四十八夜 魯坊丸、笠寺別当を祝う
〔天文十六年 (一五四七年)冬十月中旬〕
西三河での戦も終結し、援軍に赴いた尾張の兵もすべて戻ってきた。
古渡城は本丸を残して焼失したので仮の居城を那古野に移して、皆を集めて恩賞が与えられた。
我が中根家は養父の奮戦が評価されて、中根の織田直轄地である百石と、八事の二百石が加増され、八事の領主が中根家の下に付くことが決まった。
一方、野盗退治は領主の本分なので褒美はもらえなかったが、養父の名代として出席した義理兄上の忠貞がお褒めの言葉を頂いたと喜んでいた。
俺としては、八事の開拓を自由にできるようになったのが最高に嬉しい。
これで天白川から水路を引いて、中根・八事に溜め池を作ることで水田が容易に進められる。
天白川なら溜め池に十分な水量を確保でき、どの村にどれだけの水を供給するとかの心配をする必要がない。
家臣として集めての談合ができ、個別の交渉がなくなったのが嬉しい。
古代ローマ帝国のような石垣の水路を作ってやる。
水田に使う溜め池と水堀は、そのまま村を守る堀として利用できる。
街道の各所に開閉式の吊り橋を採用する。
すべて行うと大仕事になるぞ。
中根南城に戻ってきて、評定のことを自慢する忠貞の話を聞きながら尋ねた。
「あ、に、う、え。ひ、ら、ばぁ、り、ばぁ、ど、う、な、り、ま、し、た」(義理兄上、平針はどうなりました)
「平針か、残念なことに奥方と息子殿は自害と決まった」
「そ、う、で、ご、ざ、い、ま、す、か」(そうでございますか)
「だが、新たな平針城主は、同じ熱田衆から加藤図書助(加藤-順盛)が撰ばれた。羽城は叔父の勘三郎(加藤-延隆)様が預かることになる」
熱田における加藤家の勢力が一気に伸びた。
新たな平針城主が図書助なら、俺を支持してくれるので問題ない。
否、違う。
むしろ逆であり、親父が俺を支持している熱田衆を優先的に取り立てている?
そう考えると、平針の妻と息子の自害も頷ける。
前平針城主は笠寺から妻を迎えており、笠寺観音の縁者から妻をもらうことで好を結んでいた。
その母の血を継ぐ息子も危険視された。
新屋敷家は松炬島にも手を広げ、海を挟んだ対岸が松炬島の新屋敷家がある。
地引網漁で新屋敷家の取り分を奪われたと思われており、新屋敷領の漁師とは不仲になっていた。
領主に網を買ってもらって、自分らの村でも地引網漁をはじめればいいのだ。
こっちの陰口を言うな。
さて、先代の平針城主は息子を自害に追いやり、自らも影腹を切って許しを求めた。
特に新屋敷家の本家とは関係ないことを訴えた。
新屋敷家の本家とは針名神社と慈眼寺を指しており、先代と本家はまったく預かり知らなかったと主張し、前平針城主の側近らの首を親父に献上した。
腹違いの弟が新屋敷家の家督を継ぎ加藤家の家老として仕えることで許されたらしい。
加藤家に預けることで取り込んだのか。
そうなると、熱田神宮と友好的でない笠寺は…………危ないな。
「あ、に、う、え。か、さ、て、ら、ばぁ、ど、う、な、り、ま、し、た」(義理兄上、笠寺はどうなりました)
「笠寺は知多の花井家に頼まれただけと言っておったが、責任は逃れられぬ故に、住職に引退して頂き、熱田神宮の大宮司であられる千秋季忠様に、笠寺の別当職を兼任してもらうこととされた」
「す、え、た、だ、さ、ま、が」(季忠様が)
「鳴海を除く、松炬島が熱田神宮の管理下となる」
これは季光、および千秋家への詫び料だ。
加えて笠寺との取次役が山口宗家ではなく、分家の山口教継とされた。
山口宗家で寺部城主である山口-重俊は面目を失った。
これは何か起こる…………否、起こさせて首を据え換える気だ。
西三河での仕置きも発表されたという。
岡崎城の実権を失った松平広忠の嫡子である竹千代が加藤図書助に預けられて、しばらくは羽城で面倒を見ることになった。
また、戸田-康光が今橋城を取り戻したい為に今川へ叛旗を翻した。
今橋城(吉田城)攻めだ。
その蜂起に寝返った西三河勢を使ったらしく、今橋城を奪還できれば三河湾を掌握できる。
奪還には至らなかったらしい。
まだ同盟は結ばれていないが、上々の成果だと親父も喜んでいるという。
次は、西三河に今川方として残る吉良家を屈服させるとか。
そんなに巧く進むのか?
「さ、だ、す、え。い、ま、が、わ、ばぁ、ど、う、う、ご、く、と、お、も、う、か」(定季。今川はどう動くと思うか)
「今川家も面目がございますから、東三河へ押し寄せてくるでしょう。しかし、背後に北条家が控えております。北条-氏康殿は、河越の戦いで大勝利を収め、関東へ進出しております」
「ほ、う、じ、よ、う、か」(北条か)
「今川家が東三河へ兵を進めれば、背後の北条家が駿河を襲います。織田家は互角以上に叩けるでしょう」
そんなに巧くいくのだろうか?
北条家も領地が広がれば各所での問題も多くなり、戦場をいくつも抱えて相模が手薄とならないか?
