四十九夜 魯坊丸、母上にほめてもらう
〔天文十六年 (一五四七年)冬十月下旬〕
十月は神無月と呼ばれ、十日から十七日まで熱田の神様は出雲大社にお出掛けだ。
何故、出雲なのかは知らない。
神様が不在なら何もないだろうと思っていると、出雲に行かない御留守番の神様の祭りがあった。
神官って、割と忙しい。
その神様は海に流された伊耶那岐命と伊耶那美命との間に生まれた最初の神様の蛭子神である。
別名、恵比寿神の『えべっさん』とも呼ばれている。
行事は十日からはじまり、二十日恵比寿で締めを迎えた。
『商売繁盛で笹もって』
そんな掛け声はなかったが、普通に笹が飾られていた。
七夕もそうだが、竹は非常に成長が早く、まっすぐ上に伸びることから、生命力の象徴のように扱われていた。
祝いの舞を奉納し、祝詞を詠んで、供物を捧げて恵比寿神を祀る。
他の招待客と一緒に招かれた母上は上機嫌な日が続き、俺への勉強にも熱が入った。
産み月も近いのにヤバくない?
「魯坊丸、今日は大変よくできました」
「あ、り、が、と、う、ご、ざ、い、ま、す。ふぁ、ふぁ、う、え」(ありがとうございます。母上)
「もう話し言葉は完璧です。あとは礼儀作法を学びながら、言い回しを覚えてゆきましょう」
「は、い。が、ん、ば、り、ま、す」(はい、頑張ります)
「息子の成長を見るのは楽しいですね」
俺は「ふぁふぃふふぇふぉ」(はひふへほ)を「ばぁびぃぶぅべぇぼぉ」と濁って発音していたが、遂に「ふぁふぃふふぇふぉ」(はひふへほ)と発音できるようになった。
まだ、意識しないとできないので一音一句が途切れているが、かなりスムーズに話せるようになってきたと思う。
馴れている者が相手ならば、普通に会話ができている。
ただ、初めての人は「箸」と「橋」、「雲」と「蜘蛛」のニュアンスが掴めないのか、何度も聞き直される場面に出くわす。
普通に話せる日はまだまだ遠い。
筆も握り方をグウから基本に変えた。
筆の中ほどを親指と人差し指、中指で持ち、薬指で支えて小指をそえる。
力が巧く入らないので筆が落ちる。
その度にやり直しになり、墨と紙が勿体ない。
今の目標は、『花押』を自分で書けるようになることだ。
手紙の代筆は定季がしてくれるが、どこかに行って署名を求められたとき、名前は定季が書くのは許されるが、『花押』は自分で書くのが最低の礼儀らしい。
熱田神宮では、そういう場面に出くわすだろうと言われて急がれている。
また、落ちた。
「魯坊丸、起きましたか。皆が広間で待っていますよ」
「ふぁ、ふぁ、う、え…………な、ぜ?」
「魯坊丸を起こしにきました」
「お、な、か、ふぁ、だ、い、じ、よ、う、ぶ、で、す、か」(お腹は大丈夫ですか)
「最近、調子がよいのです」
起床、鍛錬、朝食、文字読み、習字が終わると朝寝であり、目が覚めると母上がいた。
評定所では、相談や打ち合わせの家臣や職人が待っていた。
大工や細工師を呼んで様々な道具を作らせ、規格品の木材を作らせて住居はプレハブ型の組み立て式で建てさせている。
最初は面倒だが、規格が決まって分業化で材料を作れるようになれば効率化する。
土木工事の基礎杭や枠組みも同じだ。
流石に、超一流の宮大具を誘致するのは難しいが、庭師の知り合いに村々で大工を目指す見習い大工を多く抱えるのは簡単だった。
手先の器用な子供らにも手伝わせ、見込みがあれば弟子にさせる。
鍛冶師にも手伝わせて、魚の鱗取りのような百円グッズもたくさん作らせている。
それを大喜爺ぃがたくさん買っていってくれるので、村人と河原者の小遣い稼ぎとなっている。
皆、物を作るのにも馴れてきた。
その代わりに俺への質問も増えてきた。
時間が足りないので、昼食を食べながらになることもしばしばだ。
「魯坊丸。子供らが迎えにきましたよ」
「ふぁい。す、ぐ、ゆ、き、ま、す」(はい、すぐ行きます)
「お昼寝の時間には、戻ってくるのですよ」
「ふぁい」(はい)
昼食が終わると見回りだ。
村や河原者の子供らは、午前に神社や寺で読み書きを教わる。
昼から親の手伝いとなるが、二日おきに、体力作り、槍などの戦闘術、投石などの遠距離攻撃の訓練のような遊びが待っている。
そして、月に一回くらいの割合で、交替で俺の護衛見習いの練習をする。
子供らは、俺の家来になって護衛をするのが夢だそうだ。
曲輪と畑が完成に近付いていた。
しかし、冬の間に新しい水路を引き、それが終わると外周の曲輪を造りはじめる。
同時並行で実験用の水田拡張もしなければならない。
次の春に間に合うだろうか?
