出た。
図書助はそれを大いに喜んで認めたのだ。
俺の側近中の側近である福を迎えるということは、俺の影響下、つまり、熱田神宮に臣従するという意味が含まれる。
平針は元々熱田領であったが、新屋敷家とは微妙な関係が続き、新興勢力である成田家は中立であったが、家老の成田家を熱田派に引き込むのは図書助にとって喜ばしいことなのだ。
「ですが、福はその申し出を断りました。福は魯坊丸に一生を尽くすつもりです」
「お、れ、に、で、す、か?」(俺にですか?)
「福の忠誠心は嬉しい限りです。福の頼みですから、城代に平針に行ってもらいました」
「な、ぜ。じ、ゆ、う、だ、い、が、で、す、か?」(何故、城代がですか?)
「断るということは、中根家が成田家を疑っていると思われる可能性があるからです。福を迎えるというのは名ばかりであり、中根家の秘密を探りたいと考えていると疑っていると」
あっ、察した。
福との婚姻を断る理由は成田家が今川家と通じており、今川家へ情報を流す為に福を欲していると、中根家が疑っていると思われる可能性があるのだ。
後ろ盾のいない分家の娘を本家の正室に迎えるのは玉の輿であり、本来なら本家の養女に迎えられて、他家との繋がりを持つ為に人質として出されるらしい。
つまり、分家の娘は本家のスペアなのだ。
対して、本家の正室となれば、次に生まれてくる次期当主候補の子が弟君の甥っ子となる。
弟君の地位はほぼ安泰だ。
こんな良い話を断るとは、成田本家をよく思っていないと受け取られるのだ。
裏で中根家の意向が動いたと思われる可能性があった。
深読みのし過ぎだ。
母上はそこに気が付いた。
もちろん、福はそこまで考えた訳ではなく、成田本家の面目を潰さないで断わる方法を母上に相談したようだった。
中根家の城代が平針に赴き、断るのは福の決意のみであり、深い意図がないことを説明に向かった。
その話を聞いた図書助が『才女の鏡』と福をさらに気に入った。
図書助の妻の侍女に迎え、弟君を嫡男の小姓とし、元服後は嫡男のお側用人とすると決めた。
是が非でも欲しいと言ってきたのだ。
「女は嫁がされるのが運命です。図書助様に気に入られた福が粗末にされることはありません。また、魯坊丸の側近を平針に置くのも悪い話ではありません」
「な、つ、と、く、し、ろ、と」(納得しろと)
「そうです。生まれたばかりですが、里もいつか嫁いでゆく日がきます。魯坊丸の為に嫁いでゆくのです。福を愛妾に迎えたいと覚悟を決めないなら納得しなさい」
「せ、い、し、つ、ふぁ、だ、め、で、す、か」(正室は駄目ですか)
福は大事だ。
だが、福を妻にするというのは気が早すぎる。
だが、母上の口から『妻』ではなく、『愛妾』という言葉に反応してしまった。
何故、愛妾なんだと。
「無理です。身分が違います。どうしてもというならば、千秋家の養女していただき、身分差を埋める手はありますが、皆が納得しないでしょう」
「そ、う、で、す、か。わ、か、り、ま、し、た」(そうですか。わかりました)
「まだ、小さい魯坊丸は辛い話ですね。母として申し訳ない」
「い、い、え」(いいえ)
福を正室に迎えれば、同格の家らが「何故、我が家では駄目なのだろうか」と納得できない声が上がる。
福はその嫉妬を跳ね返すだけの成果が求められる。
成果が出せなければ、俺が責められる。
それを福が悔やむ。
おそらく、福は一生幸せになれない。
一方、愛妾は日陰者だ。
母上のいうようにすべてを納得するしかない。
福のことは好きなので、幸せになってほしい。
そう思う一方で、俺が福を幸せするほどの熱意はない。
そもそも俺が福を幸せにできるのか?
無理な気がする。
それよりも現実的な問題を考えよう。
母上がこんこんと女の幸せを述べて、俺を納得させようとしていた。
問題は福の代理は誰がするのかだ。
「ふ、く、の、か、わ、り、ふぁ?」(福の代わりは?)
「ここに控えさせております。良勝らに任せようと思っております」
「よ、し、か、つ、か」(良勝か)
良勝ら、家臣四人衆のことか、読み書き算盤をマスターした秀才グループのことか、それともその両方だろうか。
秀才グループには、教師役の為に秋頃から自然科学などを教えており、小学校の理科の実験などをさせている。
物理と元素記号を理解できる部下が欲しいのだ。
黒煙火薬もまで自作できていないが、その先の無煙火薬、C3(プラスッチク爆薬)への道は遠い。
だが、地雷を造るならC3は不可欠だ。
何でも先月から福の助手をしており、福が留守のときは福の代わりに巡回をしていたらしい。
流石、定季だ。
展開を予想した根回しが早い。
「で。か、お、あ、わ、せ、に、つ、れ、て、き、た、の、で、な、い、の、だ、ろ、う」(で、顔合わせに連れてきたのではないのだろう
「もちろん。顔合わせは終わっております。良勝が頼みたいことがあるというので連れてきました」
「魯坊丸様。これは福殿が書かれている日記をまとめた本でございます。これを写本して広げる許可をいただきたいのです。お願いいたします」
出された本に『家庭の医学書』という題が書かれていた。
良勝が言うには、俺に言われたことを忘れないように、福が日記を付けていたという。
その日記が福の宝物らしい。
本は俺が言ったことがまとめられており、普段の生活や食事の効果、身体の機能と運動の効果が書かれており、寝込んだときの症状に合わせた治療方法がまとめられていた。
俺が気になったのは、薬草名と病名であった。
そんな名前を俺は知らない。
良勝に聞くと、神社の住職や村の年寄りに尋ねて、俺の特殊な呼び方をこの辺りの呼び方に変えて書き加えたという。
これならば、文字さえ読めれば、誰でも判りやすい。
見本をみた東八幡社の神主も、完成した本を写本したいと言っているという。
「これは魯坊丸様の知恵の結晶でございます。勝手に広める訳に参りません。それゆえに許可を頂きに参りました」
「き、よ、か、す、る。ひ、ろ、え、る、い、の、ち、を、ひ、ろ、え」(許可する。拾える命を拾え)
「ありがとうございます」
福という通訳がいなくとも、何とか話は成立する。
言葉のフォローするのが面倒なだけである。
出来なくはない。
そして、福の仕事も良勝らが分担すれば、引き継ぎはできそうだった。
福を引き留める理由がなくなった。
悲しいけど、これが現実なんだ。
魯坊丸日記 第五十一話 「福との別れ話」の裏舞台
遂に、魯坊丸の通訳だった福ちゃんのフェードアウトのときが近付いてきました。
赤ちゃんなのに活躍させる為に作られた侍女でした。
福には感謝しかありません。
でも、もうひと頑張りしてもらいます。