北条氏康は関東の関東管領と駿河の今川家の両方を相手にして戦い続けるのを嫌がった。
今川義元も北条家と織田家を同時に相手するのを嫌がった。
加えて、武田家が北信濃の攻防で関東管領と長尾家 (上杉-謙信)を敵にした。
武田家は北条家と共有の敵を持ち、敵の敵は味方となる。
この三者の思惑が重なって、今川・武田・北条の三国同盟へと進んでゆく。
あったな。
「ほ、う、じ、よ、う、ばぁ。い、ま、が、わ、と、ど、う、め、い、を、む、す、ぶ、ぞ」(北条は今川と同盟を結ぶぞ)
「まさか。犬猿の仲でございますぞ」
「い、ち、じ、て、き、に、て、を、む、す、ぶぅ、こ、と、ばぁ、よ、の、つ、ね、だ」(一時的に手を結ぶのは世の常だ)
「あり得ませ…………んとは、言えませんな。そうなると駿河・遠江の全軍で押し寄せてくることに」
「ま、ず、い、だ、ろ」(拙いだろ)
「拙うございます」
わかっていても何もできない。
精々、千秋季忠の笠寺別当の就任を祝い、親父にお礼に行くときに北条の寝返りを忠告してもらうくらいだ。
忠告したからと言っても北条の寝返りを止める方法はなく、兵を休ませずに東三河の攻略を進めるのもできない。
調略の手を増やして、織田の味方を増やすくらいだ。
親父には頑張ってもらおう。
魯坊丸日記 第四十八話 「笠寺別当を祝う」の裏舞台
【福の名前のお尋ねに関する件】
初期の侍女である福と、後期にやってきた千代女の部下である福は別人です。
すみません。同じ名前がかぶりました。
京都編の後半を書いている頃、初期設定のことを完全に忘却しておりました。
完全なミスです。
昔は同じ名前や通し名が多かったと笑ってやって下さい。
ごめんなさい。
【今回の話】
熱田神宮が笠寺の別当職を兼任したのがいつかははっきりと残されておりませんが、天文19年12月23日時点で別当職でした。
山口宗家の寺部城主山口重俊が戸部城に攻め寄せ、逆に重俊が討ち死にしたとあり、時期は不明だが、梅森北城の松平三蔵と思われる文献が今川に残る。
天文20年8月2日付の今川義元判物(蓮馨寺文書)によれば、山口内蔵と松平三蔵が天文18年に今川方に付くべく尾張の所領を捨てて三河に来たとする記述が載せられており、山口重俊に連なる山口宗家の山口内蔵が今川方へ逃れたことがわかり、寺部城主山口重俊の叛乱は天文18年と推測できる。
何故、叛乱に至ったのか?
山口宗家は笠寺を本拠地としており、笠寺との縁が深い。
笠寺の住職が罷免され、熱田神宮の大宮司が別当職を兼任することになれば、反発は免れない。
加えて、人質になっていた松平広忠の子である竹千代を『小豆坂の戦い』に先駆けて逃がそうとしたとか?
何らかの動きがあっても不思議ではない。
猶、『武徳編年集成』には、羽城の竹千代の世話をしていた山口監物の妻がやっており、寒暖に合わせて衣服の軽重を指示し、竹千代の世話を丁寧にやってうたという。
それを聞いた織田信秀は怒って、山口監物の妻を解任したとある。
面目を失った山口が叛乱に至ったとする。
順番はまったく不明である。
小説の本編では、
熱田の笠寺別当職の就任 ⇒ 山口監物の妻の放逐 ⇒ 小豆坂の戦い ⇒ 山口重俊の叛乱 ⇒ 松平三蔵の逃亡
そんな感じて繋げて進めていた。
実際、小説でも大幅カットでその当たりはほとんど残っていない。
◆熱田の笠寺別当
天文19年12月23日付織田信長判物
笠寺別当職について、織田信長が父・信秀の判形にのっとり参銭・開帳の収取権を熱田社座主坊に安堵する。
『増訂織田信長文書の研究 上巻』3号(「密蔵院文書」)より
◆今川の動向
天文16年8月29日 太原崇孚、牧野保成に援軍と兵糧について指示。
天文16年9月10日 太原崇孚、天野景泰の戦功を今川義元に報告したと伝える
天文16年9月15日 今川義元、松井惣左衛門に、田原大原構での戦功を賞す
天文16年9月20日 今川義元は天野景泰が田原攻略で活躍したことを賞す
天文16年9月22日? 日覚、越後本成寺に三河国を織田信秀が制圧したと報告
天文16年10月20日 松平広忠は筧重忠が松平忠倫を殺害したことを賞す
天文16年11月23日? 飯尾元時は天野景泰の軍功を報告した旨を本人に連絡する
天文17年3月11日 北条氏康、織田信秀の軍功を讃えつつ、自らは今川氏と同盟したことを伝える
天文17年3月28日 今川義元、西郷弾正左衛門尉が小豆坂で活躍した功を賞し知行を与える
天文17年4月15日 今川義元、松井惣左衛門・宗信が小豆坂で活躍したことを賞す
天文17年7月1日 今川義元、朝比奈藤三郎が小豆坂で活躍したことを賞す
天文17年12月20日 今川義元、大村弥三郎が天文15年より今橋・了念寺・田原で活躍したことを賞す(去々年と書かれているが、去年の間違いではないだろうか?)
(※)天文17年3月19日(1548年4月27日) 第二次小豆坂の戦い