「魯坊丸様。八事の開拓もお忘れなく。八事の領主らが気にしております」
「ま、ず、ふぁ、け、ん、ぶ、ん、か、ら、だ、な」(まずは見聞からだな)
「定季様が測量を教えておりますが、地図ができるのは来月の終わり頃ではないかと申しておりました」
「ら、い、ね、ん、の、ふぁ、る、に、ま、に、あ、う、の、か?」(来年の春に間に合うのか?)
「熱田の炊き出しで噂を聞き、多くの者が押し寄せております。ですが、その者らを住まわせる家、この村の約束ごと、禁止事項などを教えるだけで手一杯です」
「す、ぐ、に、つ、か、え、ぬ、の、か」(すぐに使えぬのか)
「以前ならすぐに使えましたが、今は魯坊丸様が考えた道具の使い方や、作業の手順を覚えてもらわねばなりません。石や土を運ぶ仕事くらいしか使えません。教えなければ、一生使えぬ者が増えてゆきます」
人数が増えているのに、住まいの増築、教える教師の増数で作業量が増えないとは本末転倒だ。
何事もほどほどに増やしてゆくのがいいのだが、こっちの要望に向こうが動いてくれない。
しばらくペースを落としてゆこう。
採算が赤字でないなら、周り道のように見えるが人材育成が近道なのだ。
この冬から優秀な者らだけを集めて、基礎科学や基礎土木などの高度教育をはじめよう。
春には養成所を設立し、選抜された子供らを鍛える。
もちろん、軍隊式擬きだ。
教育と言えば、ボートレース学校に視察を思い出す。
わずか一年で様々な技能を習得する。
まったくの素人が、エンジンの構造を知り、解体や改造できるまでになる。
加えて、体力面の実技も熟す。
工業学校で三年間かけて教える課程を一年で習得させるには、それくらい厳しくないと駄目だそうだ。
論語、算術、武芸の教師を揃え、最後の科学だけを俺が担当しよう。
今度、神宮に行ったら教師の募集だな。
神宮と言えば、あっという間に流民への炊き出しが俺の手を離れた。
俺に媚びを売りたい領主が米などを寄進してくれ、見習い神官らにやらせることになった。
実際に炊き出しをするのは、新たに召し上げられた神人らだ。
思っていたより負担が少なくて済んだ。
「さ、け、ふぁ、じ、ゆ、ん、ち、よ、う、か」(酒は順調か)
「五郎丸様に用意して頂いた杜氏が、魯坊丸様の言われた通りに酒造りをしております」
「そ、う、か」(そうか)
「まさか、完成もしてない酒に龍泉寺が文句を言ってくるとは思いませんでした」
「そ、う、か。お、れ、ふぁ、よ、そ、う、し、て、い、た、ぞ」(そうか、俺は予想していたぞ)
五郎丸がいくら秘密と言っても造るのは人だ。
杜氏は秘密を守るだろうが、作業をしている村人は寺と親しくしており、秘密の漏洩は時間の問題だと思っていた。
むしろ、俺はそれを待っていた。
熱田で秘密を守ろうと思えば、寺も巻き込んで一蓮托生でなければ、秘密は守れない。
売値は尾張で統一し、寺などには二割引きで卸す。
寺の販売先を奪わない。
むしろ、同系列で熱田以外の寺院に売らせて販売拡大に利用する。
敵対するより仲良くする方が得と思わせる。
製造方法が外に漏れれば、その利益を失うばかりか、漏らした者が周辺から袋叩きにされる環境を作ることで、秘密を漏らさない環境を作り上げる。
まぁ、予想外だったのは、試作品の製造方法を教えている時点で話し合いたしの打診がきたことだった。
尾張観音の龍泉寺は、延暦年間 (782~806年)に伝教大師最澄が創建したといわれ、竜の住むこの地で伝教大師がお経を上げると、龍が天に昇ると同時に馬頭観音が出現し、それを本尊としたと伝わる古い寺だ。
熱田神宮の奥の院と称する寺なので神宮との関係も良好だった。
話のわかる住職で助かった。
今後、寺から打診があれば、「龍泉寺と同じく」と言えば、文句をいう寺もいるまい。
俺は城外や村をぐるりと周り、水飴、豆腐、醤油、麹などの小屋が次々と建っているのに満足した。
明日は織物関係の視察をする。
十一月の第二卯の日 (十七日)に新嘗祭があり、それが近付くと忙しくなると言われている。
…………?
城に帰ると母上が待っていた。
「魯坊丸、お布団を用意しております。一緒にお昼寝をしましょう」
母上、どうしたんだ?
魯坊丸日記 第四十九話 「母上にほめてもらう」の裏舞台
ほのぼの知識チートの話です。
この頃から前世の記憶と今世で学んだことが混在するようになってきました。
魯坊丸の手足となる黒鍬衆の前身が生まれようとしております。
【母親の設定】
出産が近付くと女性は感情のコントロールが利かなくなるといいます。
所謂、情緒不安定ですね。
魯坊丸の母は、礼儀正しく、女性の手本みたいにわきまえることを知っている女性です。
しかし、感情が高ぶると息子にすり寄ります。
自分の似て可愛い息子ですけれど、普段は我慢をしているのでしょうか?
ブレーキが壊れると、べったりです。